裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

7日

金曜日

大トロ中トロスカトロ

 こんなマグロ、クソだぜ! 朝7時半起き。昨日の今日で胃の具合どうかな、と心配していたが、チキンとナス炒めにパン半斤、豆のスープとリンゴ三切れをペロリと平らげる。仕事関係のメール、FAXから整理しはじめる。村崎百郎氏との時事対談連載、決定。これで8月からの新連載は月刊三本、週刊(これはまだ最終決定ではないけれど)一本。『創』からも早く新連載企画を出せ、と言ってきている。既存の連載と合わせると、数だけはうひゃあという本数(普通のライターの三人分くらい)だが、枚数的に短いのが多いので、まだ余裕はある。なをきを見ればまだまだ。『ダ・カーポ』からコメント依頼。元・青土社のSくんから、札幌で古書店をやっていたHさんとこないだ偶然出会ったので、飲みに行きましょうというお誘い。このHさん、文庫で今度出る『古本マニア雑学ノート』に記述のある、リーブルなにわの店長さんであったHさんである。西手新九郎、トバすトバす。お盆進行か。

 新たにカラーページ連載(だからと言って原稿料には全く関係ないけれど)になった『メモ・男の部屋』の原稿書き。5枚強だが案外構成に手間どってしまい、2時半までかかる。昼メシも食い損ねたので、ちょうど買い物もあるので六本木へ出て、トツゲキラーメンへ行こうとしたら設備工事で休み。仕方なく隣のソバ屋でカツ丼を食う。なんか、腹だけふくれて気分がふくれぬイヤな気分。明治屋で朝食の材料、ABCでサブカルキッチュ関係。もう記憶の彼方だが、数年前まではサブカルというと知的エリートたちのお遊び文化のことを指していた筈が、あっというまにオタクと悪趣味に侵食され、イメージが変わってしまった。と学会ですら、呉智英にサブカルなんぞと称される時代である。

 昼から雨、という報道だったが、まだかろうじて降らず。帰って週刊読書人原稿、荒木飛呂彦。『バオー・来訪者』でいく。文庫で新刊になったものを小松からの帰りに改めて読んだが、この作品で著者は初めて仙台の実家から東京に出てのマンガ家生活を始めたと後書きにある。当時(84年ころ)の東京はレンタルビデオショップが急速にその数を増していた時期であり(信じられないかもしれないが80年ころはまだ新宿とか中野といった大きい駅にしかレンタルショップがなく、みんな電車に乗って借りにいっていた)、海外もののB級ホラーが大量に出回った。たぶん、上京して一人暮らしを始めた作者はそれらを借りまくり、見まくったことだろう。その影響が露骨な作品であり、そういう意味で、当時の作者の置かれた状況背景が子細に読み取れる楽しさがある。

 マンガ批評には(いや、マンガばかりでなく全ての批評には)その作品を周囲と切り離し、独立したものとして純粋な作品批評を行う行き方と、出来るだけその作品の生まれた時代とその周辺の情報を取込み、それとの関連性を重視して“いかなる条件下であったからこそこの作品が生まれたか”を読みとっていくやり方とがある。最近は後者の批評がさかんだが、この方法論の危険性は、その作品の作者と時代の関連性よりも、その作品を読んだ評者と時代の関連の方ばかりが先だってしまい、マンガ作品を誰も聞いてない己れのイニシエーションの記録としてしか語れない評者が多いことだ(大塚英志や竹熊健太郎などが代表だろう。鶴岡法斎にもその危険性がある)。江藤淳は夏目漱石の評伝を書くとき、明治時代の、漱石が読んでいた新聞のコピーを毎日読んで、自分の意識を漱石のそれにバーチャルに合一させる作業を行ってから執 筆したそうだ。そうすると、自分の小説が戦争などが起こってだんだん紙面の隅の方 に押しやられていく漱石の鬱憤などがよくわかる、と言うことだったが、明治の漱石ならともかく、日本における同時代のマンガやアニメの場合、その分析の中から“自分の目”を排除していくのはかなりの難行である。同年代の作者の作品の批評が実は最も難しい。

 書き上げてメール。そろそろ降り出した雨の中、なかの芸能小劇場『風光寄席』。神田陽司の講談が目当てであるが、なにしろトリなので、その前にエンエンと続く若手コントや漫才が苦痛である。面白くないのがつらいのではない(それは芸能プロダクションをやっていた人間だから、こういうものを見るのは慣れている)。台風でポツポツしか来てない客相手に受けない漫才をやっている彼らの心理がわかってしまうのがツラいのである。“南野やじ”などという漫談師、こういう芸風が果たしてここでなくてもどこかでウケるのだろうか。ウケをとったことが前にあったのだろうか。聞いていて、“ねえ、それはやり方を変えた方がいいのではないかい?”と舞台に向かって声をかけたくなる。たまに江戸太神楽や春日井あかりの浪曲などが出ると、ウケがとれなくても“型”で見せることの出来る伝統芸の安心感に、ホッと救われた気がする。トリの陽司師は、さすがに聞かせる。途中でBGMを入れたり、素に返って“ああ、テーマが重い!”などとやったりするのも、この人だとイヤミにならない。ネタは天狗党始末記の『伊勢屋多吉』、これ、もと話はO・ヘンリーだったっけか。赤塚不二夫もマンガにしていたよね。

 陽司師に挨拶して、ザンザぶりの中、十時十分過ぎにK子とソバ屋花菜で待合せ。台風だし空いているだろうと思ったらほぼ満員。雨やどり的な客なのか。ビールと焼酎のソバ湯割。トロ落ち、冷や奴、太刀魚塩焼など。あとクルミそば二人で分けて食 べて帰る。

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