裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

火曜日

不動産お母さんを大切にしよう

 母の土地を狙っているな。昨日、早めに寝たせいで朝5時ころ目が醒めてしまい、無聊なままに京須階充『みんな芸の虫』(青蛙房、1989)を読む。不勉強で初読だった。それは、『圓生の録音室』で感心したあと、この人の他の文章にはちょっと気取りが見えて、クサくて敬遠していたためなのだが、その気取りの際たるもの、とも言うべき集中の一編『出口一雄〜鬼の目にも涙』で、不覚にも落涙してしまった。出口一雄はTBSラジオ草創期の演芸プロデューサーで、圓生をはじめ文楽、志ん生などをいち早く専属とし、一大落語王国をTBSに築いた伝説の人である。私みたいなものでも業界の端っこにいたものとしてその名前は知っている。『圓生の録音室』では、筆者の京須が圓生のマネジメント管理を引き受けている出口のプロダクションを訪ねるところが前半のポイント(出口がグイと拳を握って突き出し、三遊亭はこれだ、というあたり)にもなっている。

 この『鬼の目にも涙』は、前著では傍役の一人に過ぎなかった出口一雄を主役に据えた、この江戸っ子の、ひねくれ者の、しかし人情家の、昔かたぎの、落語を何よりも愛し、未だに一家言持つうるさ方として敬意を払われてはいるものの、やはりもう人生のたそがれの迫った一人の男のポートレートとして出色である。エピソードも豊富だが、やはり最後の、文楽の全集レコードを出す際の話がいい。そのとき、レコード会社と監修の山本益博は、TBSで昔出口自身が録音してあった、文楽の『品川心中』と『鶴満寺』を集中に収めようと企画する。この二席は、文楽自身が意に満たぬものとして自分の演目から封印したものが、幸か不幸か録音が残っていたものであった。山本は、桂文楽の、世に知られていない、しかも失敗作である演目を世に出すことで、没後ますます定評の固まってきた名人・文楽の像に、新たな光を当てることを意図した。出来は確かによくないが、磨き上げられた逸品と並べてそれを聞くことで世の落語ファンは文楽像を初めて立体化させることができるのではないかと。しかし出口はこれに猛反対する。涙を浮かべてかきくどく。“そんなことをしちゃア黒門町 (文楽)がかわいそうだ”と。
「文楽のいいところだけでなぜ全集をつくってくれないんだ。いいものも悪いものも半々っていう噺家じゃアないんだ、黒門町は。数は少ないがみんな飛び切りに良くって、ただあのふたつだけが間違いだったんだ。文楽のためにもあの二席には封印をしてやってくれ。なア、頼む」

 私の考え方は、どちらかと言うと、いや、言わなくとも山本益博のそれに近い。私や山本氏でなくとも評論家という肩書を持つものにとり、完璧と言われた名人の失敗の記録があれば、それは第一級の資料として目に映り、それを世に出すことで世間の文楽像を一変させる、その反響の予想に酔うだろう。それが近代評論というものの仕事でもある。だが、明確にそちらの側に立つ者であるからこそ、この、感情論に過ぎぬ、老いの感傷に過ぎぬ、出口一雄の言に感動する。没後なお、その名誉のために涙を流す理解者を持った桂文楽をうらやましく思う。自分がこういう風に感ずることが意外であるが、早朝の、まだ脳内テンションが上がらぬ時間帯に読んだことで、お涙な表現に対する抵抗力が弱まっていたのかも知れない。また、司馬遼太郎の、“人間は自分の体質とまったく相容れない思想にこそ、あこがれ、感動するものである”という言葉の実証なのかも知れない。

 結局もう一度寝て、8時起床。朝食はカニサラダとライ麦パンのトースト。果物はフジリンゴ。日記アップして、仕事上の連絡などをざっとすまし、有楽町へ。OTCの仕事で、『平成極楽オタク談義』というCS番組出演。毎回、濃いゲストを招いてあるテーマについてオタクトークを繰り広げるという趣向。二回同時収録で、第一回目のお題が『サンダ対ガイラ』、二回目が『ガンプラ』。一回目のゲストが氷川竜介さんとウェイン町山さん、二回目が高橋昌也さん、アナハイム女子部のことねさん。いやあゲストが濃い濃い。町山さん久しぶりで、子供も大きくなってマトモになったかと思えたが、やはり目に狂気がある。“ハリウッドではフランケンシュタイン博士のクリーチャーのことをフランケンシュタインと呼ぶ”“『フランケンシュタイン対バラゴン』のタコの出てくるシーンは海外向けバージョンである”などというオタク的通説が全部デマであると聞いてオドロイた。私ごときは知識でもタチウチできません。岡田さんはただひたすら感心していた。司会は準備不足と、〆切原稿を放ってきたことがアタマにどうしても引っ掛かり、心ここにあらずという感じで不出来。ガンプラは私は門外漢なのでどうかと思ったが聞き役に徹することで、かえっていい進行係になれたと思う。

『サンダ対ガイラ』で、ガイラが女を食うシーン、日本版ではそのあとペッとガイラが吐き出すのは被害者が持っていた花束であるが、海外版では衣服の切れ端になっている。アメリカのバカ観客には、花束で“食われた”ことを表す、などという関節表現が通じないんだそうである。“女が花束になった、と思っちゃう”。そう言えば、昭和ガメラの湯浅監督が、“怪獣対決映画はそれぞれの怪獣の出の方向を場面々々で統一しておかないと、観客に同じ怪獣が二匹いると思われる危険性がある”と言っていた。それを聞いたときはソンナ馬鹿はそうおるまい、と思ったのだが、とにかく徹底して理解度のない客が観ている、ということを念頭におかないと、怪獣映画の演出はつとまらないらしい。ここで聞いた話によると押井守の『アヴァロン』は、海外プロデュースをかってでてくれていたジェームズ・キャメロンに“ワケわからん”と言われて、結局日本公開のみになってしまったそうである。そりゃそうだよなあ、日本人にすらワケわからんのだから、アメリカ人、いやカナダ人のキャメロンにはなあ。

 丸の内線で新宿まで出て、モスバーガー一個で腹が減っているので立ち食いでザルソバ一杯。帰宅して仕事。『男の部屋』『Web現代』『SFマガジン』とセッパつまっている。二見のYさんとの打ち合わせ、明日の予定だが、電話して4日に延ばし てもらう。

 結局、昼にエネルギーとられ、原稿はどれも半チクのまま、10時すし処すがわらへ。隣に座っていたアベック、女の方がテッテイテキに酔っぱらってハイになっていて、“へにゃへにゃへにゃ?”みたいなしゃべり方をし、突如きっきっきぃ、と笑ったりする。マグロの刺身を口に加えて、ソッチからくわえて引っ張ってぇ、などとはしゃいでいる。それが若い可愛い子ならいいが、もういい加減トウのたったねえちゃんなので、いささかヘキエキする。男の方が恥ずかしがって、すぐ帰る。大将もタケちゃんも、出たところすぐガラス戸のところへトンでいって、のぞいていたが、すぐ向かいのホテルに入った模様。あんな状態の女とできるのかね? 寿司は白身、コハダ、甘エビなど。海苔が新海苔で、出前の海苔巻きの香ばしい香りが店中にただよっ ていた。

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