裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

19日

木曜日

亭主淡白

 あなた、もう終わり? 朝5時覚醒。熟睡していたんだが寒くて目が覚めた。林丈二『明治がらくた博覧会』(晶文社)など読んで、6時半にまたウトつき、7時に起床。朝食、例のごとくダイエットスープ。煮卵が切れたのでバナナ。自家製で煮卵を作ろうと思いたち、卵を茹で、ウドンだしに殻を剥いて漬けてみた。どういう味になるか。

 原稿書き。12時ころ、芝崎くんから電話。ちょっと渋谷へ来ているので、仕事の確認に寄っていいですかというので、会って話す。彼は私の仕事に、いま『都市論』と『手塚治虫論』、それに太田出版の『と学会白書』と、三冊で関わっている。太田の仕事について少しアドバイス。こないだ、ちょっとプライベートでつらいことがあり、いささか落ち込んでいたらしい。人生いろいろ、頑張れ。手塚本のことで少し打ち合せているうち、手塚治虫と水木しげるの比較論になり、それぞれのキャラクター性の違いを話していたら、芝崎くん、ちょっと考えて“唐沢さんは手塚系キャラで、志水さん(彼はイーハトーヴ出版の『トンデモ創世紀2000』で二人の対談オコシをやった)は水木系なんですよねえ”と言う。自分のことはともかく、志水一夫氏が水木系キャラ、という指摘には膝を叩いちゃったよ、私ゃ。

 芝崎くん帰って、1時にエンターブレインNくん来、のハズだったがなかなか来ない。前のインタビューが少し長引くので遅れるという電話があったので、その間に昼飯。きのう丸正で買ったカツでカツめし食う。本来トンカツはロースカツしか食わない男なのだが、ダイエット中なので脂肪分の少ないヒレカツで我慢。まあ、気休めに過ぎず。2時、Nくん来て、スケジュールいろいろ調整。来年の出版の話もする。彼がいま作っているゴジラ本で、キングシーサーや流星ゾーンのスーツアクターだった久須美欽一氏にインタビューしているのだが、何と、久須美氏が実は××で作った×××××の『〜』に、××の×役で出演していることが判明したとか。これはよほど濃い特撮マニアでもまず、知らない意外な配役であろう。私も全く知らず、ぎょえーと驚く。しばらくその話で盛り上り、次の打ち合わせに食い込みそうになる。こんなささいなことで興奮するオタクって何なんだ。

 3時、東武ホテルロビーでカタログハウスS氏と落ち合い、時間割で打ち合わせ。来年1月の『通販生活』で、“刑務所の中で読める雑誌”というインタビューをやってくれ、という。電話で依頼がきたときは、単なるコメントかと思ったら、元受刑者さんや看守さんなどに、私がインタビューするのであった。特集の表紙撮影には網走まで行って、網走刑務所(現在は監獄博物館)で撮影することになるという。なかなかぜいたくに予算使うことである。網走は小学校の修学旅行以来だな。

 三人連続で打ち合わせすると少しバテる。インターネットをちょっとのぞく。立川談生の日記で、渋谷の悪ガキどもに向かって、
「ガキが“うぜぇ”ように、こっちも“うぜぇ”んだって」
 と言い捨てているのに拍手。22日の会に行きたいんだが、親父上京だしなあ。そう言えば、この日にはマンガ研究会も、神田陽司の会もある。集中するときは集中。

 岐阜在住のアニメ評論家・翻訳家のみやもとかおるさん(太田出版から来年、世界のエロアニメの本を翻訳刊行するらしい。これは楽しみ)からメール指摘。昨日の日 記中の
「手塚治虫がテレビアニメを製作しだすより十年も前に、リミテッド・アニメは“完成”してしまっている」
 というくだりが説明不足で誤解を招くのではないか、ということ。うん、本当はここで詳しくリミテッドについて解説しようと思ったのだけど、長くなるし、濃い読者諸兄にはとっくにご承知のことでもあろうと思ったのでカットして、あのような表現になったのだった。以下、いささかくどいがそのカットした部分を掲載する。

「リミテッド・アニメという用語には意味が二つある。ひとつは動画の動きそのものをディフォルメしたもので、自然的・写実的なフル・アニメを、よりアップテンポでグラフィカルなものにするために、動きや絵に意識的に制限を加えていることから、リミテッドと呼ばれる。ディズニーのキンボール作品などでは、絵を極端にシンプルなグラフィック・アート的なものにし、動きはリズミカルなフル・アニメ、というものもあるが、これもリミテッド・アニメなのである。この場合、リミテッドは必ずしも動画枚数が少ないことを意味しない。そしてもうひとつが、主にTV用に、動画の枚数ソノモノに制限を加えたリミテッドである。これはもう、ただ単純に予算節約という一事のためのみに動きを犠牲にしているわけで、UPAの『マグーの冒険』や、ハナ・バーベラの『どら猫大将』などみんなこれ。ただし、アメリカ製のTVアニメは初期には基本の一秒二コマ十二枚撮りという方式自体は崩さず、動作のくりかえしと、口パクの多用で枚数を節約したものがほとんどだった。ところが、これを日本で手塚治虫氏が『鉄腕アトム』を製作する際、リミテッド、という意味を拡大解釈し、動画一枚を三コマ撮り、つまり一秒につき動画八枚で済ます手法を取り入れた。当然のことながら動きはかなりギクシャクするものの、なにしろ主人公がロボットなのであるから(!)それも不自然ではない、と思われ、また、日本において子供たちがそれほどフル・アニメになじんでいなかった環境が幸いしたか、これが大ヒットし、それ以降、TVアニメは一枚三コマ撮り、という“常識”が定着してしまった。大塚康生氏の著書『作画汗まみれ』(徳間書店)などには、当時、東映動画の心あるアニメーターたちが、いかにこの三コマ撮りにいきどおったかが語られている。業界では自虐的に、この手法を“日本式リミテッド”と言い習わしているうち、三コマ撮りアニメがすなわちリミテッド・アニメであると誤解され、また、いつしか視聴者の目がこの動きの荒さに慣れてしまい、フル・アニメを“くねくね動いてきもち悪い、古くさ いもの”とする意識が生まれてしまった」

 最後の認識が大いなる誤りであることは、『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』のあのダイナミズムや詩情が、フル・アニメならではの効果であることを思えばあきらかだろう。リミテッドの特色である動きのリズムやメリハリは、実はディズニー・プロダクションが半世紀近くも前に既に技法として完成させたものであり、日本のリミテッドは、最近、やっと、その本来の特製を再認識し、これを取り入れて日本式発 展を遂げつつあるもの(に過ぎない、とは言わないが)なのだ。

 三コマ撮りリミテッドについての最も正当な定義は、
「リミテッド・スタイルというものは、少なくともその当初においては、作家たちの内的創造的欲求から生まれたものだった。ところが、それが、一九五七年以降のTV用漫画映画の全盛期に入るにつれ、ディズニー流の完成されすぎたフル・アニメのしがらみからぬけ出すためという芸術的理由は事実上単なる美名にすぎなくなり、製作費の節約というありがたい恩恵(!)だけが悪循環の結果として残った、というのが 今日の実状である」
 というもの(森卓也『アニメーション入門』1966、美術出版社)であろう。いまや三コマ撮り、いや六コマ、八コマ撮りリミテッドさえ出現し、それが“日本独自の手法”などと言われるまでになっている実状にはそぐわないかもしれないが、それだけに、カン違いしている若い人々には正しい認識を持ってもらいたい(これも誤解されないようつけ加えれば、私は三コマ撮りTV作品を決して否定してはいない。もともと、それをリアルタイムで享受して育った世代であって、違和感もそれほど感じないし、その安っぽさに価値を見出してこそオタクであろう。ただし、アニメ史を正しく認識するならば、それらはあくまでもB級の、邪道的テクニックであることをお さえておかねばならないと思う)。

 ところで、この文章を書くために、昨日の日記で参考図書として挙げた『フィルムメーカーズ6/宮崎駿』を読み返してみたら、“ジャパニメーション”という言葉は日本の粗悪なリミテッド・アニメを指す言葉であり、ジブリの作品はそう呼ばれてい ない、と書かれていた。これ、ホントかね?

 8時、居酒屋『九州』でK子、啓乕くんと待合せ。啓乕くん企画のエロゲーに、K子がキャラデザインをするという話で、二人打ち合わせしていたのであった。久しぶりに啓乕くんと、オタクきわまる特撮ばなし。からか鰯、さつまあげ、馬刺しとモツ鍋。焼酎四ハイくらい、生二つで大変いい気持ちになる。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa