裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

16日

日曜日

ソドム、してますか?

長嶋さん、そんな趣味が……。

※『創』対談書きたし 雑用事務

朝、8時50分起床。入浴最中に母から朝食の電話。
上がってすぐ、朝食。
ブドー数粒、リンゴ三片、イチゴ大二粒。
青豆スープカップ一杯。

『創』対談、250w不足とやら。書き足してメール。
テレビのニュースで、佐世保事件の犯人が猟銃を所持していることを
近隣住人が警察に届けたが、相手にしてもらえなかったとか。
警察の対応はこの場合まずかったと思うが、しかし
資格を得ての猟銃の所持は法律で認められた権利である。
これを“お前は人を傷害する恐れがある”と警察が口出しした場合、
またどこかの団体が“管理国家だ”“人権の侵害だ”と
騒ぎ立てることは火を見るよりあきらかだろう。
騒ぎ立てることにも一理ないとは言えない。
銃を規制せよ、と叫ぶ一派のように単純には考えられない。
個々の人々に武装の権利を与えるということは、
お上が圧制を課してきた場合、それに自分たちは黙っていませんよ、
という、“反抗の権利”“革命の権利”の保証だからである。
しかし、武器は必ずしも圧制者に向けてのみ使用されるものではない。
むしろ逆の場合の方がはるかに多い。
じゃあ、規制を徹底させることを第一義に考えなくては、と
言う意見に、現実的には私も傾きがちである。
しかし、“それでいいのか”という思いが、自由主義教育を
受けて育ってきた身にはどうしても捨て切れない。
安全と精神の自由は相反する概念なのか。
ここらへん、悩むところである。
規制・反規制、どちらにせよ、脊髄反射的に結論を出せる人たちの単純さが、
ちょっとうらやましかったりするのである(ここらへんで、私は
テレビコメンテーターには基本的に向いていない)。

昼は冷凍焼けしていた馬肉をネギ、ショウガなどと茹でてダシを
とり、8番ラーメンを茹でてその馬スープで食べる。
やはりただのラーメンスープよりはるかにうまい。

4時、家を出て地下鉄で新宿。
小田急ハルクで買い物。目的物ナシ。
バスでそこから渋谷、東急ハンズで手回し式のプロセッサーを買う。

事務所、冷えきっている。
荷物類整理。
来週中の一日は大掃除にあてねば。
年末のお芝居、展覧会などのお誘い多々。
予定をやりくりするがどうしても無理なのもあり。
それに関連して、ちょっと通販。
なんでも通販で手に入るなあ、とちょっと感動。

8時、帰宅の徒につくがいや、外の冷えること。
ここ数年無かった寒気である。
バスを待つ間、手や顔を外気にさらしているだけでつらい。
朝の寒気は清々しくて、むしろ好むところだし、北海道の
雪の夜の寒さも絵になるが、東京の、湿気のある寒さは
もうもう、ひたすらつらいだけ。

サントクで買い物して帰る。
ちょっといたずらで、買ったヤリイカをおろし、手回しプロセッサー
で目玉とカラストンビ以外、キモもカワも全てミンチにして
タマネギ、パン粉と混ぜ合わせ、“イカバーグ”を作ってみる。
墨袋も混ぜたので真っ黒なものが出来上がった。
一個焼いて、パンにはさんで食ってみるが、なかなか面白い味。
まだ、料理としての完成には一工夫か。

残ったものをご飯と一緒に炒めて、イカチャーハンを作る。
こっちの方が出来がよかった。しかし、手回しプロセッサー、
わずか1700円のものだが、パン粉も作れるし、意外なスグレモノ
である。

ビデオでマーティン・スコセッシ『最後の誘惑』(1988)。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000NJMLF0/karasawashyun-22
キリストの生涯を描いたものだが、その衝撃的な描写で
欧米では物議をかもし、キリスト教右派の上映反対運動が起り、
フランスでは映画館が爆破される事件が起った。
原作者のギリシア人哲学者、ニコス・カザンザキスは57年に
死んでいるが、ギリシア正教会から破門され、死後も教会の墓地
から遺体が撤去されたといういわく付きの作品だ。
映画の冒頭、民族音楽を大胆に取り入れたピーター・ガブリエルの
主題曲が、赤い色だけの画面に流れるところで引き入れられてしまった。
これは聖書の物語ではなく、西暦20年ころにイスラエルにいた
イエスという人物の物語なのだ。

以下、ネタバレ部分もある。
要するにイエスを神の子でなく、悩める人間として描き、
神の使命を帯びながらも性欲に悩み、平凡だが幸福な人生を望んだり
する存在として描いている作品なのである。
マグダラのマリアとのセックスシーンまであるし、
始終頭痛に悩まされているその姿は、神の声が聞こえるのも
要するに脳障害の産物だったのでは、という暗喩である。
一応、盲人の目をあけたり、ラザロを甦らせたりはするので、
神の子という自称が妄想ではない、という設定ではあるのだが。

イエスは自分が神の子として磔刑になる運命を享受するが、
そこに少女(天使)が現れ、彼を十字架から救い出して、
マグダラのマリアのもとに連れていく。
イエスはマグダラのマリアと結婚し、マリアは妊娠するが、
急死してしまう(原作ではイエスを裏切り者として憎むパウロに
殺されることになっている)。イエスは今度はラザロの二人の
娘と結婚し(姉妹を同時に妻にすることは当時のイスラエルでは
普通のことで、ヤコブも叔父のラバンの二人の娘と結婚している)、
多くの子供をもうけて幸福な家庭を築く。子供を抱いて市場に
買い物に出かけるその姿はまるで現代のよきパパの姿みたいだ。

だが、幸福なその人生の果ての臨終の席に、かつての使徒たちが
集まってくる。そしてユダは彼をののしり、この幸福な生活が
悪魔の誘惑であり、彼を十字架から助けたという天使は実は
悪魔の化身だったのだ、と告げる。
騙された、と知ったイエスは……と、そこで急転直下のラストシーン
につながり、映画はハッピーエンド(?)となって終わる。

正直、このラストシーンまではひたすら映画に見入っていたの
だが、ここで私はアレ? と思った。
このオチは(さまざまな見方はあるだろうが)、ロベール・アンリコ
の『ふくろうの河』(1962)ではないか。
それから影響を受けた大和屋竺の『荒野のダッチワイフ(1967)
も連想される。小説で言えばもちろん『ふくろうの河』の原作の、
ビアスの『アウル・クリーク橋の一事件』、それに久生十蘭の
『予言』……いや、キリストを使ってこういうオチをやっている
作品であれば、われわれにはコンタロウが少年ジャンプの読切で
描いた『華麗なるジョージ』(1980)という作品をすでに
知っている。十字架上のキリストが、世界最強の男になりたかった、
と神に願って、アメリカのプロレス界にブルーザー・ブロディと
なって甦る、という凄い話であったが(結局、ブロディの死の予言と
なってしまった)。

配役にはイエスになりきった感じのウィレム・ディフォーが凄く、
しかもやたら脱ぐ。十字架にかけられるところも全裸で、
モザイクがかかっていた。ユダ役のハーヴェイ・カイテルは
スコセッシ映画の常連だが、彼がキリストを裏切るためのサインの
接吻が、凄まじくディープなキスだったりして、カイテルが
もう少し昔ながらの優男を保っていてくれれば腐女子たちが
騒ぐのに、と思った。

よき家庭人イエスが街に出ると、パウロが十字架にかけられ
復活したイエスの偉大さを人々に説いている。
「私は凡人だ、そんな偉大な存在じゃない。こうして平凡な幸せを
楽しんでいるんだ、邪魔をするな」
となじるイエスに、パウロは
「あんたの言うことが真実だとしても、誰も信じないさ。
みんなにとって大事なのは平凡な実在のあんたじゃない。
復活したイエスだ。あんたは人々がどれほど神を必要にしているのか
分っていない。民衆にとって必要なのはイエス・キリストなんだ。
俺が作り出したイエスの方があんたよりもはるかに力があるんだ」
と答える。また、ヨハネも、洗礼者ヨハネが死の前にイエスに
後を託した、という噂は本当か、と訊かれ、
「本当かどうかは重要じゃない。大事なのは人々がそれを信じて
いるかどうかだ」
と答える。ここらは神の子と伝道者、というよりはタレントと
そのマネージャー、という関係のようである。
私が監督したらここらを中心に描くだろうな。
作られていくイエス像。

字幕翻訳で使徒たちがイエスを“先生”と呼んでいるのにはちょっと。
いかに“現代語で話すキリスト”がテーマ(私の聞き取り能力では
さっぱりわからないが、登場人物たちはみな、現代米語で話している
そうである)とはいえ、感じが出ない。ここはやはり“師よ”と
してほしかった。

パウロはハリー・ディーン・スタントンがハマり役で。
さらになんとアーヴィン・カシュナー(『帝国の逆襲』の監督)
がチョイ役で出ていたり、スコセッシ自身が予言者イザヤで
出たり、ピラト役でデビッド・ボウイが特出していたり、
予算のない(史劇としては破格の700万ドルという低予算)
この映画にスコセッシの友人たちがはせ参じたという感じ。
その中で、ユダヤのラビ役で、ネヘミア・パーソフが出ていたのに
驚いた。ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』で、
ジョージ・ラフトを殺してギャング組織のボスになる、
リトル・ナポレオンという悪党を演じていた人である。
息の長い俳優だなあ、と思っていたら、1918年生まれでまだ
存命のようである。
彼はイスラエルのパレスチナ生まれで、ここらへんは故郷。
だからキャスティングされたのかもしれない。
ネヘミアってのはまさにそのまま聖書の中に出てくる(ネヘミア記
というのがある)名前である

Copyright 2006 Shunichi Karasawa