裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

6日

土曜日

ジャン・ジャック下がって師の影を踏まず

 ルソーくんは礼儀正しいねえ。朝6時起床。昨日まで気になって仕方がなかった汗の臭いがきれいさっぱり消えているのに苦笑する。やはりあれはアスペクトの原稿が間に合わないという、足下に火がついたあせりの臭いだったのか、それとも神経的に異臭を感じる精神状態であったのか。日記つけたり、残っていた雑用をあれこれ片付け、K子にはチャーハンをこさえておく。自分はトーストとウインナーで朝食。久しぶりに女房を置いての旅行である。天気は薄曇り。去年、伊賀良に鯉食いツアーをしたとき、ビデオを見せてもらい、ここの上清内路という村の花火祭りの凄さに驚き、来年はぜひ、という感じで計画していたのである。何でも、この上清内路の花火奉納は江戸時代から二百七十年の伝統を持つ祭で、この村の若い者の大半が花火師の資格を持ち、青年団がそれぞれに工夫した仕掛け花火をこの祭りで披露する。なんと戦時中も途絶えずに行ってきたというから凄い。

 新宿西口の長距離バスターミナルに8時20分ころ到着。小銭を切らしたので近くの富士銀行のサービスコーナーに寄るが、カードがなぜか使えなくなっていた。植木不等式氏、談之助夫妻、開田夫妻と無事に到着、長距離バスで長野伊賀良に出発。植木さんと隣り合わせの席なので、ダジャレ連発。他の席の夫婦ものたちは体力温存で寝ていたが、われわれだけ四方山の話で長野までの5時間をずっと過ごした。

 2時過ぎ、伊賀良着。迎えのバンを出してくれていて、木下“談志居眠裁判被告”浩志氏の店『しなの路』へ。伊賀良の町はあちこちに手作りの行灯が飾られ、祭りの雰囲気である。今晩が上清内路村の煙火(花火)祭りで、9日が下清内路の煙火祭りなんだとか。一旦ホテルに荷物を置き(もうここの久米川温泉ホテルも三度目か)、例の蕎麦屋さんへ(2000年10月の日記を参照のこと)。ここの店の前のコンクリート像が三遊亭新潟(白鳥)さんそっくりなので、ヒコクさんなどはもう“新潟の蕎麦屋”で通じさせている。店の入口に、アメリカのアフガン報復攻撃反対の張紙。“ブュシュに協力はしないぞ”などと書かれている。ブュシュという表記がいかにもここの主人らしい。もっとも今日は何かの用事で主人は不在。店員に、スキンヘッドの女性がいた。

 男性陣はみんな、三枚盛り。これがもう、アッという間に腹におさまる。食べるというより、胃の中に“移る”という感じ。タレがちょっと甘くなったような気がしたけど。一時間以内にここの三枚盛りを三つ食べればタダになるのだが、植木さんが挑戦したがっていた。私も出来そうな気がしたが、まあ、地ビールも飲んだし。

 さて、腹ごしらえもしたし、という感じで、いざ花火へ。上清内路という村は伊賀良からさらに山の中へ三十分ほど入っていったところ。ここの諏訪神社秋季例祭で、煙火を奉納するのである。火薬類取締法の規制により、一般客の見学は出来ないことになっているのだが、そこをしなの路さんの顔と、ここで落語会を定期的に開催している立川流の一員である談之助師匠のツテで、なんとかもぐり込めたという次第。すでに場所取りがされており、われわれは近くの酒屋で飲み料を仕込んで、夕暮れが次第に濃くなる山あいを眺めながら、見学の準備。しなの路さんからくれぐれも防寒の用意を、と言われていたのでコートの上に、K子が昔仕事場で着ていたドテラをはおり、東急ハンズで買ったヘルメットをかぶり、首筋に火花が飛び込まないようにタオルを巻いて、という、異様な扮装となる。この神社の境内というのは、まあ小さな公園程度の広さで、ふつう、神社の本体というのは境内の真ん中に位置して建っているものだが、ここはスミッコの方に押しやられて、物置きみたいにして置かれている。要するに、すべての作りが、境内で花火を打ち上げる目的で設計されている。

 待つこと2時間、やがてワッショイワッショイと村の若い衆がみこし代わりにかついで来たのが、直径50センチ、長さ三メートルはあろうという大花火『大三国』。“石原都知事の気に入りそうな花火ですな”と植木さんや談之助さんと笑う。奉納のお祓いがすんだあと、地元小学生による花火太鼓、その間も打上げ花火がドンドンと鳴る。神社の境内はすでに人で埋まっており、村長さんがあちこちの集団を回っては酒をふるまわれている。ヘルメットにハッピ(別に火消し装束などではない、フツーの法被)姿のスタッフが花火の点検をしているが、驚いたことに(以下、官憲の目に触れてこの花火奉納が出来なくなると困るので70文字省略)。

 こっちもカップ酒くらい、しなの路さんで詰めてくれた折を食い、かなりいい機嫌になってきた。花火真際の最前列をとってくれた世話役のお爺さんがきて、しなの路さんと話している。昔は不発の花火を調べにいったら顔の真ん前で爆発したとか、飛んだ花火が腹巻きの中に飛び込んでそこで破裂したとか、いろいろとアクシデントがあったようだ。盆や正月には帰らなくても、この村の出身者は、この祭りのときには必ず帰省して、花火に参加するという。

 さて、いよいよ仕掛け花火点火。『ぶどう棚』から始まって、巴車(しゃくま)、花笠、網火、大滝と、大仕掛け花火が次々に披露される。そこはプロでない、村人有志の制作だけに(火薬からこのむらで製作している)ダンドリももたついたり、失敗も相次ぐが、そこがまた楽しいらしい。中でも今回の目玉の、上清内路川をまたいで対岸まで一輪車をこいで渡る“はず”のア××××ン(マルCをとってないと思うので伏せ字)は、点火されたとたんにバン、と破裂して止まってしまい、残念ながら活躍を見ることは出来なかった。小学校の生徒たちが一週間かけて作ったという(まあ花火は大人が仕掛けたんだろうが)“UFO”も、谷の途中で惜しくも息切れ。蝶々型のやつは見事に火を吹きながら対岸まで飛んだが、戻ってきたトンボ型のはこっち岸に着いたとたん、林の中に座礁した。驚くのは、いくら不発とはいえ、まだ火がパチパチと爆ぜている花火を、スタッフの若い衆が平気で近付き、手で持って再着火させること。それも、百円ライターでである。

 いやもう、とにかく一時間強というもの、火花火花火花の連続。スタッフたちは、滝のように流れ落ちる火花の下でスクラムくんで(スクラム組むのは、怖がって逃げるヤツを足留めするためである)ワッショワッショと踊り狂う。これを土地の言葉で“ひよう”と言うらしく(“火酔う”、か?)進行役の声がマイクで“はい、もっとひよってください、全員でひよって、ひよって!”などとオヤカシている。ただの火花でない、鉄粉が発火しているのを滝のように浴びるのだから、ハッピなどすぐ焼け焦げてしまうだろうが、そこがたまらぬ興奮なのだろう。最後の第、ではない大三国は去年までは御柱の上に装着した花火のところにその年の年男が登っていって火をつける方式だったが、事故が続いたため(去年だか一昨年だかの年男は火をつけたとたんに柱が倒れ、すぐ救急車に乗せて病院に運ばれたという。その男はその病院で知りあった看護婦さんと結婚したというから、やはり年男には御利益があるのである。

 われわれも御利益にあやかろうと、しなの路さんはじめ、何とか最後の大三国の火花は浴びたいと思っていたのだが、係員に絶対禁止を言い渡され、残念ながらあきらめる。とはいえ、火花の饗宴と、火薬のニオイに徹底して酔った一時間であった。興奮さめやらぬまま、『しなの路』の店に帰り、ビール飲みながら雑談。立川談志談義など。しなの路さんに、私の著書にサインなど求められる。あと、みんなで色紙に今日の花火のことを寄せ書き。

 久米川ホテルに帰って、露天風呂につかる。月の光がもやった雲の中から射していて、いい感じ。男どもはさらに部屋で缶ビール飲みながらバカばなし。志ん朝死去の話題をきっかけに、談之助師匠の落語講義が始まったが、これがまことにタメになって、ゼミみたいな感じになる。2時過ぎまでなんだかんだと。明日のジオポリスは今日のメンツみんなで押し掛けて、花火大会トークにすることとする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa