裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

21日

水曜日

高慢とケンケン

 ブラック魔王ってヤツは実に高慢だよ、シーッシッシッシ。朝、7時起床。入浴、歯磨如例。7時半朝食、こう毎日規則正しいと記録していてもつまらない。カボチャのポタージュ、甘くて大変に美味。あとはキャベツサラダ、黒豆のオリーブオイル和え、ゴマパン小一切れ。やじうまワイドで、例の人質脅迫ビデオの、ナイフをつきつけられたシーンが演技をつけて撮影されたものであったことを報じている。このこと に関し、大谷昭宏氏は
「彼らが犯人に協力したのには、ストックホルム症候群だったのかも知れないし、ストックホルム症候群であれば、これは病気であって、彼らのせいではないし、批判される理由も全くない」
 と弁護していた。果たしてストックホルム症候群であるのかどうか、可能性の憶測だけで早くも“彼らのせいではない”と結論づけるその短絡が問題であるが、そもそもストックホルム症候群というのは(私も詳しい訳ではないが)、
http://www.angelfire.com/in/ptsdinfo/crime/crm3gsto.html
 ↑上記サイトにも書かれているように、“犯人と接触する時間が長い場合に”起こるものであり、今回のビデオのように、拉致されてからすぐに撮影されたような場合の犯人への協力をストックホルム症候群で説明できるとはちょっと思えないのだが。もちろん、だからアレは自作自演なのだ! と騒ぐのも、これだけの条件ではいまだ短絡であろう。影響の大きいテレビのようなメディアで、情報が確定していない段階であまり極端な結論を口にするものではないという常識以前のことを、せめて大谷氏には言って欲しかったのだが、最近のこの人にはムリかな、という気がする。

 今回の一連の人質事件で思うことはいろいろあったが(過去形にしちゃいけないけれど)、やはり私は文章書きという仕事柄、表現の自由、思想信条の自由ということを一番重く感じている。まず、あの三人の人質に対し世論が沸き立ってケシカランの大合唱となり、すると今度はその世論がケシカラン論が沸き立った。表現の自由を何よりも訴えなければならぬマスコミまでが、これに軽々しく乗っかっているところに私は、“あ、やっぱり今の日本に本当の表現の自由はないな”と、改めて痛感してい るんである。

 オタク系のサイト(これをとりあげるのはあくまでも一例である)の、よくのぞく ところでも、見ていると、一方で
「ロリコンを犯罪者予備軍扱いにするのは許せん。ロリコンマンガが好きで、ロリビデオや写真集を集めていることと、幼女に対し実際に性犯罪行為をするということは全く違う。これを一緒にするな!」
 と論じている(これは全く正しい)一方で、
「あの人質とその家族に“自業自得”だなどと言っているやつは許せん。そういう奴がタクシー10台いたずらで呼んだり、飛行場で生卵を帰国した彼らに投げつけようとするいやがらせをやって、彼らを精神的に追いつめているんだ!」
 と主張しているところがある。これ、私は大きな矛盾があると思うのである。人質に対し自業自得と思い、その主張を自分のサイトに掲げている者全てが、被害者に対する直接的ないやがらせを実行に移すなどということはありえない(もし、そうだったら今頃あの人質家族の家全部に火がつけられている)。片方で犯罪と嗜好を同一平面で論ずるな、と言っている人間が、もう片方ではいとも簡単に犯罪と主義主張を同 一平面で論じ、それを封殺しようとしてしまっているのである。

 思想信条・表現の自由を“完全に”守るというのは、実はこれ、相当に重く、またキツいことなのである。上から押さえつけているカセがなくなれば、自分たちはラクになるだろう、などと思っていたら大間違いだ。完全な自由のもとでは、感情や好悪というものが無視される(現在、多くのロリコンマンガは、子を持つ親や一般的な性嗜好の人の感情や好悪基準を害しているという理由で表現の自由に制限が加えられている)。また、そういう“良識”のカセが外れると、結局は“声が大きいものが最終的に残る”ことになり、少数意見は圧殺こそされないが“無視”される可能性が大きくなる。完全な自由競争経済のもとでは中小企業が真っ先に倒産していくのと同じ原理だ。自由というものは個々人の上に、凄まじい重荷を背負わせる代物なのである。

 それでもなおかつ、人は自由を求める。これは近代以降の、自我に目覚めた人間の本能のようなものだろう。ならばわれわれはきちんと、自由というもののプラス面もマイナス面も充分知った上で、それを得るための覚悟をしなくてはいけない。いま、表現の自由、と唱えている人々の大半は、ただ“自分の”表現の自由を唱えているだけのワガママ者に過ぎない。自分の自由を守るためには、必死になって、相手の自由も守ることが必要なのである。それがどんなにつらいことであっても。個人々々がサイト上で、あの人質に対する自分の主張を述べることは、たとえそれが“テロリストがやらんのならわれわれが火あぶりにしちまえばいいのではないか”というようなヒドいものであっても、それを実行に移さない限り犯罪ではないし(少女とセックスするマンガを描くことが実行に移さない限り犯罪でないのと同じく)、“当然の権利”なのである(もちろん、いわれのない誹謗中傷やプライバシーの暴露は権利でもなんでもないこと、いちいち言うまでもないが誤解されないように付け足しておく。もっとも、これとて社会常識というワクによってタブーとされていた部分がだいぶあり、将来はかなり差し引いて考えられるようになることは確かだろう)。

 私はヘタレだから、このような自由の代償を考えると、どうも身がすくむ。しかし文章表現者として、それを認めねばならぬ、という意識も強くある。また、自分が認めたからといって、それを周囲にまで強制するのも自由の乱用だろう。とはいえ、周囲を見わたすと、もうとにかく世の中で自由こそが何より大事だとばかりに、表現の自由々々とブチあげている学者や評論家がたくさんいる。そういう人は、本当に、例えば自分の発言や仕事、信条に対する反論や悪口を、どんなものでも全て受け止めるだけの準備があるのだろうか。何か、そういう人に限って逆にブチ切れるような気がするのだが、これは私の僻目か。私自身、キレかけることは多々だった(最近はあまりなくなったが、これは人格が向上したせいではなく、歳をとってエネルギーがなくなってきたせいである)男なので、人のことが気になるのである。

 8時15分、家を出る。途中のコンビニで雑誌など購入、25分のバスの車中の人となる。今日はたまたま後部の、ほとんど外の見えない位置の席だったので、丁度雑誌を買っていたのが助かった。放送センター前に到着するまでに三部、読了。

 メール、FAX類整理。こないだ朝日新聞の大阪版の、私へのインタビュー記事の掲載号が届く。かなり大きく扱われていて、やや赤面。同封されていた手紙によると社内での評判は半々で、半分は好評、半分は“インチキだ”と怒っている、という。ああ、やはり私のようなエセ文化人を天下の大朝日が取り上げるのはインチキだ、というのかと思ったら、同僚編集者たちが、“インタビューにかこつけて、唐沢さんの家にまで上がり込んで写真を撮ってきたりするのはズルい。インチキだ”と怒っている、ということであった。ひと安心。朝日と言えばこないだの“萌え”インタビューの記事の当該部分の原稿もFAXで来たが、残念ながらこちらは紙面の都合で、私の直接の言として記事に反映されたのはたった数行ということになった。まあ、仕方なし。私個人の萌え論は、いま書いている日本文化論の中の一章としてきちんと書くから、それの考えをまとめるキッカケになってくれたということでヨシとする。

 沖縄の中笈木六さんから電話、引越祝いをいただくとの件、かたじけなし。あとは昨今の雑事に関する雑談。ディケンズの先見性は凄い、というような話。1時、弁当を使う。昨日の肉豆腐の卵とじ。食べながら大月隆寛『無法松の影』(文春文庫)を読む。『無法松の一生』の主人公のイメージの変遷を追いながら、戦後民主主義の変遷を論ずるという趣向自体はまことに目のつけどころがいいのだが、文章にあまりにもってまわりすぎるところが多くて、ちと読むのにくたびれる。ここまで大上段にふ りかぶらないでもいいだろう、と思える部分がやたら出てくる。

 2時、時間割にて『漢字天国』打ち合わせ。途中でと学会の新田五郎さんに出会った。店に入って、編集のUさんSさん、それとイラストの中川雪子さんに挨拶……と思ったら、奥の方からも声がかかった。ミリオン出版のYさん。しまった、完全なダブルブッキングである。GW進行でドタバタしているんでコンガラかってしまったらしい。ちょっと中川さんたちに謝って、一旦仕事場に帰り(こういうときに打ち合わせ場所と仕事場が近いと便利)、ミリオン『実話ナックルズ』用の図版ブツを取りに 帰り、Yさんに手渡し、改めて挨拶。

 中川さん、イラストレーターというよりは完全に私のファン・モードになっていて『美少女の逆襲』『夜霧のファンタジー』の二冊を持ってきており、サイン求められる。この二冊の選定のマニアックさが実に中川雪子調である。4時くらいまで、雑談 を。中川さんのチャレンジフルな精神に感心してしまう。

 帰宅、いろいろ雑用、世界文化社書き下ろし原稿に手をつけるが、飛び込み原稿、前倒し原稿の方をやはり先に片づけないとスケジュールが消化できず、ううむとうなる。青井邦夫氏からメール、昨日の映画の弾の数は、最初から数えているわけではなく、“弾数がおかしそうに感じた時点で、頭の中にまだ残っているリズムをすぐ再生する”のだそうである。で、ダン、ダン、ダンダンダン、ダダダダーン、というよう なリズムから、あ、これは6発、これは8発と区別するのだそうな。
「発射速度が遅い物なら機関銃の弾数だってなんとかフォロー出来ます」
 というのだから、物事は道によって凄まじ。

 結局何も完成させられないまま、9時、タクシーで中野駅まで。40分に北口で母と待ち合わせ。語学教室で遅くなってK子と、母を伴ってサンモール脇の小さなおでん屋『しゅもん』へ。サラリーマンの一団が来ていて、大丈夫かな、と思ったが何とか座れた。このあいだ、超放禁の日に発見した店で、オカアサンと呼ばれる女性が一人でやっている。家庭的なおでん屋で、とりたてて素晴らしく旨い! というわけではないが、一品々々が実に丁寧に仕立てられており、またK子好みの薄味で結構。おでんというのは庶民的な食い物のくせに、いざ一食をそれで済ますと案外高くつくものなのだが、ここは他店に比べ値段がリーズナブルであることも、彼女の気に入った理由であろう。はんぺん、イカ巻、タコ、ネギ巾着などと、刺身ベーコン(今日の特別メニュー)などで酒を飲み、雑談。〆は茶飯と紫蘇の実の漬け物。母がおごってく れた。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa