裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

6日

火曜日

網野式

 中世系、中世系、網野式。朝3時、夢で雑誌に私の書いたものを徹底して酷評した文章が載り、ムカついたところで目を覚ます。目を覚ましたついでトイレに行き、またベッドに戻って寝たら、見事にその続編で、それを読んだ人間が私をからかうという夢を見る。夢の続編を見るのはひさしぶりだなあ、と目がまた覚めて思い、そのままウトウトしたら、なんと三作目を見た。これは、その酷評に対し反論記事を書いたら、最初の記事を載せた編集者がベギラマの知り合いで、彼女から“あの編集、本当は気が弱いんで、カラサワさんが本気で怒ってるって知って泣きそうになってました よー”と笑って電話が入る、というもの。

 そんな夢のおかげで数度にわたり目が覚めて、眠い中を7時、起床。43度の温度の風呂で入浴。35分、朝食。ニンジンとキャベツとゴマのサラダ。食べて弁当をもらい、出勤。その前にゴミを出す。母の方の室と違い、われわれの住んでいる方は、寝るのと風呂に入る以外、ほとんど日常生活らしきことを営んでないのであるが、それでもゴミは出る。尾崎豊が妻と別居して斎藤由貴と同棲中に、朝、ゴミを出しに行くところを写真雑誌にスクープされたことがあった。尾崎豊のようなカリスマでも、 やっぱりゴミ出しはするのだな、と可笑しく思ったものである。

 8時12分のバスに乗る。9時5分、仕事場着。山田誠二氏から、上京の際の打ち合わせ時間についてのメール。あと、と学会MLに、扶桑社の単行本&文庫本の件をアップ、執筆者の皆さん宛に、編集のYさんにゲラ等の送り先を連絡してくれるようお願い。ワニマガジンKさんから連絡、やはり『かべ耳劇場』、刷りすぎがたたって二号は難しい状況になり、あまつさえ、Kさんが上の方との意見の相違で退社ということになってしまったとのこと。ありゃりゃ。もっとトリビアのパチであることを謳えるようなタイトルならよかったのにねえ。まあ、この世界は編集者が会社を渡り歩くのは別段珍しいことではなし。一応、Kさんから預かっている企画は、こちらの方 でいろいろ回しておきます、と請け合っておく。

 外出、ブックファーストに寄って『ヤングマガジンアッパーズ』買い、読みながら地下鉄銀座線−日比谷線乗り換えで東銀座。車中『バジリスク/甲賀忍法帖』読む。とうとう人気ナンバーワンのあにさま・こと如月左衛門死亡。人気ナンバーワンというのは、公式サイトでのキャラクター人気投票での現在(6日)までの結果のことであるが、ナメクジ男の雨夜陣五郎や人間トルソの地虫十兵衛などモンスター系忍者はさておいて、まず外見は人間らしいキャラクター群の中で、主人公である甲賀弦之介が男性最下位、というのが、いかにも集団抗争劇であるこの甲賀忍法帖らしいと思えて笑える。ところで天膳の台詞、“わしに化けてしもたのが運のつきじゃ”というのは誤植か。“わしに化けてしもうたのが”でないと、大阪弁アクセントになる。大阪弁で死闘を演じる忍者たち、というのも、想像すると何故かすさまじく緊迫感を殺ぐ 感じがして可笑しい。

 東銀座松竹試写室にて『CASSHERN』試写。席についたら日刊ゲンダイのIさんが挨拶しに来てくれたので(こういうとき、似顔絵と同じ格好をしているというのは便利かもしれない)、喫煙コーナーでちょっと打ち合わせ。今日これを観て、明後日に『キューティーハニー』を観て、13日(火)に日刊ゲンダイ編集部で映画評論家の服部弘一郎氏と対談するダンドリとなる。服部氏は温厚な批評をする人だからなあ。また、私が憎まれ役を背負うことになりそうである。まあ、いいが。

 で、映画上映開始。以下、ネタバレも含むので、読みたくない人はまるまる一段、飛ばして読むように(行あけをせずに固めて書く)。まず、上映時間2時間21分。イマフウのコトバで言うなら“長っ!”。いや、長いだけならいい。それを最初から最後まで、プロモーションビデオ用映像なみのビジュアルでえんえんつなげているのである。ああいう作り込んだ映像というのは短時間だから人目も引くし効果もあるのであって、2時間半、エンエン見せられたら誰であっても“もういいよ”になる。ことに心証シーンと現実のシーンを入れ込みにして描いた、東鉄也の葬儀のシーンは、鉄也が自分の棺の中の自分の死体を立って眺めているという不条理な場面で、これは単なるイメージなのかと思えば、キャシャーンとなった鉄也が後にその葬儀のシーンを思い浮かべる回想シーンがあるから、実際に鉄也はその葬儀を見ていたということになり、ではこのドラマの中では心霊というものは存在するのか、それなら死をあんなに悲痛なものに描く必要もないではないか、と思い、どう判断していいかわからぬ場面の連続に、ひょっとしてこの監督は映像さえ美しく撮れれば、話のつながりはあまり重視しないのか、と、上映時間の残りの長さを考えて憂鬱となる。まあ、監督の出がビジュアル畑なのだから、映像に全てを語らせるという方針ならそれもアリか、とムリに納得しようと思えば、登場人物共が後半あたり、能書きをもう、垂れる垂れる。戦争の悲惨さを語り国家の理念を語り生きることの平等を語り、殺すことのつらさを語り愛することの大事さを語り、人を許すことの尊さを語りアレを語りコレを語り。それがまた、中学生が聞いたってハナでフンと嗤うくらい青臭い台詞ばかり。ガンダムだってもう少し重みのある台詞がありましたぜ、ねえ。イラク派兵にカミさんの宇多田ヒカルが反対声明を出していたせいか、虐げられた者たちの反乱をイラク民衆に重ねあわせたいらしく、で、あれば映画の主眼は当然主役のキャシャーン/東鉄也でなく唐沢寿明のブライキングボスにならざるを得ず、おかげでタイトルロールにも関わらずキャシャーンの影の薄いこと薄いこと。国に騙され親父に騙され、さんざバカをさらす役回りになった挙げ句、ラストの出撃が全くの役立たずに終わるなど、なんのためにアンタこの映画に出てきたの、と言いたくなる。で、またそのブライキングボスを、ロボットでなく培養液から生まれた人工人間という設定にしてしまったものだから、そんな生身の身体の持ち主が鋼鉄のロボット軍団を素手で叩きつぶすほどの力を持つキャシャーンと互角以上に戦えるのはいったいどうしてかいなと疑問に思い(大体において唐沢寿明はこういう役にはミスキャストで、第一自分を生み出した東博士役の寺尾聰より背が低いのが、対峙したときに絵として台無しである。セッシュウくらい履かせろよ、と思った)、そもそもそんな力を持った連中が何故に、最初はただ人間の追っ手から逃げまどうだけなのだ、と首をひねり、逃げ込んだ山奥になんであんな設備も何も全て整ったロボット工場がお誂えにあるんだ、と御都合主義に呆れ、それが彼らが迷い込んだとたんにシステムが何故か動き出してロボットが再び生産され出し(材料は? 燃料は?)大兵団となる、なんて展開にアホらしくて失笑さえ出る。おまけにブラキングボスすら自分を新造人間と思いこんでいたのは実は騙されていた、という、ラスト近くで台詞だけで説明されるドンデン返し、劇団新感線なんかの悪い影響で、今日びの脚本家はドンデン返しさえあれば凝ったストーリィになると思いこんでいるフシがあるが、終盤間近のドンデンはよほどうまくやらないと客が馬鹿にされたような感じを抱くだけの結果に終わるということくらいは覚えておいた方がいい。大体、それならなおのことあの強さはいったい何なんですか、ねえ何なんですか監督と袖をつかんで質したい気持ちにかられ、そんな逆転劇に加え、独裁者の親父に対する息子の叛乱なんてサブエピソードも入れたおかげで人間関係がもう混乱を極める。父と息子の関係を執拗に描くのはエヴァの借り物、レトロチックな未来社会描写は最近のハリウッド映画からのインスパイアと言えば聞こえはいいが、要するに猿真似、猿真似と言えば『イノセンス』もこれもそうだし『ロストメモリーズ』までそうだったけど、未来社会の設定をナレーションもしくは字幕で説明した後に、いきなり“ゴオオオオオ”てな音響と共に機械文明の退廃を極めた風の大都会の光景をCGドワーッと流して見せる演出、モウいい加減にやめようじゃありませんか最近の監督さんたち、どうやったって『ブレードランナー』のパチとしかみんな見てくれないわけだし、その圧倒的な画面のパワーはCGなんか一個も使っていない『ブ レードランナー』に絶対敵わないわけだし。

 ……いくら書いてもなんか終わりそうにないのでこのへんにしておく。この後のことは『日刊ゲンダイ』を読むこと。終映して席から立ち上がると、隣の椅子に座っていた、一見平凡な一般人の外見の好青年が、挨拶してきて“お久しぶりです、吉田戦車です”と。少しあわてる。私は人の顔をほとんど覚えられない人間で、よくそれで恥をかくのだが、吉田さんは、あれほど凄まじい天才的なマンガを描く人ながら、如月左衛門の普段の顔なみに、そういうトンガッたところを表に出すことのない人なので、まったく気がつかなかった(私が覚えやすすぎる風貌だ、ということもある)。 “どうでした?”と双方ほぼ同時に問いかけ、
「樋口(真嗣)さんのコンテ切った戦闘シーン、よかったですねえ!」
 と、ほぼ同時に答える。あそこはまさに『新造人間キャシャーン』であった。ゲンダイのIさんも来たので、少し話す。“『朝日新聞』で前に読んだカラサワさんの意見がずっと頭の中でぐるぐるしてました”とのこと。そこでお二人と別れる。私はこの後、ここに居残って、韓国映画『花嫁はギャングスター』の試写を観るのである。試写のハシゴであるが、会場が同じなので、交通費などが浮くのは有り難いから、続 けて観てしまうことにした。すでに出来ていた行列の後ろに並ぶ。

 3時半、『花嫁はギャングスター』試写開始(これもネタバレありなので行をあけずに書く)。“伝説のハサミ使い”のスーパー女ヤクザ、ウンジンが、幼いころ離ればなれになった姉に再会するが、姉はそのとき、すでに不治の病におかされて余命いくばくもなかった。姉は、自分の息のあるうちに妹の花嫁姿が見たいという。ウンジンはさっそく子分たちに命じて、花婿候補を探させるが、ウンジンの迫力にみんなビビって逃げ出してしまう。唯一残ったのは、風貌もオツムも冴えない公務員のスイルだった。かくて、ヤクザであることを夫に隠した珍妙な新婚生活が開始されるが、その頃、ウンジンの所属する組の縄張りを狙って、新興ヤクザ、白鮫組が動き出していた……。というのが基本の設定。ストーリィだけなぞれば、シリアスな任侠ものにもスライドできるような話であるが、監督はこれをコメディアクションで描いている。ハサミを武器に使う、というのはどういう設定なのか、あまりそれが劇中で描かれていないのでよくわからない。と、いうか、初期設定はいいのだがこの作品、『ロストメモリーズ』を観た時にも触れた、韓国特有のケンチャナヨ精神が爆発で、せっかくの設定やキャラを、演出がさっぱり生かしていないので、観ていて不満がどんどんたまってくる。夫が妻の正体に気がつくのは、入浴中のウンジンの背中を見て、そこに一面の彫り物(しかし韓国の彫り物というのは日本のモンモンに比べれば稚拙であることよ)があるのを見て、のことなのだが、彫り物の丸見えになる、背中を大きく露出したウェディングドレス姿を、結婚式のときに夫は控室で見ているはずである。式のときは、背中一面にサロンパスみたいな膏薬を貼ってごまかしていたが、それに対する夫の言及がひとつもないし、そもそも、ヤクザであることを隠さねばならないのに、そんな衣装を腹心の部下が用意するのがおかしい。と、いうより、姉をごまかすためであるならば、本当に結婚する必要はないので、誰か子分の一人を花婿に仕立てあげて、ヤクザたちだけで結婚式を挙げる真似をすればいいことだ。結婚が終わると今度は姉が“子供が見たい”と言い出すので、ウンジンは夫を逆強姦するような形で性交し(ここのドロ臭い演出はいかにも韓国映画という感じでいいけれど)、妊娠するが、そのため彼女の戦闘能力は激減してしまう。……これだって、ドタバタ劇にするなら妊娠自体もフェイクでやった方が、ラストで生かせる(でかい腹を抱えているから戦えないだろう、と思った敵が油断をしていると、腹からクッションをウンジンが抜いて投げ捨て……、というようなドンデン返し)のではないか。彼女の腹心の部下であるマジンガー(パンフにはこう名前が書いてある)は、日本の任侠もので言うと小林稔侍か藤竜也の役どころで、内心ではお嬢さんを愛しているが、自分では彼女を幸せに出来ないことも承知しており、彼女の結婚を助けながら、複雑な心境で彼女を見つめ続けている、といういい役柄だが、この役もそこから先が掘り下げられていない。なんとか幸せな家庭の楽しさに気づき始めた彼女をヤクザの世界に引き戻すのは頭は足りないが一途な弟分が敵のし向けたチンピラに刺されて殺されたことなのであるが、この弟分が、死を前にして、泣きわめく恋人に、故郷のカニの味をしみじみ語るシーンは、あきらかに伊丹十三の『タンポポ』の、役所広司と黒田福美のシーンのパクリである。……と、まあ、ワルクチをいろいろ並べ立てたが、しかし、全体として見れば、驚くほど楽しい、しっかりと“娯楽”している作品であって、逆に言えば、これだけ欠陥がありながら、それを上回る魅力を、主役のウンジン役、シン・ウンギョンが備えている、ということだろう。ラストの決闘のシーンでは、拍手したくなるほどである。全く系統の異なる作品である『CASSHERN』とこれを比較して、こっちを持ち上げてコレデナクッチャという気はないが、『CASSHERN』がどう好意的に見ても“やたけたに金をかけたわがまま男の独りよがり”映画なのに比して、こっちはちゃんと“払っただけの金の分は客を楽しませよう”という思想に徹底している。ヒーロー映画というのはこういうものなんじゃないの? と思うのである(あ、ひとつ、この映画で知ったトリビア。“韓国語では「縄張り」のことを、 「ナワバリ」という。へぇ)。

 5時半、東銀座を出て、銀座まで歩き、丸の内線で新宿まで、中央線に乗り換えて中野。ブロードウェイ内『雪椿』にて、松林宗恵監督を囲む会。中野武蔵野ホールで“砧の青春――松林宗恵の場合”特集上映をやった、その打ち上げ。快楽亭一行は中野武蔵野ホールで待ち合わせ、こっちは場所を知っているんで直行と打ち合わせてあり、K子を拾って向かう途中で、快楽亭の一行と落ち合った。監督の他に『ウルトラQ』の一平役の西条康彦氏も一緒。総勢十数名でまた雪椿の座敷席へ。店長さん、入り口から入ってくるメンツを一人々々数えていたが“しまった、こないだもそうだったけど、何故かカラサワ先生のところで数え終えてしまうんですよ”と。あまりに区 切りやすい風体だからか?

 松林監督、83歳のお歳とは思えぬ矍鑠たる足取り、さすが海軍士官出は違うという感じ。また僧侶でもある風貌は、親友でもある森繁久彌氏と、兄弟ではないかと思えるほど。一方の西条氏は、頭こそ白髪になり、シワも寄ったが、雰囲気、しゃべり方、まさにあの一平クンそのまんま。全く変わってないと言ってもいい。こういう万年ヤンチャ坊主というのは、神楽坂の老舗の坊ちゃんという、いいところの出の人間 の特長だろう。

 監督と西条氏の周囲には映画マニアの若い人たちが集まっていろいろ熱く映画の話をしているので、こちらはそれに耳を傾けながら、武蔵野ホールのI支配人などと話 す。ときおりは話の中に加わる。『世界大戦争』の話になったので、
「あの、ラストに笠智衆さんを持ってきたところがキャスティングの妙でしたね。世界が破滅する悲惨な結末なのに、何故か笠さんの顔を見ていると、仏様に救われたような気分になる」
 と言うと監督、実際それをねらっての笠氏の起用だった、と肯定してくださる。
「あの人は私と同じく、九州の寺の息子でね、子供のときから親について法事などに袈裟を来て回って、お経などを読んでおったんだ。だから、本当に顔が仏の顔になるんだね」
 と。あと、『連合艦隊』の主題歌に、“戦争映画の主題歌は嫌だ”と断った谷村新司を説得に通った話、今の映画は老人たちが興味が持てるテーマがないから、老人たちの趣味であるゲートボールを映画にすればみんな興味を持って来るだろう、これは我ながらいいアイデアだ、と思ってゲートボール映画『勝利者たち』を撮ったんだけれど、“これがサッパリ当たんなくてねえ”とか、50を過ぎてから運転免許を収得しようと教習所に通い始めたところ、そこの教官が何か無闇に自分に目をつけ、うるさく指導する、あとから聞いたらその教官はもと新東宝の大部屋俳優だったそうで、“ありゃ、ロケかなんかでコキつかった敵討ちをされたんだナ”などという笑い話も 飄々となさる。

 映画における歴史上の人物の描き方、という話になって、
「大作映画ほど、ヒネリを加えてはダメなんだね。大作というのは、普段映画を観ないような人も来る。ドラマ慣れしていないそういう人たちは、自分たちの意識の中にある歴史上の人物のイメージをいじられるのを好まないんだ。新解釈はね、小規模な作品でこそやるべきなんだよ」
 とおっしゃるので、じゃア、今の大河ドラマの新選組なんかダメですね、と言うと
「まさにそれが言いたいんでね。ああいういじり方はどこか民放の若者向けの時間帯でやればいい。新奇な解釈を好む人はそもそも、大河ドラマなんか見やアしない。正統的な歴史ドラマが見たい、と思って他局でなく、NHKにチャンネルを合わせる人たちのことを考えてやらなきゃダメだよ、あそこのワクの中ではね」
 と力を込めておっしゃる。
「ああいう新解釈は崑ちゃん(市川崑監督)がうまかったけどね、崑ちゃんだって、大作映画ではきちんと、直球勝負をしていたよ」
 と。市川崑みたいな大監督を“崑ちゃん”、円谷英二を“あのお爺ちゃんは”などと表現するのが、まさに日本映画史の生き証人という感じで面白い。そう言えば、会話の中にまったく日常語の調子で“イントレ組んでね”なんて出てくる。意味とか語源とかは各自、お調べを。

 酒は越の寒梅と雪椿、回りの若い人たち(東大の大学院に行っているという気の弱そうな青年が、すみっこの席で話に加わりたくてもじもじしているので、常連のNさんやK子、私が、“なにやってんの、話したいならどんどん近くへ寄る!”と背中を押して近くの席に座らせてやった)が監督の話を緊張して、正坐せんばかりにして聞いているので、こちらが引き受けてガブガブやるうち、なんかすっかり出来上がってしまった。鈴木邦男さんまで途中から参加、閉店時間を大幅にオーバーした11時近くに、集合写真を撮ってお開き。駅まで西条さんとウルトラQばなし。西条さんお元気で、
「じゃ、みんなで近くの喫茶店でも入って続きを話そう!」
 とか言うので、恐れをなしてこっそりその一団から抜け、タクシーで帰宅。何やら映画漬けの一日であったことよ、と思いつつベッドにもぐり込む。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa