裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

9日

土曜日

ジョコンドガエル

 ひろしのセーターにはぺちゃんこになったモナリザが張り付いてしまいました。朝6時起き。なぁんか、このスィートに一晩しか泊まれないのは残念だなあ。セミダブルの広いベッド。枕はひとつしか備えられていなかったが(私は枕が低いと安眠できない。昨日のノボテルエアポートホテルの枕はただのウレタン板入りのペラペラのものだった)、バスローブがあったので、それを枕の下に敷いて高くして寝た。不思議なのは、ゆうべベッドに持ち込んで読んでいた岩波文庫の石川淳『至福千年』が、ど こを探しても見つからなかったこと。

 シャワー浴びてヒゲを剃り(K子の化粧用ヒゲ剃りを貸してもらった)6時半、着替えて八階(最上階)のレストランへ。開店一番に飛び込む。バイキングがやたら豪華で、ハム、ソーセージ類は豊富、ヨーグルト、果物も揃い、パンはロール類の他に食パンもあり、自動トースターで焼いて食べられるし、そのトースターは開店早々であってもちゃんと焼き網に熱く火が通っている。電気をふんだんに使える証拠だ。その脇は卵のコーナーで、ちゃんと専用のコックが、お好みに焼きますという感じで控えている。社会主義時代でも、このホテルは言わば資本主義租界のようなものだったのだろうが、味はどうだったか。昨晩といい、今朝のこの朝食といい、K子のポーランド語の先生が“ポーランドではおいしいものはまず、食べられません”と言ったセリフをことごとく裏切っている。ただし、卵に関しては、みんながてんでに“サニーサイドアップ”“オムレツ”などと頼んでも、みな“ニェット”と断られ、ことごとくスクランブルド・エッグにされる。ここらへんだけに、社会主義政権時代の名残が 感じられて、かえって面白かった。味は最高。二つで日本やアメリカでの普通の卵一 つと同量くらいの小さい卵だったが、黄身が濃厚。ポーランドの定番調味料という、何とかいった魚醤をかけて食べるとさらに美味。

 満ち足りた朝食の後、あわただしく荷造りをして(石川淳、やはり出てこない)、チェックアウト。バンに乗り込み、さて、オシフェンチム(アウシュビッツのポーランド式表記)に。市街から出て約一時間、田舎道といった感じの道を、運転手、飛ばす々々。堀越さんも、いまだに当地の運転にはヒヤヒヤすると言っていたが、私の経験した限りでも、車の運転の乱暴さは上海とここが双璧である。

 朝、やたら早く出発したのは、普通、アウシュビッツ見学はわれわれのような小人数ということはなく、十数人以上の団体が多いので、混み合わないうちに、ということだったのだが、おかげでじっくりと回れる。有名な“Arbeit Macht Frei”(若いライターたちの仕事場に掲げておきたいね)の門をくぐると、収容所に使用されていた建物群が、現在は博物館となっていて、そこを巡る。

 アウシュビッツとそこでの惨劇について、ありきたりな感想は述べない。それはこのような日記のニンではない。インターネットなどで検索すれば、膨大な量 の文献を見ることができるだろうし、その体験記も研究も書店の棚に汗牛充棟だろう。たった数時間の観光旅行でエラそうな意見を述べたくはない。ただ、行ってみないと実感できないことがあるんだなあ、と感じたことのみを記すと、イメージしていた残虐の本山、悪鬼の獄舎、史上最大の屠殺工場にして非人道の壮大なる実検室、といった雰囲気はまったくない、ということである。ガス室はなかった、という論を唱える人々が出てくるのも、ここの設備にそういう残忍性が全く感じとれないところからなのではないかと思う(あの西岡って医者、どうしちゃったろう。一時、彼の提灯持ちをニフティのあちこちの会議室で白泉社の細田均がやっていたことがあったっけ)。

 ここを回ってひしひしと感じられるのは、極めてドイツ的といっていい能率的な事務施設である、ということだ。虐殺されたユダヤの人々の写真が廊下にずらりと貼り出してあり、たぶんその身内なのだろう、老いた婦人がそこにロウソクを手向け、静かにたたずんで祈りを捧げていた。それは、見ただけで心痛む光景だが、逆に考えると、このように収容者一人々々の記録を克明に残していた、という事実が、ここでの虐殺が秦の始皇帝やジンギスカンのそれとは全く異なる、事務的作業であったことを物語っている。残された膨大な髪の毛だのクツだのブラシ類だの眼鏡だの義手・義足だのの展示には圧倒されるが、これにしたって、時計や金歯という、再利用が効くものをドイツへ送り返した後の不用品なのだ。いっしょくたに始末してしまえばいいものを、かく、神経質なまでに律儀に分類整理する事務能力の優秀さが、ドイツ人をして、ユダヤ人をいかに能率的に屠殺していくか、に腐心させたのである。確かに、虐殺否定派から見れば、こんな小規模な焼却炉で一五○万というユダヤ人の死体を始末できるわけがない、と思えるだろう。それは、悪魔的巨大炉に犠牲者が次々放り込まれて悲鳴を上げながら燃えつき、灰になっていくのを、ナチの変質的将校が目をギラつかせ、ニヤニヤしながら眺めている、というB級SM雑誌の表紙(そういうものばかり集めた画集がある)的なイメージにとらわれているからだ。たぶん、実際の焼却作業は、毎日々々黙々と、定められた人数を事務的に、地道に繰り返し繰り返し炉を使い、灰を掃除し、また火を起こしては処分していく、という非ドラマ的、日常作業的な方式で片付けられていったのだ。そちらの方が考えてみるに底無しに恐ろしい。人毛から毛布を作ったり、脂肪の石鹸だの皮のランプシェードだのをこしらえたりしたのも、よくアウシュビッツ展なんかの感想文コンクールで高校生あたりがさかしらに書く“人間の残虐性を見せつけられた”みたいな猟奇の産物ではない。これだけ収集した“人的資源”をこの国家非常時に、なんとか有効利用できないものかという、戦時における極めて実際的な発想の末の実検結果なのである。

 もちろん、私や談之助のことである。次々に無責任、放送禁止的な感想を飛ばしながらの見学であったが、さすがに回りの目もあり、いつもに数倍する神妙さで見学していた。それだけの無言の重みがどの施設にも染み込んでいる。唯一、こらいかんなと思ったのは、ユダヤ人の虐待を示すボードに描かれているイラストであった。豚のように太ったナチたちが残酷そうな笑みを浮かべながらユダヤ人を責めさいなんでいる図で、そこには画品というものがまるで感じられない。先に上げたB級雑誌、日本でも『奇譚クラブ』とか『風俗草紙』とか、そういった雑誌によく転載されていた変態絵図に極めてよく似たタッチである。まあ、こういったものが私の守備範囲なので喜んで写真を撮ったりはしたけれど、あえてユダヤ人の方々に苦言を呈するならば、こういうものを掲げるから逆にガス室否定派などが出てくるのだ。堀越さんも言っていたが、最近の世論は一時のナチ絶対否定的見解から少し冷却され、収容所経験者からも、ナチの中にも悪人ばかりいたわけではなかった、という証言が出ているということである。そちらの発言の方がよほど勇気がいることだろう。

 私だけが知らなかったのかも知れないが、一番意外だったのは、虐殺に使用された毒ガス、チクロンBが固形だったこと。実際には、石灰状の粒に成分が染み込ませてあり、カンをキコキコ開けて、これをザラザラとユダヤ人収容者をスシ詰めにした部屋にまき入れれば、密閉された室内の湿気(収容者たちから発せられるもの)を吸って、それに反応して有毒ガスが発生する仕組みである。手早くやればそれを扱うドイツ兵の方は全く危険がない。なるほど、これなら防毒設備(ガスマスクなど)を使わ ずに、簡単に扱うことが可能だし、処置する人数何人につきどれだけの分量を使用す るか、という計算も楽である。こんなところにも能率を重んずる収容所気質が。それにしても、友人の某会社員評論家の作になる傑作放送禁止替え歌(♪いいユダヤ、いいユダヤ、ガスが天上からプシューッと背中に・・・・・・)があるが、実際は“ガスが天上からザラザラッと背中に・・・・・・”だったのね。

 もちろん、ここの担当だったナチ将兵たちに残虐性や変質的なところがまったくなかったとは言わない。しかし、考えてみれば、ナチス中枢も、残虐性のあるものや変質者という基準でこの収容所の管理担当者を任命したわけではあるまい。昨日まで、ごくフツーの市民だったドイツ人たちが徴兵され、さらにこの施設に送られて、毎日々々、同じ人間を屠殺していく勤務につかされた。悪臭や非衛生的環境にさらされていたのは、管理する方も同じである。ヘンにならない方がどうかしているのではあるまいか。

 ナチ残虐実検の実例である一角に案内される。最も印象的だったのは“立ち牢”という、二メートル四方くらいの、窓も何もない、下部にかがんでやっとくぐれるくらいの鉄扉のついた牢屋である。いわゆる懲罰房であり、ここに、反抗的だったり規則違反を犯したりした収容者を四人、ぶちこむ(一人を罰するときも、たぶん誰か他の三人を無作為に選んで入れたのだろう)。広さは四人がなんとか立てる程度。当然、座ったりしゃがんだりは出来ない。しかも全く光のない真っ暗闇である。一晩入れられただけで、精神的に弱い者ならよくて発狂か、悪ければすぐ死亡するだろう。そのアイデアに驚嘆する。また、窒息室というのも見せられる。意外にも、一見するとごく普通の部屋で、ドアも木製で、やや厚くて重いのみで、特に機密性のある作りではないし、なにより通気孔だってちゃんとある。ただし普通の窓よりはかなり小さく、上の方にしつらえてある。これだけで、人間というのは窒息死するものなのである。大がかりな設備などなしに虐殺というのは可能なものなのだ。こういうデータを研究して残したのみで、この施設の悪魔性は後世に語り継がれるに足るだろう。しかし、これもまた、あくまで“大量の収容者を能率的に管理するにはどうするか”という、戦時における施設運営法の発展形の一思想に過ぎない。第一これらの施設も、前に読んだり聞いたりして予想していたよりはるかに小さく、地味なもの。“ナチスの科学は世界一ィィィィ!”とばかりに、莫大な予算と科学の粋をつくして人間虐殺の新案技術を編み出していった一大猟奇施設、という、卑俗なアウシュビッツ観は全く払拭 されたことであった。

 最後に博物館(ここの入口に収容者の悲劇を表現した、苦悶するゆがんだ人体の像があるが、どうも『遊星からの物体X』のクリーチャーに見える)で、収容所の記録映画を観る。客席を見回すと、日本人らしい観光客もいて、しかもそれが、どうやら新婚旅行らしい。われわれ一行も脳天気だが、新婚旅行にアウシュビッツ見学を選ぶ感覚もスゴいものである。

 陽射しはようやく昼のそれになり、暑いくらい。売店でおみやげ(絵ハガキ、ビデオ、写真集のたぐい)を買い、生ぬるいコーラを買って、バンで次なる収容所、ビルケナウへ向かう。ここはアウシュビッツを粗雑な作りにしたような収容所で、馬小屋か牛小屋のような建物が並んでいる。どうせ殺されるならまだアウシュビッツの方で殺してほしい、と思えるような設備である。とにかく、ナチスドイツはあれだけの強さを誇った国でありながら、ユダヤ民族のジェノサイドという無為無益な大事業に、徹底して国力を浪費して衰弱していったことがよくわかる。談之助曰く、“こんなど うしようもないことさえしなかったら、アフリカ戦線でだって勝てたのに”。

 収容者たちを運んだ貨物列車の引き込み線がまだ残っており、それをつたって、ガス室と焼却設備の跡(終戦時に爆破された)まで歩く。一キロ近い距離を直線で歩いたのはひさしぶりの経験であったが、さほど疲れず。ガレキとなった施設を見る。ユダヤ人の家族が置いたらしい、ダビデの星のマークの入った小さな立札がそこかしこにある。不思議なのは、戦後五○年もたって、日本なら草茫々となるであろうところが、いまだ赤茶化た土がそのまま露出しているところ。“除草剤をまいているのかねえ”“ガスがまだ染み込んでんじゃない?”などと会話。談之助は写真撮りまくり、K子はガス室跡の石を拾って大事そうに包んでいた。帰り道、堀越さんにおそるおそる“いいユダヤ”の替え歌を教えたら、ちゃんと笑ってくれた。

 何か背中にドッとのしかかっていたものが取れたような感じで、帰りの車中はみな陽気になる。堀越さん、K子とポーランド語談義。彼のポーランド語は野武士式で、 みな現地の実践で学んだものなので、文法も語尾変化も無茶苦茶。それでも通じちゃ うのがコトバというものの不思議さ。なにしろカタコトでもこっちの言葉を学習して来た客は初めてで、これまでにいろんな団体を案内したが、今回は非常に楽しい経験でした、との言ってくれる。どんな団体が来ましたか? と訊くと、例えば電力会社のエラいさんの一団が観光に来て、城より収容所より、デンセンが見たい、デンセンの下に連れてってくれ、と言ったそうだ。ポーランドの送電鉄塔の形のバラエティに富んでいる(早い話が基準がバラバラな)ことを飛行場からの道で見て仰天したらしい。仕方ないので山の中腹にある鉄塔のところに連れていったら、その下に立って電線のうなるビューンという音に耳をすまして、目を輝かせ、
「うひゃあ、こりゃかなりの電圧だが、よくこんな状態の電線で送れるなあ!」
 と、感嘆一通りでなかったという。いろんな人がいるものだ。もっとも、確かにこの国の電力事情は社会主義政権の名残で実にいいかげんであり、しょっちゅう電圧が 下がったりして、パソコン普及をはばむ原因のひとつになっているという。

 そこから空港へ。そこのラウンジで軽食をとる。ところが、これがなかなかバカにならない味。K子のとったグーラーシュ(ビーフシチューみたいなもの)を分けてもらったが、この味もなかなか、であった。どうも、ポーランドに対する偏見を徹底して改めねばならぬようである。私は、昨日のガリーツィアから持ってきたキジの肉を齧る。これがバカうま。K子と堀越さんもかぶりついて、“うまいですねえ!”と感嘆する。ポーランドの地ビールやりつつ非常に豪勢な気分にひたる。今回の旅行でまず、第一等の味わいであった。

 堀越さんに、今回の旅行を記事にしたら本を送ることを約して別れ、飛行機(行きと同じチロリアンのターボプロップ機)でウィーンへ。5時近く、ウィーン空港着。ここで一団は二手に別れ、談之助夫妻は新婚旅行でオーストリアのブラウナウ(ヒトラーの生地)へ向かう。われわれはイタリアへ。とりあえず時間があるので、ウィーン駅に荷物を預け、タクシーに分乗して、ウィーン名物ホイリゲ(ワイン居酒屋の如きもの)へ向かう。運転手の爺さんに安達Bさんが、どこかいいホイリゲを知っているかというと、山の方に実にいいところがある、という答え。ではそこへ行こう、と案内させる。さらにBさん、おすすめのワインがあるかと聞くと、知ってるとも、ワシの妹の亭主はフランスでワイン鑑定士をやっているのだ、と自慢し、ツヴァイゲルト(二枚の金貨)という酒を教えてくれる。Bさんという人、今回の旅行でわかったが、自分の目的とか欲求に関してかなり粘着的性格を発揮して食い下がるタイプで、 こういう旅行の先導役には適任と言えるかも。

 そのホイリゲであるが、かなり山を登ったところにあり、帰りの足が心配になる。それを察したか運転手の爺さん、何時の予定か、ワシが迎えに来てやろう、と言う。談之助たちが8時の列車なので一度それを迎えにきて送り、さらに取って返して我々 を迎えに来る。まあ、いい客ではあるだろうが。

 爺さんが自慢するだけあって、そのヴォルフなるホイリゲ、ワインもつまみもなかなかである。ここでやっと本場のウインナーシュニッツェルを食う。それからアイスヴァイン、ブルートブルスト、ザウアークラウトなど、どれも美味。私がツマミ担当となってケースの方に行き、安達Oさんにさっきの酒を注文するよう、爺さんの書いてくれたメモを渡して頼んでおいたら、巨大なカラフェが二つも来ていた。何で二本も頼んだの、と言うと、エ、だってツヴァイと書いてあったから、と言うので大笑い(サザエさん的ギャグ)。結局一行中一番飲ん兵衛の私がほとんどをあけるハメになり、爺さんが二度目に迎えに来てくれたときにはかなりのベロとなって、タクシーの 中で寝こけてしまった。

 ウィーン駅では構内の地べたにエロ雑誌をべろーんと並べて売っている(日本のように古雑誌を売るのでなく、新刊をである)。K子、ホモ雑誌を“オリジナルオーストリアゲイ?”とか訊いて買っている。11時発車のヴェネツィア行き一等寝台車。『オリエント急行殺人事件』のような、とまではいかないが、以前札幌行きで乗った北斗星よりは数倍高級な感じの車両で、寝台も広く、洗面台もついている。ゴトゴトゆられているうち、ワインの酔いも再び回ってきて、心地よく眠りについた。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa