裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

11日

月曜日

シャブ漬けの味

小津の映画はありゃ、ドラッグみたいなものだよ。

※『スパモニ』出演 白夜書房キャプション 週刊現代インタビュー 週刊現代コラム

5時半目覚め、入浴。
窓外、天気のせいかかなり暗い。
ファンからいただいたミカンを一個食べて、
服装整えて出る。
オノが玄関で待っていた。
ハイヤーで六本木、この時分にはかなり明るくなっていた。
15分ちょっとで着。
今日は沖さんがアメリカ旅行のため、代わりに弁護士で木曜の
レギュラーの石丸幸人さん。

打ち合せしてスタジオへ。
今日も祝日なので30分延長バージョン。
一ヶ月半の臨時コメンテーター稼業も今日で最後である。
一ヶ月という予定が半月延びたのも意外ではあった。
山口編集長に、週刊朝日インタビューの件で挨拶。
あの後すぐに編集部に“カラサワさんに取材に行け!”と
指示したそうである。
早起きにはとうとう慣れなかったが、この番組に出て、
この反応を得たことが大きな収穫だったと思う。

石丸さんの反応が私に近いものがあり、
最終出演回にして最も気分良く食いつけた。
他のコメンテーターやキャスター氏のしゃべる部分を食って
しまったところもあるが、そこはそれ、最後だし大目に見て
もらおう。山口さん、自分でも金嬉老のことなどで
「ピュアな人間なんです」
と言うのが可笑しい。私は逆にその言葉を振りかざすのは
控えておく。七十九歳の金嬉老は、落語家みたいな巻き舌で
しゃべる人のよさそうな、しかしおっちょこちょいそうな
爺さんであった。

ところで、その金嬉老コーナーが終わった直後の
CMが育毛剤『柑気楼』(かんきろう)。スタジオ爆笑となるが、
しかしこの商品名、金嬉老と語呂がここまで似ていることを意識して
いなかったのだろうか。
それとも、もう金嬉老などだれも記憶にない昔の話になって
しまったのか。

終わって、赤江さん、吉永さんなどと記念写真。
石丸さんが、嬉しそうに
「ブログに使わせていただいていいですか」
とか、今度対談を、とか言ってきてくださる。
私の著作なども読んでくださっているらしい。

Tディレクター、取りあえず今後もピンチヒッターなどで是非とのことで、
よろしくと挨拶しながらハイヤーで新中野。
マンション玄関のオートロックが故障だとかで、通用門から入る。
母の室で朝食をとろうとしたら、すっかり忘れていた。
応急にヤキソバなど作ってもらい、一皿半、食べる。
自室に帰り、パチスロ必勝法NE0のキャプション原稿。

少し寝るが、今日はゆうべの寝が足りているせいか、寝つけず。
藤巻一保の『江戸怪奇標本箱』を読む。
少しウトウトして、起きたら携帯に着信あり、番号にバックコール
したら週刊ポスト編集部。
担当がいないということなので、じゃあいいときにでも電話下さいと
言っておく。

しばらくして電話、“週刊○○編集部ですが”というので、
てっきりポストかと思ったら、週刊現代だった。
某芸能人のことで、“ぜひ辛辣なご意見を”と言われたので、
彼個人というより、それを取り巻く家族、業界全体のことも
含めて、いま現在の問題点を指摘し、本人の自覚が間違った
方向に行っているのではないか、というようなことを。
その業界全体の現在の構成につき、少し時間かけて解説したら
喜んでくれた。

電話終わり、その、電話していた週刊現代のコラム原稿を
書く。文字数合せに苦労するも、何とか書き上げてメール。
終えてすぐ出て、地下鉄乗り継いで上野広小路。
立川流定席。腹がだいぶ空いていたので虫やしないと思い
松坂屋の地下でお焼きを買う。並んでいたが、並ぶ方向を間違えて
逆方向に立ってしまった。常連らしいおばさんにそれを
指摘され、すいませんとあやまろうと思った先に、おばさん、
お焼き屋の店員に
「ほら、こちらにこの人が並んでいたんだけど、私はこっちって
知っていたから。でも、順番はこちらの方が先だからそれでいいわ。
こっちにいつも並んでいたから、私はこっちが正しいことを
知っているんで、この方がこっちに立っているのを見て、あら、
と思ったんだけど……」
と、繰り返し繰り返しそれを強調して話すので、あやまるタイミング
を逆に逸してしまう。世の中によくあるパターンである。

上野広小路亭、ちょうど談四楼さんが上がったところ。
文字助さんは風邪やって帰ってしまったらしい。
9分の入りで驚く。客席にQPさんら知りあいの顔。
談四楼さんは『井戸の茶碗』。古物鑑定のところで、『お宝鑑定団』
のギャグを入れようとしたら、客席のおばさんが
「いい仕事してますねえ」
と先に言ってしまった。
そこで仲入りで、ロビーで雑談。

後半が志の吉から。『てんしき』。聞いている最中に携帯に
電話あり、マナーモードだったので切ったが、切ったときに
解除されてしまったらしく、また鳴り出した(音量は絞ってあった
からよかったが)。あわててロビーに飛び出たが、志の吉に何か
突っ込まれていたようだ。ちと恥ずかしい。
週刊現代からで、送った原稿の行数調整についてのことだった。
メールしてくれればいいのに。

その後が談幸、『替り目』。志ん生バージョンの、
「お前、まだそこにいるのか!」
で落とさず、ちゃんと最後のオチまで演じたので脇のお客が
“初めてこの題名の意味がわかった!”と感に堪えたようにつぶやいて
いた。オチまでやったのは、さっきのおばさんがまた
「奥さん、帰ってきてるよ」
などと言ったためで、談幸、
「あ、あなたでしたか! いや、さっきから楽屋であなたの
話で持ち切りで」
とあしらって続けたが、これでは志ん生バージョンではオトせまい。
しかし、このおばさん、トリの談笑のときまで、声を出し続けていた
(談四楼、談幸、談笑それぞれのおばちゃんへのリアクションが
面白かった)。

この他、後から入ってきた初老の男女も、いちいち
「あ、これはこうするんだ」
「きっとあれだよ」
などと、くすぐりのたびに声を出し続けていた。
落語をあまり聞いたことがないのだろう。
いや、こういう客が迷惑だというより、こういうお客が、落語を
やっているというだけで聞いてみようかと思って入ってくる、
というだけ、落語がいま、ポピュラーなものに復帰しつつある
ことを喜ばないといけないのかもしれない。

トリは談笑。いまの新作落語の時代とのズレ方をマクラにふって、
大ネタ『文七元結』。
あくまで古典落語として、しかしそこは談笑で、所々に自分なりの
解釈を入れて。佐野槌の女将の生い立ちなど、ほんの一言だが
深いドラマを感じさせる。あと、五十両の金をふところにした
長兵衛が大川橋で人にぶつかられ、金をすられた、と思って
思わず自殺を決心して……と、いきなり『ねずみ穴』にスライド
しかける、という、談笑独自の、落語世界のパラレル化のギャグもある。
オチのところまで、聞き手を油断させない談笑落語の世界を
今回も楽しんだ。ところどころデティールがスッ飛ばされてしまう
あたり、聞いていてハラハラするが、五十両の金を持って少し気が
大きくなっている長兵衛が、案外気軽に“いくらいるんだ?”と
訊いて、五十両と聞いてギャッとなるシーンは笑えるし、
オチの、ドキリとさせてそして……という演出も実にいい。
偉そうな言いようだが、“談笑もオトナになったなあ”と思った。

ちょっと談笑から離れて『文七元結』という噺のことを書くが、
この噺、人情噺の傑作として人口に膾炙されている割には
「現代人に理解しやすいストーリィなのか」
というと、ちょっと疑問が残る。
つまり、文七というキャラクターの心理が、現代人には
理解しにくいバックグラウンドを持っているからだ。
今の耳でこの噺を聞くと、文七という人間が何か軽薄な人物と
してしか受け取れない。忘れた金を盗られたと勘違いするのは
ともかく、娘を売った金をそっくりめぐんでくれたと聞きながら、
そのことを隠して、受け取った金だと嘘をついて旦那に渡そうと
するあたり、現代人の解釈ではどう演じても、人間的に問題がある
としか思えない。これとお久が最後に夫婦になって店を開くという
ハッピーエンドがどうにもとってつけたように不自然なのは、
そのせいだ。

これは、江戸、そして明治における“奉公”という概念の重要性
をバックグラウンドとしてわれわれが認識しにくいため、
である。当時の人間は、アイデンティティが確立している現代人
とはまったく異る。武士はお家、商人はお店(たな)に、それぞれ
従属することでしか、自分という存在を自己確認できなかったのである。
この従属関係からある程度自由な近代的自我に近いものを持っていたのが
自分の腕だけを頼りに生きていけた職人たちで、現代の落語で
語られることが最も多いのがこの職人たちを描いたものであることは
それを理由とする。

文七という商人にとり、お店をしくじる、ということは、自分の
存在を否定されるのと等しいことだった。それ故に、長兵衛も
自殺の決意をやむを得ないものと理解して大事な金を渡したわけだし、
文七も藁にもすがる思いで、長兵衛が娘のお久を売った金をお店に
差し出したのである。長兵衛のことを最初に内緒にしたのは、
お店の金をスリに盗られるという自分の不始末を知られれば、
お店をしくじるということへの恐怖からであり、また、博打に
負けて娘を(自発的とはいえ)吉原に売るということが、長兵衛に
とっても決して名誉な話ではなかったからである。

そして、お店への申し開きのために命を捨てる
というのは当時の世では美談に属することであり、だから、お久を
文七の嫁にやるという長兵衛の決断も全く妥当なわけである。
一方で、近江屋卯兵衛にとっては、自分が目をかけた使用人が
金を持って逃げるといった人物でなく、お店への申し訳のために
命を捨てようとまで思い詰める忠義者であったことへの安心感が
まず、先にあったろう。目をかけてやった奉公人に金を持ち逃げ
されたというのは、その被害よりもむしろ、そこの主人の目のなさ
を言い立てられる、卯兵衛本人の商人としての鼎の軽重を
問われる問題だった。たとえ、文七が実は無実であっても、死んで
しまえばどんな評判が立たないとも限らない。長兵衛は文七
一人の命を救ったわけではなく、近江屋の信用を救ったのである。
そこまで理解して初めて、あの、過剰とも思える近江屋の、
長兵衛への礼の仕方も理解できるだろう。

ここの、お店と奉公という概念を噺の中で説明すると長くなる。
完全に理解されるかどうかも疑わしい。かと言って、人間ドラマ
として描くには、文七の人間造形だけが前近代的であって、
そこだけ浮いてしまい、どうにも扱いにくい。
いきおい、ストーリィは長兵衛、長兵衛の女房、佐野槌の女将、
近江屋卯兵衛といったキャラクターを中心に展開され、
肝心の、タイトルに名前の入っている人物である文七は非常に
影の薄い存在になってしまったのではないか。

「古典を現代に」
というキャッチフレーズは耳に心地よいが、言うほど実は
簡単なことではない。古典を古典として尊重するためには、
時代の設定に忠実に人物を描くことが大事になるだろうが、それでは
そもそも現代に古典を持ち込みづらくなり、では人物心理などを
現代的に描き直すとすれば、それはそもそも古典なのか、という
根本の問題が生じる。
今は、それぞれの演者が、どう、古典を現代人に伝えるか、その
努力のあれこれを見比べて、ベストの方法を探る時期なのかも
しれない。いや、他人まかせではいけないのだろうが、
私の思うベストの答えを出してくれそうなのが談笑であることは
間違いない。

談笑さんに挨拶、明日がまた特ダネ! で早いというので
打ち上げなどは省略、地下鉄乗り継ぎで新中野まで。
やたら早く帰り着いた気がする。
サントクで買い物しようとするが、もう品物がほとんどない。
冷凍食品のメンチカツと、釜揚げの桜エビを買って、
これで日本酒、熱燗で。
DVDで『ザ・シークレット・ポリスマンズ・ボール』。
モンティ・パイソン以上にイギリス的ギャグが多く、よくわからん
ものがあり、そこのもどかしさがまた楽しいというか。
ビリー・コノリーの、
「なんでゲロの中には必ず角切りのニンジンが入ってるんだ?
食った憶えもないのに!」
というのは爆笑だった。筒井康隆も、『最高級有機質肥料』など
で、必ずニンジンの角切りを描写していたのを思い出す。

※写真はスパモニのみなさんと。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa