裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

16日

日曜日

フリクリがフリクリにきてフリクレず

 フリクリ帰るフリクリの声。朝7時15分起床。朝食はソーセージと胚芽パン。昨日伊勢丹で買ったマスタードをパンにもたっぷり塗って。これはシュバンクマイエルの『FOOD』を観て覚えた食べ方。マスタードはディジョンの粒無しのもの。粒入りのマスタードというのはどうも苦手なのである。果物は温州ミカン。

 目が覚めたとき、昨日の酒が頭に残って、少し不快な状態だった。残るほど飲んではいないのだが、やはり体の疲れか、アルコールの分解が遅くなっているのかもしれない。母から電話。伯父の話、北海道の大雪の話、映画の話。K子の用事で中断したが、その後またかかってきて、夕方にもかかり、都合三度の電話だった。
「やっぱりね、新しい映画は『エリザベス』も『恋に落ちたシェイクスピア』もいまいち性に合わないわ。私は古いものが好きなのよ」
 と、ビデオを大量買いした話。『哀愁』『旅情』『花咲ける騎士道』『麗しのサブリナ』などの話が母子ではずむ。母(と、いうかその世代)にとり、まず映画は“われわれとは別世界のスター”が出ていないとダメであり、ケイト・ブランシェットだのグウィネス・バルトロウなどではそこらのチンピラであって、金払って観にいくタマではないのであった。映画館はグレタ・ガルボだのエリザベス・テイラーだのビビアン・リーだのといった、同じ人類とは思えない華のある女優を観に足を運ぶものなのである。
「リアリズムなんてものを入れるから映画はダメになるのよ」
 とは、母の御意見。なるほど、地に足のついている生活をしているオトナたちにとり、リアリズムは日常にあるのであって、わざわざ映画館で確認するにも及ぶまい。いっとき現実を忘れさせる夢こそスクリーンに映し出されるべき、という説は、今の時代であればこそ、もう一度考えてみる余地がありそうだ。

 北海道新聞の書評用本を読む。それから、昨日の芝崎くんの報告を受けての、と学会運営に関する提案をパティオに書き込む。昼に青山まで散歩。タワレコを冷やかして、紀の国屋で夕食の材料を買い物。表参道、今年は並木の飾り付けを自粛して、一ケ所のみにし、その飾りも、木を痛めない新方式のものにしたそうである。どこの木に取り付けられたのか、ちょっと探してみたがわからず。昼は2時近くに、ワカメと シラスをゴマ油で炒め、豆腐にのせて、それをオカズに食べる。

 テレコムのプロデューサーから電話。『本パラ』のギャランティの話。文化人値段よりは少しマシ、という程度だが、新著の宣伝をいろいろさせてもらえるとのことでそれでOKする。テレビで儲けよう、とか思ってはイケマセン。宣伝と心得るべし。

 夕方、胸のあたりが急に苦しくなり、あわてて救心をのむ。前屈みに原稿ばかり書いているせいで胸の筋肉が凝ったらしい。胸の痛みというのは、それが去ったあとに何か多幸感のようなものが残る。それだけ苦しくて、脳内に向精神物質が分泌されるのであろう。

 8時半、夕食。キャベツとソーセージのスープ煮、イカのバタいしり風味、シャケのわっぱ飯。テレビをつけたら北条時宗で伊東四郎が出ている。あれ、だいぶ前にこの役は死んだのでは、と一瞬思い、あ、総集編か、とわかる。もう大河ドラマの総集編を流す時期だったか。ビデオで片岡千恵蔵『さいころ奉行』。知恵蔵の遠山の金さんシリーズは、父の遠山景晋が悪人の陰謀で失脚しそうになったり切腹させられそうになったのを救う、というパターンが多いが、親父と息子がほとんど同い年に見えるのがなんとも。知恵蔵に人が“おい、そこの若いの”と声をかけるだけで大笑いしてしまう。まだ私もリアリズムに毒されているか?

 オタアミ会議室に、カネコゴジラ観にいった人からの書き込み。『とっとこハム太郎』を観にきた親子連れのためだろう、父兄のみなさまへ、として劇場から
「本日はご来場いただきまして誠に有り難うございます。ご承知とは存じますが、同時上映の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』は、お正月恒例となりました迫力満点の怪獣特撮映画です。今回初めてご覧になる未就学児童のお子さま方には作品内容を何卒ご理解の上ご鑑賞下さいますようよろしくお願い申し上げます」
 という張紙がしてあったという。この張紙の記名が“とっとこ8686プロジェクト”であることから考えて、東宝の会議でハム太郎側のスタッフから
「こんな子供が怖がる映画を併映して、そのおかげで観客動員が減って、それをハム太郎のせいにされては困る!」
 という苦情が出たのだろう。私が宣伝部員の人に言った心配がちょっと当たってしまった感である。

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