裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

9日

金曜日

土曜日でない、土曜日でない?

 エッ、まだ金曜日、こらまた失礼……。朝8時ころ起き。雨、というより氷雨。暗くて寒くて。朝食、スープスパ。果物はリンゴ。新聞に“国会の止め男”・大出俊氏死去の報。79歳。よく差別的に“女性は政治家を見てもそのネクタイの趣味しか見ようとしない”と言うことがあるが、この言葉は大出氏から生まれたのではないか、と思ったことがある。それくらい、あのネクタイと縞のシャツの取り合わせの趣味は悪かった。“みんな反対、社会党”の代表みたいな政治家だったな(ちなみに、フルバージョンは“数におごりの自民党、みんな反対社会党、ロボットばかりの公明党、日本に合わない共産党、あるのかないのか民社党”である。作られた時代がわかるねえ)。全然関係ないが、むかし少年マガジンに連載されていた峯たろう・しのだひでおの『パンパカ学園』というマンガで、社会科の先生の名前が“民名半大(みんなはんたい)”という名前だったが、途中からこの先生だけ変えられてしまった。クレームがついたんだろうか。

 昨日ウチの郵便受けに入っていたチラシ。性と愛との交流というテーマで、成城大学教授の石川弘義氏(『欲望の戦後史』『マスターベーションの歴史』等の著者)の講演の案内。それはいいが、そのタイトルが『サクセックス・ストーリィ』である。こんなタイトルつけて、一般人が来るのかね? 主催は日性研というところで、一番笑ったのは、“当日は楽しいアトラクションもあります”という付記。こういう内容で、楽しいアトラクションっていうと、想像するのは……。

 雨で体調低下。昼は汁かけ御飯半杯。それからタクシーで六本木三丁目、二十世紀フォックス試写室でジョニー・デップ主演『フロム・ヘル』。切り裂きジャックものである。いまや切り裂きジャックは有名になりすぎて、ドラキュラと同じく、SF的な新見解でも入れなければ作品として使いにくくなっているネタであるが、この作品はそこらへん極めてオーソドックスに、その像に迫っている(真犯人もまるで推理クイズみたいな単純な伏線が犯人登場のときに張られるのですぐわかる)。ここらへんは、もっと山田風太郎の明治ものみたいな奇想天外さを予想していたので意外であった。王室の存在が事件の大きなカギとなっているというのは、これまでにも類似の解釈があったが、×××××××が犯罪隠滅の手先となっている、という設定をここまで見せたのはなかなか新奇なことに属するのではないか(トンデモさんがまた喜びそうだなあ)。ただ、推理がかなり論理的に展開していくのに、主人公のアバーライン(デップ)がアヘン中毒の幻影による予知能力がある、という設定は、あまり意味がないように思えた。そんな能力があるのに最後の被害者が×××××××××ないというのは予知できなかったわけだし。察するに、原作者も監督も主演のデップも、全員揃って自他共に認める“切り裂きジャックオタク”であったがために、作っているうちに、最初の予定ではもっとファンタジックな話にするつもりがどんどん歴史寄りになってしまったんじゃないか。

 試写室を出ようとしたら宣伝部の人に“あ、カラサワさんですね?”と呼び止められる。“これって、ソルボンヌさんとやってた『大猟奇』みたいな話ですよねえ”と言われて笑った。そう言えば、これも原作はマンガ(グラフィック・ノベル。要するに文字の多いマンガである)なんだなあ。

 雨の中、銀行に寄り、正月の帰省の旅費降ろして(もうそんな時期である)帰宅。昼が少なすぎたのでサンドイッチ食べる。ポンパドールのものだけにうまい。講談社から電話、〆切のばしてもらう。来週、単行本2巻目の打ち合わせ。来年は前半に単行本刊行がかなり集中しそうだ。

『フロム・ヘル』でも流れていた、初期鑞管蓄音機の音の魅力について考える。あの音域の狭い、雑音だらけの録音に込められた独特の魅力は何なのか。徳川夢声は戦時中に雑音だらけのラジオでクラシックを聞きながら、“雑音のまったくない放送がもし実現したら、それは案外魅力のないものになるのではあるまいか”と記し、伊丹十三はオーディオマニアに音楽の魅力はわからぬ、と断言した。“彼らはオーディオの性能を聞いているのであり、音楽を聞いているのではないのである”と。どちらも極論ではあるが、私は極論好きなので、この尊敬する二者の言わんとしているところを汲み取れば、やはりそれは“自己の踏み込み”があるかないか、という点に尽きるだろう。雑音という夾雑物がある、または質の悪いオーディオである、ということが、逆に、その裏にある真の音を聞き取ろうとする前向きの集中を生む。ここから、芸術に対するのめりこみが生まれる、という論である。……一方で、真の音も聞けなくて芸術がわかるわけもないだろう、という反論ももちろんあると思う。それは、音楽の方に主体を置いた見方である。究極の真の音は生のオーケストラを聞いたところで、得られるものではない、それを聞いた自分の頭の中でかもし出され、ふくらませられたイメージの音こそが真の音だ、という考え方もまた、あると思う。夢声と伊丹は、たぶんそういう考えの持ち主であったのだろう。さて、私が鑞管蓄音機の音にたまらなく惹かれるのは、もちろん夢声などと同じ理由によるものだが、こと音楽的なことばかりではない、やはりそこに、十九世紀という時代そのものに対する大いなるノスタルジーが加わってのものと思われる。

 8時、神山町花暦。いつものことながら、外人客の多い和食屋である。食べながらノーザンクロス本の前書・後書マンガの打ち合わせをK子と。カキの殻つき焼き、マグロほほ肉のたたき、おでんなど。味はまあ、並の上、といった店であるが、値段もそれなりに安く、気張らずに入れるところがネウチか。

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