裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

12日

木曜日

あんたがたドコサ、ヘキサ

 ヘキどこさ、エン酸さ。朝7時半起き。朝食、パン切らしたのでK子にパンケーキをクレープ風に焼く。自分はレトルトのチリコンカン。早朝は晴れていたが、やがてぐーんと暗くなっていく。気圧がぐんぐん低くなっていくのがわかり、体が麻痺でもしたみたいに動かなくなる。

 Web現代の資料となるネット検索。かなりいいとこを発見。それ以外、本日予定の仕事、何もできず。全身がうっすらと汗ばみ、倦怠感が全身を覆う。なんとか血液を循環させなければ、と、昼に六本木まで出て、銀行に寄り、買い物。何を食おう、という頭も働かず、近くに吉野家があったので飛び込み、並を注文。それとお新香、と頼んだら、こないだまでの250円セールで牛丼が売れ過ぎて、現在お新香の製造が間に合わない状態なのだそうで、無いと断られる。お新香なしで牛丼を食うのは、かなりつらかった。

 帰って、しばらく横になる。そのまま、ずーんと奈落に落ち込むように、気絶したように寝る。昔の知り合いに嫌味を言われ、腹が立って怒鳴り返そうとしたが、いやいや、怒鳴るよりこれを日記に書こう、いいネタがひろえた、と思い返し、パソコンの前に座るところで目が覚める。すでに4時。

 原稿書き出すが進まず。イッソ、と放擲して5時半に家を出、新宿西口。中央線で中野まで。K子と待ち合わせて、中野芸能小劇場、快楽亭ブラック独演会。今日はゲストが圓丈師匠。昨日弟子と飲んで、今日は師匠の落語を聞く、というのもなかなか結構。入口で出会った快楽亭が、“アラ、いらしたんですか。文芸座のNさんから、今日カラサワ先生いらっしゃるかしらと電話があったんで、お忙しいから来ないと思いますが、と答えちゃいましたよ”と言う。何かカケ違うな。

 会場、6分の入り。快楽亭の会にしては入りが薄い。開口一番がブラ汁、それから春風亭昇輔、快楽亭の『湯屋番』全女バージョン、中入り後が圓丈、特別ゲストで白山先生、最後が快楽亭二席目で『英国密航』。圓丈の大須演芸場ネタ、なにやらあのボロ席が、オペラの怪人でも現れそうなバロックなイメージに転化される傑作。中に“おとろしや”というアナクロな芸人(嵯峨乃家喜昇)が出てくるが、まだ圓丈さんが二つ目の頃は現存していたのか。その時代より十数年も前に、談志が“以前は名古屋にいた”と、既に滅んだという認識で語っていた芸である。この分では、まだ地方を回れば、エッと驚くような古怪な芸が残存しているのではないか。
・嵯峨乃家喜昇については下記のコラムを参照。これを書いたマルセ太郎ももういない。ただし、マルセさんは“おとろしや”を喜昇さんのアダ名としているが、談志さ んも今日の圓丈さんも、芸の分類として語っている。
http://www.ppn.co.jp/saru/maruse/essei/otorosiya.html

 快楽亭は昨日、白山先生と睦月さんと遅くまで痛飲していたそうで、今日の高座は言い淀みや語り間違いが多く、ちょっと低調。圓丈さんは最近、聞くたびに凄みを増してきているような気がする。かつての『パニック・イン落語界』のヤミクモなパワフルさや、十五年ほど前、にっかん飛び切り落語会のようなメジャーな場の、しかもトリでまったく笑いのない『わからない』をやった(なをきが聞いて感動にフルエていた)ときのようなアグレッシブな危険度はなく、56歳なりの枯れ方をしているのだが、それが非常に聞いていて心地いいのである。五年ばかり前に聞いたときはまだピリピリしたような緊張感があったが、すっかりそれがまろやかに熟成している。話の危険度は変わらないのだが、その語り口に自在な余裕が出てきたというか。現在の私はちょうど、アグレッシブな頃の圓丈さんと同年齢。あと十五年もしたら、これくらいに余裕を持った、枯れたものを書きたいものだと思う。

 会場には開田夫妻やQPハニー氏をはじめ、原稿を待たしている(笑)世界文化社のDさんはじめ、知り合いの顔もかなり。もっとも、二次会までつきあったのは(身内では)あやさんとわれわれのみ。白山先生が、上座を圓丈さんに勧めるときのやりとりが笑った。
「圓生を継ぐ人がそんなとこに座っちゃいけない」
「イヤ、継ぎません」

 白山先生はわれわれの席にやってきてくださって、例によっていろいろと。色豪ばなしになり、これは珍談。途中で圓丈さんのところに私は移るが、おとろしやの話は聞き忘れた。『わからない』の話をしたら、“エッ、ボクがそんなステイタスの高いトコロに出てましたか? イヤア、黄金時代があったんだなア”とトボケられる。とはいえ、“『わからない』はもう一度、大きなところでやってみたいと思うこともあるんだけど、やっぱり、度胸がいるよねえ”とも。年をとるとやはりそういう乱暴はしにくくなる。とはいえ、話は古典オンリーの人にはまず口に出来ないような辛辣さにあふれ、面白いったらない。K子は昇輔さんとマンガばなし。昇輔さんは、快楽亭も出ているK子の『不思議の国のゲイたち』を観に上野世界傑作劇場に行ったが、恐くてすぐ逃げ出してしまったそうである。

 11時にお開き。駅までの道で白山先生が、“ちょっと見てて”と、道路標識の鉄柱にカキーン、と突きを入れてみせたのに驚く。“な、いい音がするだろ? コツがあるんだ”と大自慢。なんで突然こんな芸を見せてくれたかは不明。ずっと独身なこともあり、ゲイ疑惑が広まっているのをやたら気にしていたから、男らしさを強調して見せたのかもしれない。話に夢中であまり食べなかったので、われわれ二人、中野ブロードウェイ傍のサッポロラーメン屋(快楽亭ご推薦の店)でつけめん食ってから帰る。雨は降りそうで降らなかった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa