裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

13日

月曜日

行方もセダカではない

『おお! キャロル』の頃はあんなに有名だったのに。朝6時起床、しばらくベッドの中でいろいろ思索。思索というほどのものでもないか。再度寝て目が覚めるとき、かなりロリな夢を見る。別段エッチではないのだが、映画で夫婦の役をやることになる私の相手役が小学校3年生の女の子、という夢。パジャマ姿でやたら可愛い子(モ デル無し)だった。なんで炉でもないのにこんな夢を?

 8時まで寝てしまう。朝食、バナナとリンゴ。西洋梨のようなしっとり感のある、不思議な食感のリンゴ。母はゆうべは元気になった、と言っていたのに今朝になるとまた鬱。もっともパソコンのマウスが急に効かなくなったそうで、これは私でも鬱に なるかも。

 雑用いろいろ、連絡事項いろいろ。ラジオライフのイラスト、ベギラマに依頼。速攻で返事と最近のイラストが送られる。よきママにおさまってしまったかと心配だったがまだ牙は失ってない感じでよし。それに添付されたメールでやりとり、余計なお世話全開で他人のことを心配する奇妙なメール往復しばし。ここらへんはおじさんと 主婦。

 12時にやっと仕事場へ。タクシーに乗ったら運転手さんが
「いやー、今日はえらい人乗せちゃったな」
 と言う。奥さんが私の大ファンなのだそうだ。テレビの威力すさまじ、と思ったが聞いたら著作のファンで、最近テレビに出ていることを知ったのだという。アメリカに音楽の勉強で留学しているうち、食うためにタクシー会社に勤め、そっちがいつの 間にか本業になって、帰国してもタクシーやっているというユニークな人。

 アメリカでタクシーなどやっていると、日本の国民が世界でも異常なくらい
「自分の身は安全」
 と無根拠に信じ込んで、無防備なまま歩いているかがよくわかるという。
「最近凶悪な事件が多くなったとかマスコミは言ってますが、加害者の方は変わらないと思いますよ。被害者の意識が低すぎるようになったんで相対的にそう見えるんですよ」
 ……タクシーの運転手さんの話というのはしかし面白い。

 仕事場着。京都の山田誠二さんから電話。謎の下血で入院中だが、別に痔も腫瘍もないので、他は健康体だという。某件のこと、ちょっと算段をお願いする。昼食、い つもの黒豆納豆。

 フィギュア王原稿、急いで、というより超特急で書く。メール送って、それから週プレにかかる。2時半までになんとかまとめ。3時時間割で、次週の対談。考えて見れば自転車操業だな。担当Mくんから十分ほど遅れるという電話。おぐりと雑談しながら待つ。おぐりに
「いつ見ても元気そうだねえ」
 と言うと
「最近は先生はいつもお元気でなさそうですねえ」
 と言われ、やがて来たMくんにも
「疲れオーラ大発散ですが大丈夫ですか」
 と言われる。これでも今日は大分いい方なんだが。

 テレビ局なんかに行くと、周囲がみんな疲れている。爆笑問題など、控室では疲れの固まりがそこにある、という感じ(特に太田)である。そういう人間たちが疲れた 脳で送り出すメッセージが日本を動かしている。考えてみれば奇妙な文化だ。

 対談は例の如し。楽しく進む。どうまとめるか、全然見えてなかったものがワンワードきっかけにうまく私の(疲れた)頭の中でまとまってくる。Nくんは来る予定が下血してしまって来られなくなった。知人友人が下血というニュースを一日二回聞く のもあまりないことかも。

 明日発売の号も貰ったが、みずしなさんのマンガが傑作。二人のやりとりもカチッと決まっていて、かなり完成度は高い回である。終わって仕事場帰り、フィギュア王Sくんと電話でやりとり。さらに関口さんに明後日の打ち合わせ場所、メールしよう としていたら携帯に当人から問い合わせの電話。

 6時、家を出てタクシー、新宿東口居酒屋『くらわんか』にて官能倶楽部解散会。解散と言ってももうこれで会わないというのでなく、主体がニフティのパティオだっ たので、パティオ自体消滅したのを機に発展的解消を、という趣旨。

 最初はパティオですらなかった。“さる業界の方々のHPでーす”という名称だったのでもわかるように、ホームパーティ(ホームページでもないよ)だった。12年くらい前のことか。睦月影郎さんの友人(当然、官能小説周辺業界の方々)の集まりで、作家の館淳一さん、安達瑶さん、ライターの倉田マスミさんなどがいて、確か佐川一政さんのパーティでお会いした内藤みかさんに入ることを勧められたのだった。

 官能業界にいたわけでもなかったが、ちょっと前にレディコミをやっていたので、官能の裾にはいたわけだし縁がないわけでもない、と思い参加した。まだ睦月さんが中堅、安達さんが新人からやや脱したあたりという感じの位置づけで、内藤さんは女子大生作家の尻尾を引きずっていたと思う。みんな、これから天下を取るぞ、みたいな上り坂の雰囲気があり、そこに女性官能作家としての独自の地歩を築いていた藍川京さん、ベテランの館さん、矢切隆之さんがいて、互いに業界のことを教えたり教え られたりしていた。

 あの当時、SF界あたり中心に、作家個人が熱心なファンたちとパソを通じて交流するというところはあったが、プロ作家同士がこのようにパソを通じて情報交換の場 を持つというのは、かなり珍しかったことのようだ。
「そんなことはやめろ。出版社が絶対快く思わない」
 と説教されたメンバーもいたようだったが、実際、部数だの原稿料だの、版元からの困った要求だのといった、他の場所ではまず聞けない現場の生の声が飛び交い、と にかく刺激的だった。

 なかでも最も刺激を受けたのは、仕事の内容ではなく、仕事の量、のことだった。官能作家はある意味、出版点数の“量”でしか売れっ子という認知がなされない。睦月さんが仕事量では抜きんでていたが、他の人たちも、とにかく書く。それまで、ライターとして仕事量では人にひけはとらないつもりでいたが、ここに来ると、私などはごく平均の執筆量、に過ぎなかった。質が量によって生み出され、支えられる。そういう世界を実地に見ることが出来た。かなり意識の上での刺激になり、また、それだけの仕事をどうこなしていくかというそれぞれの工夫のようなものがわかって、勉 強になるどころの沙汰ではなかった。

 中心は常に睦月さんだったが、単なる仲良しグループではなく、仕事もとれる一単位にしましょうという提案を持ってきたのは、亡くなった矢切隆之さんだった。朝日ソノラマにつなぎをつけ、本を出すことに尽力してくれたのも矢切さんで、だから最初の打ち合わせというのが有楽町のマリオンの14階の、『談話室』という朝日新聞社御用達のクラブだった(朝日ソノラマが朝日の子会社だったから使用できたのである)。銀座を見下ろす知的でハイソな雰囲気の中でビールなど飲みつつ、どのエロ小 説を載せるか、などと打ち合わせするのはいい気分だった。

 そこで、グループ名を決めましょうということになったが、官能クラブという名称を最終的に決定したのも矢切さんだったと記憶している。私は“クラブは漢字で倶楽 部と書いたらいいのでは”と意見を言った、はずだ、確か。

 ただ、ここでメンバー中から、この出版社と仕事はしたくないとダダをこねた人とか、自分の弟子筋の人間が執筆メンバーに入らなければ自分も降りる、と言い出す人とかが出て、矢切さんは(温厚な紳士なのであまり感情を表に出さず本を最終的にま とめたけれど)かなり語気を荒げて、私のところに
「××さんの態度はどう思われますか!」
 と電話がかかってきたりした。 矢切さんが後に不幸な事故死を遂げたあたりで、メンバーに求心力が失われていき、結局“官能業界人”グループという性格を薄めて存続させざるを得なくなったのも、これだけ矢切さん個人が結成に力を入れた団体だからではなかったか、という気がする。とまれ、アマチュア(余技)ライター集団としての最高峰であると学会と、徹底したプロ集団としての突出グループだった官能倶楽部。その双方に創立当初から籍を置け、双方向からの視点を学べたということは、私のモノカキ人生の運のよさ、としか言いようがない。

 そして、そのどちらでも自分がいわゆる“傍流派”であったことが客観的に、自分の職業にプラスになるポイントを汲み取れた理由でもあるだろう。一時は官能倶楽部のメンツで十日に一度はメシ会、飲み会などを行い、私の日記を読んだ岡田斗司夫さんが
「なんでみんなで家建って一緒に住まないんですか」
 と呆れて言ったくらいだった。

 そんな仲間がやがて疎遠というほどでもないが会う頻度が減っていき、パティオも開店休業状態になってしまったのは、ひとつにはメンバーみんながそれぞれ一家をなして忙しくなっていったということ、そしてインターネットで個人々々がサイトを運営できるようになったことが原因だろう。パソコン通信を使っての、どこか秘かな内輪話の快感がネット時代になって薄れていってしまったわけだ。ミクシィに例えば官能コミュを作って、ということも考えれば出来るだろうが、あの時代の、濃密な共犯 意識はもう持てないかもしれない。思えば10年の歳月は長い。

 本日集まったメンバーは睦月さん、みかさん、安達O・Bさんといった初期グループに私たち夫妻、開田夫妻、ひえだオンまゆらさん、そして立川談之助さん。串間努さんもメンバーなのだが最近は忙しすぎてどこにも顔を出せないとやら。以前出していた同人誌『官能博覧会』の売り上げがまだ少し残っているので、その分で飲み物は出すという。さまざまな話題飛び交い、ワイワイと。

 8時半ころ出て、駅近くのカラオケへ流れ、懐かしソング中心にカラオケ大会。最後に睦月さんの選曲で、『正太郎マーチ』を合唱してお別れ。なんで正太郎マーチな のかよくわからないが、妙に合っていた。そう、あの頃のわれわれはみんなで
「力あわせガオッと」
 進んでいたよ、一生懸命に。いい思い出の10年間を作ってくれた睦月さんに、今は亡き矢切さんに、感謝。開田夫妻とタクシー乗り合って帰宅、メールチェックし、 シャワー浴びて1時半就寝。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa