裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

木曜日

カラーズの勝手でしょ

 有色人種よ、白人におもねるな! 朝8時まで熟睡。よほど前日、疲れて(気分的に)いたのかと思う。K子、具合はいいようだが大事をとってリンゴのみの朝食。例の“RE:”のウイルスメール、このところ毎朝届いている。剣呑なこと。サンマーク出版からメール、『すごいけど変な人』、重版の知らせ。おお、と驚く。以前の日記にも書いたけど、この本、試験販売の成績がよかったことで会社が、最近の私の本の初版平均よりかなり多くの部数を刷ってしまったのである。動きがなかったらどうしよう、と心配していたのだが、一ヶ月待たずに重版である。これで、持論であった“本が売れないのは、初版をケチるから。人目につかないものが売れるワケがない”が証明されたように思う。このデータをもとに、他出版社にもプレッシャーをかけるとするか。なんでも、名古屋での動きが非常にいいとのこと。当分、いしかわじゅんや高千穂遥のワルクチを言うのは自粛しよう。

 K子、昼あたりからまた痛みを訴える。粘膜が荒れているらしい。ニラ入りのおかゆを作って食べさせてやると、いくぶん痛みが薄れた模様。典型的な胃炎である。ナンビョーY子さんから、風邪が胃腸に入って胃炎になったのでは、とメールが来ているが、私も同意見。なんで昨日、ブスコパンが出なかったのか。やはり医者が動転していたのか、と思う。病院へ連れていこうと前もって電話させると、あまり来てほしくないような返答。“昨日医者をいじめすぎたからじゃないのか”と笑う。できれば緊急外来でなく、予約をとって正規の診療時間に来い、というわけであろう。そうも言ってられないので、またタクシーで連れていく。処置室にすぐ回されるが、そのときはちょっとおさまっているので何もされず、ただブスコパンのみ処方してくれる。計算して処方箋を出してもらい、薬が出るのに1時間近く待たされるというので、私は先に帰宅する。帰りついたらすぐに電話あり、出てのんだらスグ効いて、効きすぎて眠くなったとのこと。

 出かける前にアスペクトKくんから電話。『社会派くんがゆく!』も早くも増刷とか。いや、二冊連続して刊行した本が、どちらも同日にそういう報告受けるとはめでたい限り。あちこちの書店を回ると、どこでもたいてい2冊並べて置いてあって、小コーナーが形づくられている。これがいいのではないか、と思う。増刷といってもこの不況下、部数はしれたものだが、しかし年末に出した本が2冊とも版を重ねたことで、この成績が来年の刊行物の初版部数に反映してくるわけ。やや、ゆったりとした気分で年越しが出来そうである。病院から帰宅して郵便受けを見ると、何やらやたら達筆な(サインペン書きではあるのだが)文字が書き付けてある葉書が来ている。達筆すぎて判読に苦しむ。“近衛文磨”という名前だけは読み取れたので、ひょっとして『スゴヘン』に近衛のことを優柔不断とか書いたから、右翼あたりから苦情の申し入れがあったのか、とビクついたが、何か“脱帽”とかと書いてあり、誉めているようでもある。やっとのことで読み下してみたら、実相寺昭雄監督からの来信で、本を送った礼状であった。郵便番号のみはきちんと書かれているが、この達筆を読み取らねばならぬとは、郵便局員さんも教養の必要なことである。

 安達Oさんのサイトの映画ウンチクのコーナーに、私の日記に対するレスポンスであろう金子ゴジラ評が。こういう発展的議論は大歓迎である。今回のゴジラに関しては何回も言っているように、本格的論考は公開後までオアズケとするが、ただ、一言指摘しておきたい。安達さんが挙げている、革新的映画がそれまでの古臭い作品群を一掃してきた歴史は、果して映画界にどれだけのプラスをもたらしたか、ということである。『ウエストサイド物語』の出現がかつての(アステアに代表される)ミュージカルを一掃した後に、新しいミュージカル・シーンをもたらし得たか。黒澤の『椿三十郎』は、後にかつての『旗本退屈男』『鞍馬天狗』『新吾十番勝負』に匹敵する人気シリーズを生み出し得たか。いずれも、その革新は一、二作どまりとなり、映画界全体に新たな潮流を見い出すに至っていない。革新作というのは所詮、既成の権威をくつがえすだけのパワーしか持ち得ないのがフツーなのである(確かに旧ミュージカルは『ウエストサイド』を超える作品を作れていないが、『ウエストサイド』路線もまた、ついに『ウエストサイド』を超す作品を生み出せていないのだ)。金子監督の『ガメラ』シリーズがマニアのあれだけの賛辞を受けながら結局のところ3作で手詰まりとなり、007映画は人を変えていまだ作り続けられているにもかかわらず、『ダーティ・ハリー』はたぶんイーストウッドが独りで墓に持っていってしまうのは何故か。安達さんが否定されるもの、として挙げている“恋をして歌を唄って踊ってとか、超人侍が悪党をばったばったと斬っていくとか、インディアンを大量虐殺するとか、共産スパイをぶち殺すとか……”という単純な構成の作品こそ、映画というものが本質的に描くべき(それだけを、と言っているのではない)大衆の娯楽だからではないのだろうか。たとえどんなに椿三十郎がヒットしたにしろ、総合的に見ればその興業収入は戦前二十三本、戦後十七本を残した嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』の足下にも及ぶまい。そして、リアルな殺陣描写は、時代劇映画から女性観客を遠ざけてしまうという救い難いあやまちを犯したのである(東映で娯楽時代劇の助監督をしていた平山亨氏から、「ボクら若手が『用心棒』や『椿三十郎』にハマって、“これからはコレでなくちゃいけない! 古いものを一掃しろ!”って会社に迫って路線を変更させたようなものなんだけど、あれは今思えば失敗だったなあ」という、しみじみ無念そうな述懐を聞いたことがある)娯楽映画は質だけで語るべきではない。大衆全てに行き渡る量の要素を無視してはいけないのだ。そして、その量を維持する土台を守る、 これが全ての娯楽作品に課せられている使命ではないかと思うのである。
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 K子の容態がなんとか落ち着いたようなので、オジヤを作っておいてやり、私は上野広小路亭まで出かけて、立川流一門会。二部の前半のみ。ブラ汁、談修に続いて談生の『粗忽の釘』、里う馬の『権助魚』、ブラックの『湯屋番』。談生の時系列がコンガラかり、他の話がヒョイと混じりこむ『粗忽の釘』のシュールさ。快楽亭はまったく逆に、オーソドックスな湯屋番を、若旦那をこないだ新文芸座で見せてくれたビデオの、渥美清で全編通す。見ていない人には全く新しい、ユニークな若旦那の人物造型と思えたろう。あまりにハマりすぎて快楽亭、高座を降りても渥美清口調が止まらなくなり、“ネエちょいと、ここから神田神保町はどう行けば近いかねエ?”などとやり続けている。

 今日は本来は談之助、談生、ブラックの座談会を私司会でやって録音する予定だったのだが、快楽亭が次の用事で塞がっているというので、談之助さんとの打ち合わせになる。“泳ぎふぐ”という看板の上がっている『下関ふぐ』の店で、談生さんと三人、同人誌の打ち合わせ。ここはとらふぐを格安で食わせる店で、“この値段で?”という額でふぐちり、てっさ、白子刺しなどが出る。ヒレ酒は“次酒”と言って上からどんどんついでくれる(もちろん有料だけど)。同人誌のことから始まって、やたらマジな落語論。談之助さんが語る々々。志ん朝師匠の死は、結果的に見れば“志ん朝がいるから”と思って楽観していた他の落語家さんたちに危機感を持たせ、かえって落語界を活性化させたのではないか、という話。驚嘆したのは談之助さんが“あれ以来、あたしも「古典をもう一度しっかり語ろうか」という風に考えるようになったから”という発言だった。他の噺家さんたちにもこういう考えが広まっているとなると、これは面白いことになるかもしれない、と思う。三人だけで話すのはモッタイない、ロフトでやれたら、と思う。しかし、三人だけだったから、これだけ濃い話題も何の遠慮もなく出せるんだろうな。二時間限定ということで入ったのが、店が空いたこともあり、11時過ぎまで4時間、エンエンと。K子には悪いが、女房が脇にいては私も談之助さんもここまでは話し込めなかったろう。

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