裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

24日

日曜日

腹が鳴る山の呼び声

 シェーン、おなかがすいたよー。朝、夕べの調整が効いて6時起き。しかし、早朝から雷がゴロつく天気で、気圧極めて不安定、体も頭もピクとも動かぬ感じで、K子はずっと寝続け、私も朝食のあとまた寝て、結局10時起き。

 それから少し回復、仕事ちょこちょこするが、風呂入るとまたダメで、ベッドの上で死体のようになって過ごす。右手の人指し指に湿疹のようなものが出来ており、掌に湿疹が出来るのは免疫力が弱って命も長くない証拠、などという説を思い出して、いささかゾッとする。まあ、厳密に言えば掌ではないけれど。鶴岡から電話があるが頭がまるで動かず、アーとかウーとか応えるのみ。このままではいかん、と自分を鼓舞して、昼飯にアナゴ茶漬けを作って食う(アナゴの時雨煮を細かく切って、三つ葉と一緒に御飯にのせ、熱い昆布茶をかけて食べる)。さらにアリナミンと、麻黄附子細辛湯。これでだいぶ元気になった。

 朝刊の読書欄、書評は文頭で読者をつかめ々々としょっちゅうこの日記で言っているが、まさかここを読んだわけでもあるまい、東工大助教授の上田紀行の評(斎藤孝『身体感覚を取り戻す』について)の冒頭の一行がスゴい。
「この本は面白いよ!」
 である。コピーライターの川崎徹が、夢は食品のCMで“おいしいです”と言うだけのコピーを書くこと、と言っていたが、そんなことを思い出させる。果たしてこれ で読者をつかめるのか(驚かしはするだろうが)?

 寝転がりながら『好色艶語辞典』読み継ぐ。落語の『らくだ』に出てくる“かんかんのう”の“かんかん”は中国語の“看々(見よ見よ)”で、足を高く挙げて踊る。これがヨーロッパに伝わり、“フレンチ・カンカン”になった、というのはホンマかいな、という感じ。

 夕方になって完全に体調回復。湿疹もおさまった。喪服に着替え、7時過ぎに家を出て高円寺へ。式場の平安祭典までの道を交番で訊き、歩いていく途中で、幸三叔父夫婦に出会い(彼の長男はよく私のトークライブにやってくるし、次男は鶴岡のドリフト道場のメンバーであるヲッカの大学の同窓生である。世の中はせまい)、共に新谷の大伯母(小野栄一の義母)の通夜に出席。受付にデッちゃん(従兄弟)がいる。三年ぶりくらいだが、髪がすっかり白くなり、頭のてっぺんが薄くなっているのに驚く。髪がタヨリなくなっているのは当方もご同様だが、私は顔も順当に老け顔になっているのに、彼は顔だけは若く、陽に焼けた健康そうな皮膚の色なので、いっそう髪が目立つ。サーファーはやはり髪が早く傷むな。痩せて、顔は若いころの小野栄一に ソックリになった。

 伯母の顔をおがむ。今から二○年ほど昔、阿佐谷の家で行われた彼女の御亭主の葬儀に出席したことを思い出す。行年九○ということで、まさに眠るがごとき死顔であり、唇にうっすらと紅を塗られて、可愛くさえあった。昨日観た映画が映画だっただけに、何か妙な気分であるが、ああいう死体とは別物、という感じがする。坊さんが来てお経を詠んだが、これが一向にありがたくない。有髪の坊主というやつが私は大体嫌いなのだが、この坊さんは特に、顔が会社の課長さんという感じで、それらしさがない。この人の親父である亡くなった先代住職というのが、立川談志と小学校の同級生と聞いた。ひょっとしてその息子となると、私より若いのかも知れない。経の後が法話なのだが、蓮如上人の白骨の御文という、世のハカナサを諭したもの。若くして死んだ者の葬儀でならともかく、天寿をまっとうした人の通夜の席なんだから、も少し何か、他に話すこともあるような気がした。

 その後の会食の席で、五年ぶりに森さんと話す。小野伯父がやっていた芸能プロダクションのマネージャーで、末期、私が社長を引き受けてから、文字通り共に胃の痛む思いをした仲。その後、アルバイトで務めた水質検査の会社だかで正社員に昇格して、今では会社で一番イバっているとか。彼らしい。昔の所属芸人さんの話から立川流のことになり、志ん朝・談志の芸と人格の比較論となる。虎の縞は洗っても落ちないな。しかし、デッちゃんに比べ、森さんはもう五○も近いだろうに、髪の毛は黒々として、顔も万年青年風、少しも老けてない。これには驚く。

 8時半、そこを辞して渋谷に戻り、居酒屋九州でK子と落ち合う。長野行きの予定立ての話などをしながら、馬刺し、小鯛南蛮漬けなどで焼酎、それからモツ鍋。柚こしょうをたっぷり入れて味わう。先日開田さんが入れた焼酎のボトルを空け、新しいのを入れる。体力、回復したとはいえ全般的に落ちている証拠に、酔いがやたら回ってグルグルした。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa