裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

日曜日

処分〜、処分〜、処分〜

 ウルトラシリーズ在庫大処分! 朝、7時半起床。朝食、貝柱入り粥、スグキの漬け物。巨人の自力優勝が消えたことに対する徳光和夫の感想を聞こうと思っていたが聞きそこねた。岸田理生死去の報の方に気をとられていたため。寺山修司、実相寺昭雄といった才人たちとコンビを組んでいたが、金子修介と組んだ『1999年の夏休み』では、萩尾望都の『トーマの心臓』をモチーフに、登場人物の少年たちを全て少女に演じさせるという倒錯美を極めた世界を、社会から隔離された全寮制の学園の物語という設定にすることで綱渡りのように成功させた、日本映画の中のバロックとも言うべき作品だった。耽美の世界を具現させる才能の持ち主だったが、現実には耽美 とはほど遠い大腸癌で死ぬ。人間、創作物のようには死ねない。

 訃報と言えば、掲示板で知ったが、俳優の山本廉氏も17日に亡くなっていたとやら。享年72歳。われわれの世代には、特撮ものの常連というイメージで、特に『ウルトラマン』のギャンゴの回の小悪党・鬼田の大笑いの顔の繰り返しが、怪獣ギャンゴの顔にダブって連想されてしまうのだが、時代劇の巨匠・稲垣浩が現代劇で島崎藤村の原作を元に撮った人情劇の佳作『嵐』(1956)では、笠智衆演ずる大学教授の長男・太郎役。ちなみに次男が次郎という名で大塚国男、三男が三郎で久保明、末娘の長女が末子という名で、雪村いずみが演じていた。そんないい加減な名前をつけられたせいでもなかろうが、次男、三男が内向的でなつかなかったり、長じて反政府運動にかぶれたりと、男手ひとつで子供たちを育てる笠を悩ませるのだが、体が弱くて農家に預けられた長男の山本廉だけは、山暮らしが性にあったのかめきめき健康になり、“次郎も三郎もこっちに寄こして百姓をさせれば、変なことなんか考えないよ うになるさ”といたって楽天家なのが笑わせた。

 読売新聞日曜書評欄で、いつも超絶技巧を見せている荻野アンナ、今回はなんと、リュシアン・フェーブルの『ラブレーの宗教』と、高木ブー『第5の男』というカケ離れた二冊を並べて論じるという凄いことをやっている。かたやフランス古典文学研究の名著、かたや癒し人気に乗ったタレント本。どうしたって同次元で語れるものではあり得ず、事実、無理して“ユーモラスでぬるめホットの語り口”がどこか共通している”と言われても、コジツケにしか思えないのだが、ここで荻野氏は、この欄の書評委員会の楽屋ばなしを冒頭に持ち出し、荻野氏が秘かに自分と同じ感覚の持ち主と感じ、その評書の選定眼に舌を巻いている同僚の樺山紘一氏(歴史学者・国立西洋美術館長)と偶然、選定がバッティングしたのがこの二冊だった、と紹介するのである。もちろん、ラブレー研究が専門の荻野氏にとり、この二冊のうち、真に紹介したかったのが前者であることは間違いない。しかし、同時に作家として現代の読者と正面から向き合っている氏にとり、16世紀フランスの一人文主義者が果たして神を否定していたかどうか、などということの細かな分析が、一般人にとり100パーセントどうでもいいことである、ということも自明のことであったろう。紹介する本と、読者との間の接点はどこにあるか、そこに頭を悩ました末の、高木ブー本との並列であったと想像できる。ここまでのアクロバットを新聞の書評欄でやってみせたことには、それこそ舌を巻かざるを得ない。着地で少し足元が乱れてしまった感もあるが、 ここではとにかく、その度胸と才気に拍手を送るべきだと思う。

 ちなみに、この評の隣りにある井上ひさしの『読書眼鏡』(なをきが題字と筆者の似顔絵を描いている)は、非戦主義者の駄文の好例。チョムスキーの著書をひき、実名は出していないが最近のマスコミの北朝鮮脅威論を批判し、“わたしたちは怯える前に、相手をよく知らなければならない。とことんまで相手を知ること。怯えるのはそれからでも遅くはない”と言っている。われわれ国民がこれまで北朝鮮に怯えを感じていなかったのは、一部の文化人たちがかの国の実状を知ろうとするマスコミの動きを牽制していたからではなかったのか。われわれがいま、北朝鮮に対し怯えているのは、北朝鮮のことを知らないからではない。その情報が小泉訪朝以来漏れだしてきて、われわれが北朝鮮の真実の姿をよく知ることが出来るようになったからなのである。絶対平和主義というのは、井上ほどの知識人の頭ですら、ボケさせてしまう宿痾 であるらしい。

 仕事部屋、あまりに片付きすぎていて、なにやら入り口から仕事机までの距離が遠く感じてしまうほど。何の障害物もなく、すっとドアのところに足を運べる感覚を、長らく忘れてしまっていた。ついでに、パソコンのマウスを昨日、新しいものに取り替えた。以前と型は同じなのだが、前のがだいぶ汚れたので、新しいのにしたのである。これも、当然のことながらクリックが極めて軽く、愉快この上ない。昼は冷や飯に、冷凍庫の中の鰺の干物がそろそろ冷凍庫焼けを起こしてきていたようなので、焼 いて。あと、ジャガイモの味噌汁。干物、幸いまだ十分に美味。

 2時、家を出て、新宿から埼京線で池袋まで。シアターグリーンにて立川志らくの劇団『下町ダニーローズ』旗揚げ公演、『ブルーフロッグマンの憂鬱』観劇。出演者に阿部能丸さんがいるという縁である。映画を撮るだけでなく、劇団まで立ち上げるという、金のなくなる方へ方へと足を踏み入れているような気がするなあ、志らくという人は。出演者も当然同業が多く、主役が小三治門下の柳家一琴、円楽一門の三遊亭楽春、それに志らくの弟子のらく朝、らく坊、らく八など。ゲスト出演が兄弟子、立川談四楼。もちろん、志らく自身も出演する。ヒロインの酒井莉加と友人役山咲レオナはネットアイドル出身だし、あとはシンガーの石原千宝美とコントオアシズの大久保佳代子、映画監督の内藤忠司という面々で、本職の役者は阿部さんと、映画『異形の恋』に出演していた(池島ゆたかプロデュースのパニック・ピンク映画『OL発情・奪う!』にも出ていたな)奈賀毬子くらいか。

 ずんぐりむっくりな体型の一琴(私は昔の横目家助平という名の方がなじみがあるけど)が好青年を演ずるのがおかしいが、これが実にピッタリの好演だし、逆にまったく日本人ぽくないあやしげな顔をいかした楽春のマッドサイエンティスト、本職が医者とは思えぬ、失業者の小人物役が似合うらく朝、天然ボケっぽくて、大丈夫かとハラハラさせながらも、きちんと律儀に演技している酒井莉加の可愛さも十分に発揮できていて、役者陣は一応の充実。スーパーマーケット進出に悩む老舗の八百屋一家の長男の結婚物語といった、松竹新喜劇にありそうな人情ばなしが一転、世界征服をたくらむ謎の組織・柴又エンペラーに青ガエルの改造人間、ブルーフロッグマンにされてしまった男の悲喜劇というナンセンスに展開していく。服を急いで脱ぐと下にタイツ姿のヒーロー衣装が現れる、というのは談之助の懐かしのスーパーヒーローからのいただきだろうし、悪の組織のボス、ヒヨコ将軍が、世界征服なんてもう古い、これからは地道に市井の企業としてやっていく、と宣言して、ロマンチストの幹部トカゲ女に反乱される、というのは『オースティン・パワーズ』のノリである。脚本のストーリィ展開や構成は、さすがに村木藤志郎や中島かずきのものを見慣れている身にはあちこち穴が目立つ(戦隊ヒーローは五人揃わないとダメ、という設定のパロディがあったが、そんなことはない、四人や三人といった戦隊ものもたくさんある)が、しかし、落語家の劇団と聞いて、
「アア、鹿芝居ね」
 と正直タカをくくっていたこっちにとっては、意外にしっかり“演劇”している、思わぬひろいものであった。客も満席の盛況。客席に『一秒だけモノクローム』の西 山さんこと、ティーチャ佐藤さんの姿が見えた。

 で、われらが阿部能丸くんであるが、酒井莉加の父親役で、一琴が改造人間にされたことを知って二人を引き離そうとする、まあ憎まれ役でもあり、ギャグもほとんどない、地味な役どころであったが、これが驚いた。実にいいのである。アドリブを多用して、カチッとした芝居をどんどん“壊していく”のが主眼の藤志郎一座に比べ、台詞をしっかり入れた上で、キャラクター像を掘り下げていくという、いわゆる普通の役者仕事である今回の役どこになると、プロ俳優としての阿部能丸の実力が発揮される(一カ所大きくつっかえたのがご愛敬だったが)。一見、世間知を代表する常識人としての人物像の中に、ストーリィが進行して話がナンセンスの域に達していくにつれ、その齟齬による狂気が宿っていく。半素人ばかりの舞台が、安心して見ていられたのは阿部さんのこの渋い演技と、奈賀毬子の捨て身のブッ翔んだ演技という、二人のプロのそれが、きちっと重石になっていたからだろう。この公演、ひょっとして俳優・阿部能丸の転機になるのじゃないか? とさえ思われたほどだった。

 満足して帰宅。途中、丸の内線で新宿三丁目で降りてクイーンズ・シェフで買い物する。開田さんの同人誌用の原稿をカリカリ。9時、家を出てタクシーで参宮橋。くりくりでK子と夕食。今日は案外空いていて、絵里さんともゆっくり話が出来た。この店の名前、ひらがなとカタカナのどちらで書くのが正式なのかと訊いたら、やはり元々はひらがな書きの“くりくり”であったとか。それが雑誌などで紹介されるとなぜかクリクリと書かれ、いつの間にかなしくずしにクリクリになってしまったとか。エビのオーヴン焼きにタルタルステーキ、野菜のオーヴン焼き、自家製ソーセージとパスタ。ワインがかなり回ってしまう。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa