裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

5日

水曜日

秋の日のホビロンのため息の

 身にしみてひたぶるに気味悪し。ちなみにホビロンは気味悪いがおいしいですよ。
http://homepage2.nifty.com/asipara/balut.htm
 ↑こんなものですが。朝6時半起床、入浴。7時25分朝食、またリンゴとニンジン。今日は今年初めて、仕事場へ行かない日。とはいえ仕事はする。リビングのパソコンで原稿、アスペクト『社会派くん』号外。5枚くらいという注文だったが、書いているうちにどんどん筆が乗ってきて、結局10枚。それを2時間でやっつける。我 ながらテンション高い。

 それから母と外出。地下鉄で丸の内線〜日比谷線と乗り継ぎ、東銀座の歌舞伎座。新春大歌舞伎。コーディネートしてくれた快楽亭、中で待っていた。前から三列目といういい席で、両者を左右に置いた真ん中の席についたが、私をはさんで飛び交う母 と快楽亭の濃い役者ばなしに圧倒される。
「あら時蔵が夜の部は出るのね。この子のお父さん知っている?」
「写真でだけですが、いい男でしたネ!」
「いや、芝居は下手だったけど、写真で見てもほれぼれするいい男だったのよ!」
 まったくついて行けず。こういうコンビが出来るとは。

 演目は『操三番叟』『梶原平三誉石切』『盲長屋梅加賀鳶』それに『女伊達』。女伊達以外はそれも観たことのあるおなじみのもの。最初の操三番叟、染五郎が人形振 で出て踊るが、華があり若くて体力があり、人形振の踊りは見事。母も
「うまくなったわねえ!」
 と感服。もっとも、私は人形振というと、先代の雷門助六師匠のものを観て、あれが基準になっている。もともと、千歳を祝う縁起ものの踊りを人形に踊らせるというシャレっ気が趣向なので、あのいかにもお遊びの和製パントマイムの楽しさに比べると、染五郎のこれは、顔中に汗をいっぱいかいての“熱演”という感じで、飄々たる軽みの境地ではない。と母に言ったら、誰とやらの三番叟がまさにその飄々たるもので、あまりに名人過ぎて素人にはどこがいいのやら、さっぱりわからなかった由。これも一考すべき意見か。一生懸命さが見えるあたりが見巧者のいなくなった現代には いいのかも知れない。

 石切梶原も正月らしいめでたい演目なんだろうが、罪人とはいえ人を重ねて二つ胴にする、みたいな芝居を正月から観て笑うという歌舞伎の感性というのも凄い。その二つ胴にされる罪人(板東秀調・演)の酒づくしのセリフ、“石牢の中にも百年の孤独”なんてのが入る。役者が考えるんだろうが、こういうのは2ちゃんの歌舞伎板などで募集すれば、もっとギャグセンスのいいのが集まるのではないか。で、梶原は吉右衛門が演ずる。この正月は幸四郎・吉右衛門の兄弟競演がウリだが、快楽亭に裏話などを聞いてニヤニヤ。プログラムには“兄弟は相変わらず仲がいい”などと書いて あったが。

 吉右衛門はさすがに上背もあり、なにより上手い。が、どうも貫禄に欠けると思うのは私だけか? つまり、この芝居の主要なストーリィ部分は、娘の婿を助ける金を作るため、売る名刀の試し切りに自らを斬らせようと決意し、それを娘に見させまいとして、折り紙(刀の保証書)を取りに行ってこいと騙して家に帰すという六郎太夫(市川段四郎)の親心なのだが、その段四郎の芝居の最中に、吉右衛門は表情を何度も変え、コレハという驚きの仕草とか、感じ入った風情だとかを表してみせる。近代演劇であればそれはリアリズムとして結構なのだろうが、歌舞伎というのはリアリズムの世界とは違うのだ。まして、この石切梶原は、御霊信仰と大きな関わりのある祭祀芝居だ。主人公の梶原平三景時は荒ぶる神の権化として舞台中央にずっと威厳を保ちつつ、だまって坐り続けるのである。ここでは、小さい人間ドラマなどを歯牙にもかけない貫目を見せて、ただじっと中央で客席をにらんでいるのが正しいありかたではないだろうか。吉右衛門の芝居が巧い、ということにおいては異存はないのだけれども、その巧さはせいぜいが時代劇小説の主人公(鬼平とか)を演ずるレベルの巧さであって、祝祭芝居の中心をなす威厳を備えるとまではいかないように思う。まあ、これは吉右衛門に限ったことではなく、例えば今度勘三郎を継ぐ勘九郎の芝居などにも感じてしまうことなのだが、これもさっきの見巧者問題と同じく、歌舞伎に祝祭を読みとる信仰のそもそも無くなった時代には仕方のないことなのか。あと、今日も芝居の最中に、しょっちゅう“高麗屋!”“澤潟屋!”という掛け声がかかってはいたが、梶原が手水鉢を斬ったときの“刀も刀、斬り手も斬り手”という台詞の後に“役 者も役者”と定番の掛け声がなかったのを、母が残念がっていた。

 そこで昼食、地下の食堂で寿司。幕間に食べるには少し量が多いような気がする。携帯が鳴ったので出てみるとO氏。打ち合わせの日取りをそこで。後半は『盲長屋梅加賀鳶』、最初の連ねはまさに正月ぽい風情だが、その後の悪按摩・道玄のピカレスクはまったく正月ぽくない。人殺しと、盲目の女房を責め折檻するような話をめでたい正月に持ってくることに、誰も疑問を抱いていないようなのが面白い。そもそも、タイトルを公共放送で流せない演目なのが素晴らしい。設定が“盲ばかりが住んでい る長屋”という、ナンセンスなものなのが傑作である。

 プログラムの解説には
「すっきりした鳶の頭梅吉と極悪非道でも愛嬌のある道玄の二役を幸四郎が初役でつとめる注目の舞台」
 とあるが、入れ替わりで務めるならともかく、梅吉は初幕にしか登場しないで、あとはずっと道玄のままで通すんだから、別に二役でも難しくもなんともない。なんでこんなところを注目しなければならんのか。もっともこの道玄、幸四郎の、凄みはするが小悪党という軽みのある台詞回しがいい具合で、初役とは思えないいい出来。そう言えば昔、まだ染五郎であった幸四郎がNHKの大河ドラマ『黄金の日々』に主演 したとき、私は高校生だったが、クラスメートの千葉哲平という男が
「染五郎の、真面目な役の端々に見せる喜劇的演技に感心した。あんな巧い役者だとは思わなかった」
 と妙に通のような批評をし、私は“そんなに巧かねえだろう”と否定的な感想を述べた記憶がある。なるほど、今回の舞台で初めて、幸四郎の軽み演技の魅力を再発見 して、うならされたのであった。哲平よ、否定して悪かった。

 しかし、今回の殊勲甲は、幸四郎の道玄ではなく、その愛人である悪女・お兼を演じた福助だろう。これには舌を巻いた。プログラムのインタビューでも“みんなびっくりすると思います”と自信の程をのぞかせていたが、まさにその存在感、全身から発散する最下層の悪ゆえの魅力、もし歌舞伎にラストの舞台挨拶などという風習があるとするならば、スタンディング・オベーションものの名演だった。快楽亭に聞いたら、こういう芝居をさせれば福助はうまい、ということだったが、『石切梶原』の六郎太夫の娘・梢とは180度違う役柄で、しかもこのところ福助は太って頬に肉がつき、ちょっと梢役はつらかったという感じだったのだが、このお兼はイメージ合いすぎ、ふてくされ演技うますぎ(こういう芝居はうますぎでいいのだ)。福助のイメージを改めた。悪にすれきった女で、文字も読み書きできない最下層民の獏連女なのだが、道玄に惚れきっている姿がやたら可愛いのである。うーん、これを観られただけ でも今日の観劇は価値があった。

 ところでこの芝居の幕があいたあたりから、何やら焦げた匂いがただよってきて、すわ火事か、と一瞬思ったが、舞台で本火を使ってキセルで煙草を登場人物たちが吸う、その火鉢の火の匂いであった。いい席で観ると匂いまで芝居のうちとして味わえる。ラストの女伊達、これはいかにも正月らしいナンセンス舞踊で女侠客が男たちを手玉に取った末にポンポン投げ飛ばすというものだが、80いくつの芝翫では残念ながら粋が感じられない。これもリアルな現代演劇ではないんだ、様式で見ろ様式で、と自分に言い聞かせるのだが、いかに白粉を厚く塗ろうと隠せぬ皺と喉のたるみ、それから動きがどうしたって婆さんである。こういうときは遠くの席の方がいいかもし れない。

 何にしても久々の歌舞伎に満足して出て、有楽町まで歩き、山手線で目黒まで。権之助坂にあるちゃんこ屋『時津洋』。全女のリングアナの今井さんが店長をしている店。芝居のハネ時間が早かったのでまだ仕込み中だったが、上がらせてもらって、芝居談義しながら待つ。今日はアルバイトでなんとミスター・ブッタマンが来るというので、久闊を叙し、お年玉を上げて、一緒に写真を撮る。今井さんがやたら恐縮して 酒やつまみを運んでくれた。

 快楽亭がブッタマンをやたら可愛がって、手をはたいちゃ
「コビト、コビト」
 と呼ぶ。以前、K子の監督した『不思議の国のゲイたち』にブッタマンを使ったとき、快楽亭が撮影の後、彼を焼肉に誘い、何気なく歩いていたら、足のコンパスが違うのでいつの間にかかなり先を歩いていて、ふと気づいて振り向くと、ブッタマンが追いつこうと必死にチョコマカと駆け足で歩いて来る。その姿を見たとき、急に涙がこみあげてきて、いとおしくてたまらなくなったそうだ。まあ、ダックスフント飼っている人間も同じいとおしさを感じるのだろうが、快楽亭の場合はちょっと違う。世にはじかれた異形・異種のもの、差別される側の同類として、その連帯としてのいと おしさなのである。こっちもちょっと、二人の姿にウルウルとなった。

 ちゃんこは黒豚しょうゆ鍋。なかなかうまい。歌舞伎の話とブッタマンでご機嫌になったものか、快楽亭が酒をやたら過ごし、足元もおぼつかなくなる。こういう快楽亭を見るのも珍しい。母もたっぷり楽しんだようで、ご機嫌で帰宅。こういう、強制的休日もたまには必要。今年は凄まじく忙しいだろうが、その中を縫って無理にでも時間を取るべし、と決意。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa