裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

30日

日曜日

ハイレグ浪人

満蒙を放浪するうちに下着の趣味が変わってな。朝8時起床。ゆうべは『ポケット』聞こうとして結局12時に寝てしまったので、案外早寝だと思ったのだが、肉体が眠りを欲しているなという感じ。風呂入り、9時45分朝食。トマトジュース(シイタケ末入り)、バナナ、イチゴ5〜6粒。

新聞に沼田曜一氏死去の報。81歳。『クリクリ』の絵里さんの父上である。東中野でずっと民話教室をやっており、つい半年ほど前もそこの駅で見かけたばかりだった。身も軽く歩いており、80の老人には見えなかったものだが。

『ウルトラQ』でガラダマ(ガラモンの操縦機)を乗せて榛名まで運ぶトラック運転手、牛山を演じた人である。人間に化けたセミ人間をピストルで撃って正体を現させたのもこの牛山だった。このときのガラッパチ演技もなかなかだったが、この人の顔はこれだけではない。日本を代表する怪優の一人であった。

新東宝後期のグロ路線の頃から東映に移っても、その存在感は日本的な人情芝居と一線を画した孤峰だった。
『地獄』においてメフィストフェレス的に真面目な学生・清水を誘惑する男・田村。
『海女の化物屋敷』でのキザなインテリと財宝をねらう凶暴な悪人の二面性を見せる悪役・水木。
『大虐殺〜関東大震災と軍部』では、細川俊夫演ずる大杉栄を扼殺(最後は刀で刺し殺すが)する狂気を見せるかと思えば一転、裁判の席でぬけぬけ芝居を打って死刑を免れる甘粕正彦。
『大東亜戦争と国際裁判』で、日本側弁護士団の中で唯一、クールに戦争肯定論を述べる林弁護士。
そして『総長賭博』の、爬虫類を思わせる冷酷さで新組長・名和宏を殺す仙波組代貸・野口。
いずれも日本映画史に残る怪演である。これだけユニークな役を演じながら、これまで誰も沼田曜一にインタビューをしようとか、本にまとめようとかしなかったのが悔やまれる。これは彼がある時期から民話の語り部の方にシフトして、70年代半ばから、ほとんど映画に出演しなくなったため、“過去の人”、いや、もっと言えば“まだ生きているのか”というイメージでとらえられていたからではないか。しかし90年代末に『リング』『リング2』でスクリーンに復活、その存在感を再確認させてくれたのは嬉しかった。

『黄金バット』(1966)ではナゾーの部下で、ケロイドというひどい名前の(実際顔にケロイドがある)宇宙人を演じて、高見エミリーをとらえ恐がらせていた。こんな役が好きな人らしく、現場でいろいろと提案をしてきて、監督の佐藤肇が“こういう役者さんは有難い”と感謝している。高見エミリーは言うまでもなく現・鳩山邦夫夫人だが、鳩山夫人は今朝のこの訃報を新聞で見て、あの映画の撮影当時のことを思い出しただろうか? 黙祷。絵里さんの店にも一度行っておかねば。

昼まで日記つけなど。昼飯は母の室で、塩サバと大根の味噌汁で。母の知りあいに黒澤明のカメラマンをした人の奥さんがいると聞いて驚く。黒澤明は偉くなってから映画がそう簡単に撮れなくなり、始終金に困っていたそうだ。自殺未遂を起こしたのも本当は金のトラブルだとか……。食べてベッドに横になり、少し寝る。怠惰きわまるが、まあ連休の二日目くらいは怠惰でいいだろう、と、昨日も書いたか。

昨日のうわの空『ただいま!』の感想。登場人物がやたら多くなると聞いていたんでとっちらかってしまわないか、と心配したのだが、その出入りについてはきちんと整理されていて、話が追えなくなることもなく、また、新キャラの誠(水科孝之)を筆頭にそれぞれの登場人物のそれぞれの物語を背負っての、島への帰還というテーマが新たに付与されていて、去年の同タイトルの芝居を観た観客にも新鮮に楽しめる工夫がなされていたのには感心。特に素人集団である詩吟愛好会の人たちの存在感が抜群で大笑いした。もとの話(『サヨナラ』)がいいから、そこらへんには安定感がある。とはいえ、その分、本来の芝居で最も際立つべきキヨとミキジ、そしてあずさの存在感が薄れてしまったのは残念とも残念。話のラストに向けての収斂が、芝居がバラエティ的になった分、散漫になっていた。

この散漫性は芝居そのものだけでなく、劇団としての方向性にも当てはまる気がしてならない。今年初めの座長の日記などを読むと、今年はうわの空をメジャー化していく方向性でいく、それにはもちろん核弾頭としておぐりゆかを先頭に立てる、ということだった。だったらば、一年一度の紀伊國屋公演、まずなすべきことはおぐりを徹底して目立たせるということだったはずだ。

いや、何もしなくても去年の同公演はまさに、おぐりゆか一人が芝居を引き回している、という感じの存在感を示していた。徹底した努力嫌いの馬鹿娘でありながら、その世間体を歯牙にもかけない無邪気な主張が、教師はじめ大人たちのリクツをことごとく論破し、最後は一夜漬けで東大に入るも、そんなもん意味ない、と蹴って島へと帰ってくる娘、あずさ。おぐりゆかのキャラクターとほぼ重なるこのあずさは、島で唯一無二の暴走キャラとして、抜群の印象度で芝居の片翼を支えていた。間違いなく女優・おぐりゆかにとっての代表作的演技だろう。それが今回は、類似のキャラクターを持つクラスメートたちを揃えてしまったために(もちろん、その個性の強力さは群を抜いているとはいえ)そのリーダーとして他人の暴走をおさえる役回りに回ってしまい、八方破れのエネルギーがかなり減じられてしまっていた。

女子高生軍団のみんなはそれぞれ好演で、アイモ走りも空ドラムも結構(ことに最後の中指立て!)だったが、はっきり言えば、こういう女優さんたちなら他の劇団にもいっぱいいる。うわの空にしかない武器はおぐりゆかであり、限られた公演時間の中で他の俳優のネタを見せるくらいなら、その時間分おぐりに充分あばれさせる、という道を選ぶべきではなかったか。実力不足で多少の批判は浴びても、おぐりの持つ華があれば、それを上回る支持は集められたはずだ。戦力の集中投入は全ての戦略の基礎、である。今回の舞台はそれを各所に分散してしまっている感がある。今のうわの空の、じわじわと人気はわきたちかけていながら、いまいちブレイクに至らない現状を打破しようと思っているのなら、尾針恵が抜けた後、少なくともあれ以上の若手が育っていく間は、おぐりへの一点集中により中央突破しか方法はないと思う。これは以前から座長やみずしなさんにも話していたことで、大元の了解は得られていたはずである。それだけに、そこへの徹底性の欠如が悔やまれる。

客演のコンタキンテさんはさすがに出てきただけで舞台がひきしまる存在感であるが、それをいじるミキジ役の座長がコンタキンテ本人のファンであるせいか、いじりに遠慮が見えている。去年の同じ役であった清水ひとみには、いじめスレスレまでツッコミを入れていて、実はちょっと引いた。やはり女性がいじめられる芝居はイヤである。今年はあのコンタキンテが相手なのだから、さぞ盛大ないじりといじられの対立が見られるだろうと期待していたのに、これがイマイチ。他の回がどうだったのか知らないで批判はしたくないが、ミキジのパワー不足は否めない。

思えばうわの空の舞台を5年間見続けて、最初の3年間はとにかく至福の時期であった。『ラストシーン』『サヨナラ』『中年ジャンプ』『一秒だけモノクローム/木星のペンギン』『ハッピーバースデー』……と本公演のタイトルを書きだしただけで、初観劇のときの笑いと涙と驚きが反復される。『モノクローム』までこの劇団にいた阿部能丸くんの話では、当時の小劇場界では、村木藤志郎という天才が現れた、と、あちこちで評判になっていたそうである。それもむべなるかな、と思える充実の公演群であった。そしてその勢いをかって小劇団にとってはあこがれの地である紀伊國屋ホール進出を果たし、いよいよメジャーへの道を、というところまで来て二年、なぜか足踏みをしてしまっている(ように思える)。これは、メジャーになるための、劇団の基本構造の改革がしっかり出来ていないためだろう。小劇団の枠組みの中での芝居と、メジャーでの芝居の間で振れてしまっている感じが見えているのである。

いや、何も劇団にとってはメジャーになることが全てではない。演劇人生の充実ということであれば、あえて中央進出せず、地方劇団にとどまって、自分たちに納得できる“いい芝居”だけをやっていく、という選択肢も、演劇人としては至極妥当な決断である。あまり社交的とは言えないこの劇団の性格上、ある程度の固定ファンをつかんで、本当に仲のいいメンバーで、安定した良質の舞台を作り続けていく、という手もアリだとは思う。とはいえ、それはあまりにもったいないと彼らも思い、私も思い、それで協力を申し述べ、いろいろとやってきたわけだが、この劇団構造がある意味ネックであった(もちろん自分の力不足はあるとして)。

メジャーに進出するということは、作品に商業性をつけ加えることである。要するに他者の目を入れるということである。自分の好きな舞台でなく、観客の好きな舞台を演じることである。いい舞台かどうかより、稼げる舞台か、という要素で測られるということである。厳しいプロの批評にもさらされるだろう。これまでとは全く異る演劇への取り組み方が要求される、ということなのである。

今のうわの空に、その体制への移行の準備があるとは思えない。そのままの形で拡大していっては、必ずそこにほころびが生ずる。何度か、おぐりを通じてそこへの改革の具申をしたのだが聞いてはもらえなかった。今回の舞台で、そのあたりへの配慮があるかと期待もしていたのだが、これまでと同様の芝居作りであったのが残念である。これまでのそこへのいらだちを悪意ととられたのがまた、非常に残念である。失われた時間を今は嘆くばかりだが、とはいえ、一旦ははまりこんだ劇団である。その発展と、いい舞台をこれからも作り、演じ続けていくことを、願わずにはいられない。

英語の勉強ちょっと。6時、家を出て中野までバス。アニドウ上映会於なかの芸能小劇場。『歌ふ短編アニメーション特集』。さすが連休初日で会場満員。常連さんも、Kさんが家族サービスで欠席された他は植木さん、まるさん、enoさん、FKJさんと大体が来て、珍しく加藤礼次朗くんも来た。あと、客席に辻真先さんの姿もあり。そうそう、私がアニドウへの入会申込みをやった電電ホールでのフライシャー上映会(もう二十年以上前)の客席に辻さんの姿があり、スペシャルゲストの野口久光さんに挨拶していたっけ(それで顔と名前が一致した)。辻真先と言えば当時の超売れっ子、商業アニメ脚本家の雄であり、そんな人がフライシャーのベティだのバッタ君だののファンとは、ちょっと頭の中で結びつかなかったものである。

上映作品はいつもの通り。最初に昭和10年の大日本映画協会製作になる『トーキーの話』という実写があったが、トーキーの技術解説で、その実例として歌を歌っているのがエノケンと二村定一という豪華なもの。顔だけ、岸井明も出てくる。あとハーマン・アイジングのカエルの黒人ミュージシャンシリーズ、トルンカの某西部劇の白黒バージョン、アヴェリー初期の未見作品だったジャズものなど、今回も充実。カエルの乱痴気騒ぎシリーズは弟のなをきが大好きだったなあ。きちんと注射器でドラッグ決めているところまで描いているのには抱腹絶倒。

だが、もっとも今回みんなが印象に残したのは、ヴァン・ビューレンの『ランドリー・ブルース』だろう。洗濯屋を舞台にしたミュージカルアニメで、1930年のアメリカ作品。
http://reviews.goldenagecartoons.com/aesop/
当時の洗濯屋が舞台なので登場人物はみな中国人。猫が弁髪姿で中国人に描かれているのだが、その描写が醜い上に、アニメ技術も拙劣。当時のアメリカの人種差別感覚がダイレクトに伝わってくる。壇上に上がったなみきたかし曰く、「三十年前の自分なら、“アニメを冒涜するな”という感じで怒ったと思うんですが、それが、三十年後の今、見るとなんか笑えてきてしまうのはどういうわけか」それが中年と若いものへの、人生への愛着度の差だと思う。若い頃の人間というものは、好きなものへの敬意のあまり、不純分子を排除していって、100%純粋な存在にまで高めようとする。しかし年輪を刻んでいくにつれて、ものごとを構成するためには、その周辺にある雑多なもの、言えば不純なものが、純粋なものを育てる栄養になっているということに気づくのである。

終わって、植木さん、enoさん、まるさん、礼ちゃんと一緒に金竜門。礼ちゃんはちくまで再刊される実相寺監督の本のイラストが明日〆切りだというが「仕事したくなーい、帰りたくなーい」というのでついてくる。再刊なんで本当はそのままイラストも再掲載でいいのだが、二冊の合本で、前半のイラストが樋口真嗣さんなので比べられては、とあわてて差し替えをお願いしたのだとか。

話いろいろ。特撮関係のインタビュー仕事で、ウルトラマンのカラータイマーを製作した人にこのあいだ会ってきたとか、特撮エースの話とか、また今、漫画の単行本が本当に出ないという話とか。料理、パイコー、餃子、大根餅など頼み、最後はおなじみシャオヤンロウで〆。植木さんたちと食べたのは初めてか。最後のラーメンが好評。青島ビール、それから紹興酒2本。植木さんにタクシーをおごってもらう。帰宅12時。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa