裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

11日

木曜日

出てこい、カザーン

 渡辺崋山、隠れていないで神妙にお縄につけ!(蛮社の獄) 朝7時起き。朝食、中華風オカユのレトルト。電話何本か。ロフトの斎藤さんから。こないだの企画のこと。眠田さんと岡田さんにはからんとな。風呂入り、仕事にかかる。暮れにきれいに整頓した机まわり、すでにして混沌としてきているようである。

 午前中にナンプレ原稿一本アゲる。それから、書き下ろしのメモ整理。立川談生のHP、なんとか回復していて、いま、閉鎖理由説明と、その閉鎖に関係ある人々とのやりとりの掲示板が出来ている。この掲示板で、芸と差別の問題についてやりとりがなされている。私などもよく舌禍を起こす人間であり、ヒトゴトでなくこの問題は気になるところである。談生のような芸風の持主にとって、荒しを受けてHP閉鎖、というのは一種の勲章だろう(師匠談志が“生意気だ”と酔っ払いに殴られた如く)。快楽亭や談之助の高座が、さすが老巧であぶないところで一線を越えないツナワタリの芸であるのに比べ、彼の芸はすぽーん、とソコを突き抜けてしまっているところに麻薬的な魅力があり、かつまた、ギャグというものは例えどのようなものでも、その裏に差別性を含んでいるものであって、この問題は、お笑いというものが存在する限り、ついて回るものだと言えるだろう。

 それがいけない、という書き込み者の論理は、それで傷つく人がいる限り、そのような芸はつつしむべきだし、芸としても程度が低い、という正論である。だが、正論は正論として、それを全ての場に敷衍していいのか、という問題は残る。誰も傷つけない発言だの笑いだのというものはこの世に存在し得ないし(無邪気な幼児の笑顔すら、子を亡くした親にとっては傷つけられるものだろう)、また、世の中には敢えて加害者の立場に立つことによって“見えてくる”ものがある、ということも、言論の場にきちんと向き合っている者ならば容易に理解出来ることだ。芸の品格に関しては大きなお世話以外の何物でもない。談生なら談生という芸人を、そのような危険人物である、とレッテル張りすることは自由である。しかしそれが、彼が高座に上がることを封じる、という動きにつながったとき、それは言論の統制と言う別次元の行為となる。ヒューマニズムに安直に寄り掛かることは、アンチヒューマニズムに安易に寄り掛かることと同じく、ものを見えなくしてしまう。

 統制したところで、第二第三の談生は必ず出てくる。それは、人間の宿痾のようなものだからである。でなければ、談生やその周辺の芸人たちの会に、あんなに人が集まるわけがない。正論ばかりの中で、人間は生きていけないのである。日本よりはるかに人権に敏感なアメリカにも、いわゆる放送禁止芸人は存在する。どころか、向こうが本場である。私がニューヨークで見た舞台では、ゲイ差別芸をゲイの芸人が(早口言葉みたいだな)やって、それをゲイの客、ヘテロの客が共に聞いて大笑いしていた。リチャード・プライヤーが出演していた映画で、撮影スタッフ全員が黒人差別を口にしないように気をつけ、現場が非常にピリピリしていたとき、陣中見舞いにやってきたロビン・ウィリアムスが大声で“オーケー、あの黒んぼはどこだ?”とやって一挙にその場の雰囲気が(プライヤー含めて)なごやかになった、というエピソードもある。そして、あのサウスパーク! あの番組がバカ受けした理由はここで改めて書くことすらヤボであろう。みんな同じ、というお題目で、どうしたって目につく差異に不自然に目をつぶることこそ、人間性をネジ曲げることになる。アメリカにおける人権や差別に対する認識はそこまで進歩している。

 もちろん、タテマエが大事であることも事実だ。ホンネ派の欠点は、ホンネの重要さをあげつらうあまり、タテマエを否定してしまうことである。ホンネがなければ人間は生きていけないのと同じく、タテマエがなくてもやはり生きていけない。これは社会の中に生きる者にとっての車の両輪だ。要は、使いわけをしろ、ということである。全てに敷衍するな、ということである。人間は、“正しくある自分”、にこだわらざるを得ず、しかし、それにばかりこだわっていると、必ずパンクしてしまう生きものなのだ。談生のような芸人は、その爆発を、彼の高座を聞くことでガス抜きし、食い止める、言わば安全弁として、かえって今日の世に最も必要とされる才能の持主なのではあるまいか(この記述になにかご意見があったら、メールで)。

 昼は昨日寿司屋から貰った稲荷5ケ。銀座に出て、銀行で金をおろし、東劇ビル三階の松竹試写室でスペイン映画『どつかれてアンダルシア(仮)』試写。この(仮)が本当に決ってないのか、ギャグなのかは不明。スペインにもドツキ漫才というのがあるとは知らなんだ。1970年代から90年代にいたるまでの政治や風俗、テレビ番組の変遷を細かく追っていて、それのノスタルジアも含めて、スペインで『タイタニック』以上のヒットを記録したというのはよくわかるが、日本人にはちと前知識がなければキツい。イタリアだとこの題材でならもっと軽妙なコメディに仕立てあげるんだろうが、スペイン映画らしい泥くささ、鈍重さが全編を覆っていて、大笑いできる、とはちと言いかねる。とはいえ、テーマ性はシリアスで、日本人にも十分通じるだろう。むしろ、喜劇として売らない方がいい映画ではないか?

 観終わったあと、三越地下で少々買い物。銀座線で帰宅。少し資料調べ。8時半、花菜で酒、食事。職人のマルちゃんと雑談。今度、彼が昼の部の主任も兼ねるようになったので、うまくなりますよ、と言われる。ウドンもうちはじめる、というので、釜あげやってくれたらいくよ、と約束。彼、海外の21世紀カウントダウンのラジオ番組に出演した、というので、へえ、と驚いたら、年越しソバを打つ、その音を撮りにきたんだとか。ブリ塩焼、厚揚げ野沢菜添え、とろ落ちなど。ビール生一パイ、日本酒二本、焼酎ソバ湯割二ハイ、少し飲み過ぎ。

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