裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

14日

火曜日

くらまてんぐマチコ先生

 え、池田屋に新撰組が斬り込み? まいっちんぐぅ。朝5時半くらいに目が覚めてしまい、暖かいのでそのまま起き出して、昨日書きかけだったモノ・マガジン原稿を完成させてメールする。〆切メモをよく見たら、おとつい書き上げたクルーの原稿は期日が来週の月曜だった。一週間間違えていた。いつも原稿の遅い人間がいきなり一週間も早く送ってきて、向こうも驚いたろう。

 TMCから新作『まいっちんぐマチコ先生』(河崎実監督)と、中野監督の『花弁の忍者・桃影』のビデオを送っていただく。感謝。何のお礼とても出来ないので、せめて今朝の日記のシャレをマチコ先生でやろう(こないだの記載が“マチ子先生”になっていた、というツッコミの手紙つきだった)。ホームページも出来た、というの でアドレスも記載しておく。明日、完成記者会見もあるとやら。
http://www.maicching-machiko.com/

 メールいくつも書く。ほぼ、お仕事関係である。今年は文筆業以外に、いろいろと仕事の幅が広がりそうだ。アスペクトKさんから、対談本の書名案を急いで送ってほしい(取次が欲しがっている)というので、とりあえず5つ6つ考えて送る。このあいだ時間割で考えろと言われた時にはいくら考えても出てこなかったのに、今日はポコポコと浮かぶ。脳というのは全体が常にまんべんなく働くとは限らないようだ。

 岡田さんとの文庫本付録対談、著者校正原稿返送。かなり赤入れてしまう。先日のゲラチェックでは“単語の意味”中心にチェックして、今回は“文のつながり”を主にチェック入れたため。前に言ったことと矛盾するようにとれる文章がひょこひょこ出てきて、これでは読売の書評を笑えない。……とはいえ、この原稿でそういう箇所が多出するのはこれが対談採録だからであり、かつ、原稿用紙に直せば50枚以上になる長いものだからである。それだって、チェックしようという気がありさえすれば1時間かそこらで可能なのだ。

 今朝の新聞、拉致被害者の地村さん夫妻が許可なくインタビューを掲載された、として週刊朝日に抗議したというニュース、読売新聞は一段程度の小さな報道だったが産経は角スペースで鬼の首でもとったかのような大きな扱い。いかにも産経らしい。で、その朝日であるが、アサヒコムのネットニュースに、遠山文部科学相が記者会見で、北朝鮮を“北鮮”と呼んで、差別語だと批判されてあわてて取り消した、と出ていた。検索してみると、このニュースを報じているのはその時点では朝日と共同通 信のみ。まあ、朝日と産経、どっちもどっちという感じか。

 しかし、この“北鮮”問題はひっかかる。以前にも一行知識掲示板で言及したことがあるが、これをそもそも差別語である、とする判断基準はどこにあるのか。例の昭和35年初版三省堂国語辞典では“北鮮”は“朝鮮半島のきたの部分(の地方)。朝鮮民主主義人民共和国がある。(←→南鮮)”とあり、差別語であるという指摘は一切ない。広辞苑(1996年電子版)でも、“北部朝鮮の意。戦後、俗に朝鮮民主主義人民共和国をこう呼んだ”と、差別語扱いなどにはしていない。北鮮人という字義には、少なくとも、北朝鮮人が日本人のことをウェノム(倭奴)と呼ぶような蔑意は全く含まれていない。どうも、この言葉が差別語であるという背景には、“「朝鮮」の下の文字でなく上の文字を略すのは、略称表記において他に例がなく、「朝鮮人には頭などいらない」として上をとってしまった日帝支配時代の蔑称である”という主張をする人々の存在があるらしい。鮮人なる語が日帝時代の造語であるという言い立ては、江戸時代の正式な文書(大谷家古文書等)にも同一の呼称があることからも完全な誤謬であることがわかる。そして、略称において単語の上の部分を略す例はないという説に対しては、中京大学教授の田中克彦氏が、その著書『差別語から入る言語学入門』(明石書店)の中で、
「たとえば“京阪”、“阪神”などというときの阪は、“大阪”のアタマの“大”を捨て、“阪”という身の方をとったケースだ」
 と指摘し、他に濃尾平野、京王線、蘭人、関門海峡などといった実例を多々挙げて反駁している。北鮮、鮮人という言葉に不幸な歴史があったことを否定するつもりはない。しかし、そのことをことさらに言い立てるために、これらの言葉自体に差別 語という性格を付与させるのは欺瞞であり、また、その言い立てに無批判に従うことが正常な国交関係には決してつながらないことも常識以前のことだろう。

 2時に時間割で銀河出版Iくんと打ち合わせ。1時過ぎに家を出て、昨日のフィルムをサクラヤで現像に出す。腹ごしらえと思い隣の江戸一に入り、エンガワ、サーモンなど数皿。食って出たら、ちょうどIくんがいた。無駄話しながら時間割へ。彼がSF大会のスタッフを務めていたのがハマコンのときで、そのとき初めて私の企画を見、こうして担当となって本を出すのは感慨深いそうである。顔を合わせての打ち合わせは初めてなので、内容についてあまり具体的な話はせず、他の本との兼ね合いも考慮してのスケジュールの話が中心。関連する資料本のことなどをIくんから聞く。あとは際限ないオタ話、SF業界・サブカル・思想業界内輪ばなし。人物月旦あれこれ。みんな酒癖が悪いねえ。アニドウの歴史などについて話す。Iくんから大衆文化研究書の初期傑作として、河出新書の鶴見俊輔『大衆芸術』(昭和29年)を譲られる。ラジオドラマ、漫画、大衆小説から生け花、サークル詩、生け花まで取り上げた総合大衆芸術論。例によってこういうものを民衆の力としよう、という姿勢にやや、古いもの(しかし大衆文化研究にはいまだに尾をひきずっている考えなのだが)を感じるのだが、しかしその網羅性は凄い。アメリカの漫画を論じて(『稲妻ゴードン』『超人』『狂い猫』といったタイトルの訳が時代を感じさせて実にいい)、“米国において漫画は宗教の役目をノットリつつある。それは言語を新たに設定し、児童を教育し、神話を與え、自由思索の場を提供し、同時にまた画一的理想を人々に投げ、現実とがっしり組み合わさっており、不安定社会における安定を象徴する”という定義しているのは鋭い。

 4時、帰宅。原稿にかかろうとするが、気圧不安定(一昨日以来の温暖前線と、今晩からの寒冷前線が入れ替わっている最中らしい)で全身マヒ状態。休息に仕事が進まなくなったり、鬱状態になったりしている同じ体質の仲間が多分、たくさんいるはず。メール書いたり読書したりで過ごす。M田くんから紙芝居本の企画がデータ圧縮で来るが、解凍できず。5時、買い物に出て、魚の高いのにネをあげたりなんだり。帰ってまたウダウダ、明日のこと明日のことと投げ出して9時夕食の準備。ラムのジンギスカン風炒め、アブラゲと笹カマボコの煮物、ナンのタイカレー添えという無国籍メニュー。

 送られたビデオを見る。『まいっちんぐマチコ先生』にはなんと、あのロス疑惑の三浦和義氏がライバル校の校長役で出演。ゲテ極まりないキャスティングだが、かつて石井輝男が自分の映画にホンモノの阿部定を(阿部定役で)出演させたのと同じ、カツドウを芸術でなく見世物、としてとらえる、ある意味健康的な姿勢がある。これは評価すべきであろう。まあ、どう考えてもこの作品、ゲイジュツじゃないけど。一方の『花弁の忍者・桃影』はまたこれ、どうしようもなく中野貴雄。低予算対策と見えて、かつての作品に登場した小道具やシーンがいっぱい持ち出されてきていて懐かしい。一番笑ったギャグは“悪人の好きな人に動物はいない!”というやつ。バカビデオでバカになりっぱなしもナンなので、そのあと『名曲アルバム・ドイツ編』で少し優雅に。ドイツの山城は実に絵になってカッコいいが、不便だろうなあ。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa