裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

28日

水曜日

もんじゃ武芸帳

 我々は遠くから食べに来た。そして遠くへ食べに行くのだ(もんじゃマニア)。朝起きがけに見た夢。サイボーグ009がまたアニメ化されるという発表で、その資料を見るが、なんと008がエジプト人(ツタンカーメンみたいな髪型にアゴヒゲというキャラクター)に変更されている。ついに黒人はアニメでも出してはいかんという時代になったか、と嘆くというもの。7時起床、入浴その他済ませて半に朝食。血圧が最近高めなので、タマネギの皮を煎じたものをスープに混ぜて飲ませられる。カブと黒豆のサラダ、野菜とコンビーフの炒め物。『やじうまワイド』を見ていたら、勝谷誠彦氏が、顔面の左半分をチック症状でピクピクとい痙攣させていた。イラク人質 事件以降疲労がたまっているんじゃないか。

 今日もバス停に行ったら、19分にバスが来た。少し走る。別にそこから先は混んでいるわけでもなく、普通に渋谷着。昨日書きかけだったフィギュア王原稿にまずかかる。ネタは桃井真追悼で、『国籍不明・海底戦車の謎』(二見書房)。あまりにオモシロイ本でフィギュア王のコラムの枚数(10枚半)でも書ききれない。残りは夏のと学会例会本ででもやろうと思う。桃井かおりの父親がジェームズ・ボンドみたいに日本と海外を股にかけ、美女スパイや死の商人たち相手に諜報戦をやらかす本なの である。

 10時半、原稿掻き揚げてメール。ふうと息をつく。肩がバリバリどころかバキバキに凝っている。死ぬんじゃないかと不安になるほど。外へ飛び出し、タントンマッサージに飛び込む。今日はヒゲのない若い先生で、力の強いのなんの、涙が流れるほど痛く揉んでくれる。脳内麻薬がびゅうびゅうと吹き出すのが感じられて、終わって 外へ出て、しばらくポワーと多幸感に浸ったほどであった。

 東武デパートに行き、発酵茶を箱買いする。帰宅して弁当、凍み豆腐と青菜の煮物に筋子。デザートにミカン半個。ベギラマと紀伊國屋ホール公演のときに折り込んでもらうチラシ受け渡しについてメール確認。“カラサワさんが自分で持ってこられるんですか!”とオドロいているが、と学会は運営委員はじめ会員みんなが手弁当でなんでもやっている地道な会なのである。とにかく、これとこないだ斎藤さんに預けたのとで全部初回に刷ったチラシはハケてしまったので、追加印刷を注文しないと。

 どどいつ文庫さん来。実は今日来る予定を失念してマッサージへ行ってしまい、1時にスカを食わせてしまったのであった。申し訳ない。改めて3時来訪、いろいろまたトンデモ洋書など買い込み、雑談。これから一週間ほど東京を離れる友人から緊急に電話が入り、“一生で一番大事なお願い事がある”というので、ナニゴトカと思ったら、買い忘れた今日発売の萌え系マンガ雑誌を買っておいてくれ、というものだっ たとか。

『フィギュア王』図版ブツをバイク便で送る。ネットなどで少し資料集め。26日に作家で映画監督のジョゼ・ジョバンニが死去していたことを知る。80歳。いわゆるトラウマ映画として有名な『暗黒街のふたり』の監督である。アラン・ドロンとジャン・ギャバンの顔合わせでこのタイトルなのだから、人はたいてい、『地下室のメロディ』みたいな、小粋なフィルム・ノワールと思うだろうし、実際、ドロンは出所したばかりの銀行強盗犯の役だ。『地下室の……』の方ではギャバンが出所したばかりのギャングの役であり、その立ち位置を変えた設定で、こんどはどんな犯罪を……と 観る方は期待する。

 ところが、これは全然違う映画なのであった。ドロンは犯した罪を悔い、細々ながらも平凡な幸せをつむいで行こうとする。ギャバンはそれを暖かく見守る保護監察司の役だ。しかし、ドロンの目の前には、かつてのギャング仲間が新たな犯罪を誘いに現れ、かつ、以前彼を逮捕した刑事ゴワトローが、彼が再び犯罪を犯すはずと決めつけて、執拗にその周囲をうろつく。ギャバンは何とか彼を救おうと努力するが、全ての運命の鍵が、ドロンに対し不幸な方へと働いていく……。そして、最後にこの映画は、あらゆる希望をうち砕かれたドロンが、ギロチンに首をはねられて終わるのである。この映画が製作された1973年には、まだフランスでは死刑はギロチンで行わ れていたのである(廃止は81年)。

 ドロンが処刑されるのは、自分の恋人に暴力をふるおうとしたゴワトローを、ついカッとして殺してしまったためなのだが、このゴワトローを演ずるミシェル・ブーケが、これ以上ないというくらい、執拗で陰湿で強引な刑事役を演じている。こういう役や、それを演じる役者が大好きな私が、映画館で観ていて“もうやめてくれ、これ以上出て来ないでくれ”と心の中で思ったくらいなのだから、相当なものである。監督の頭の中には、絶対にこの役のモデルに、すでにフランスでも放映されていて人気だった、『刑事コロンボ』のイメージがあったろう。ああいう男がヒーロー足りうるのは、あの世界では最初から狙われるのが真犯人である、という前提があるからだ。しかし、もし、あの性格を持った刑事が、無実の男をつけ回したとしたら? その恐 怖をこの映画はサディスティックなまでにこちらに見せつける。

 聞くところではこの映画は刑法史上でも重要な映画だそうで、公開処刑だった時代はともかく、非公開となってからのギロチン処刑がどのようにして行われるかをリアルに再現してくれた、貴重な作品なのだそうである。規則を淡々と消化する、という感じで聖書が読み上げられ、ワイシャツの襟が大鋏で切り取られ、後ろ手に縛られたまま、最後のタバコとワインが与えられる。そして、両脇を執行人がしっかりと抱えて、ギロチンへと囚人をひきずっていくのである。全ての希望を失ったドロンが、最後にこちらを振り向き、何かを訴えようとするあの目が忘れられない。忘れられないが二度と観ようとは思わない(結局ビデオも手に入れてしまったけど)、そんな映画 であった。

 5時半、家を出て新宿へ。南口から出て歩いていたら、林家彦いちさんに出会う。もう十年も前に一回(まだ彼がきく兵衛だった頃)仕事したきりなのに、まだ覚えていてくれるのは光栄。新宿ミラノ座で『ピーター・パン』を観る。ただでさえショタの女性に向けて宣伝している映画の上に、女性の日だとかで女性は1000円均一、もう場内女性客ばかりで男性は私含め数えるほど。監督の名前がJ・P・ホーガンとあるので、『星を継ぐもの』の作者が映画を監督したのか、と一瞬思ったが、よく見 たらP・J・ホーガンであった。似たような名前があるものだ。

 ストーリィなぞは今更書くまでもないだろう。映画の感想だが、基本的にかなり、“ヌルい”映画であった。ファンタジー映画としても、SFX映画としても、ショタ映画としても。金はかかっているし、ストーリィも、ディズニー路線をなぞりながらもきちんと“大人になりたくない”ピーター・パンと、“大人になる覚悟を決めている”ウェンディの別れを描いて、ドラマとしての骨格をきちんとさせている。……なのに、なぜこんなにヌルい感想しか抱けないかというと、やっぱり監督の腕なのではないかと思うのですね。泣かせ劇ってのはもっと徹底してクサくやってくれないと、返って見ている方がテレてしまうもので、そこらへん、スピルバーグなんかはさすがで、一旦客を泣かせると決めたら、どんな卑怯な手を使っても泣かす。手を抜かない のである。

 手塚治虫が泣かせのテクニックとして昔、石上三登志との対談で、
「例えば雪山で遭難した主人を助けた犬が、主人は助けたが力尽きて死ぬ。そこで満足していちゃダメで、僕はさらに、その犬を剥製にして、翌年、もう一度主人が雪山に登って、山の頂上にそれを置いていかせる。そこまでやる」
 という意味のこと(引用は不正確)を言っている。これが“商人”の感覚なのである。そこらへん、この映画の監督であるP・J・ホーガンは、原作に頼ってしまってもう一押しをしない。せっかくミリセント伯母さんという原作にない意地悪おばさんを登場させて(リン・レッドグレイブが老け役をやる時代なのだなあ)、善人のダーリング夫妻と対比させるのなら、もっと徹底した意地悪に演出してこそ、ラストの改心が光るのである。あと、メイクが非常に上手くて、ダーリング氏とフック船長を同じジェイソン・アイザックスが演じているとはちょっとわからない。舞台劇のときののお約束の延長で同一キャスティングにしているのだろうが、趣旨から行けば、ここはもう少し、同一人物とわかるメイクにしないと、わざわざ同じキャスティングにし ている意味がないのでは?

 帰宅、9時。今日は豆腐づくしで、湯豆腐と根菜類の白和え。ナスと椎茸のグリルに大根おろしをかけたもの。シンプルなれど素材がいいので非常に味わい深い。湯豆腐は湯豆腐というより鶏鍋で、最後に残ったスープでスープ茶漬け。海苔を浮かしてワサビで食べる。旨しとも旨し。寝る前にメールを確認したら、なんと午前中に原稿送ったフィギュア王S川くんから、原稿まだかという催促。前に来た催促メールを、普段使わないアドレスでよこし、そっちに返信する形で出したので、まだ来ていないと思っていたらしい。きちんと催促の際にその旨を断ってくれないと。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa