裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

17日

水曜日

ぞんざいと無

 サルトル、あなたってどうしてそうやることがぞんざいなの!(ボーヴォワール・談)。朝、何度も目を覚ました挙げ句(部屋の暖房を切って冷えるためと思われる)ちょっと寝坊して7時20分起床。急いで風呂に入る。40分、朝食のため食堂へ。いつもの野菜コンソメ、イチジク入りパン、キャベツとクルミのサラダ。

 読売朝刊に声優の神山卓三氏死去の報。敗血症、72歳。『狼少年ケン』の悪役である虎、熊、ゴリラの(インドが舞台なのにゴリラがいるというのがこの時代のアニメの融通だが)トリオのうち、一番のコメディ・リリーフであるゴリラ役で知った名前。この時、私は5歳。つまりは、本当に子供の頃から、私が育ててもらった声、なのである。このゴリラに限らず、『ハッスルパンチ』のヌーとか『未来少年コナン』のドンゴロスとか、悪役ではあっても、必ずその底にどこかにくめないユーモラスさを感じさせてしまう声質で、子供たちに本能的に愛される声の人だった。ひょっとして、代表作『チキチキマシン猛レース』のケンケンが、もっとも冷酷な悪党役だった かもしれない。リクツ抜きで寂しい。無闇に寂しい。

 79歳のロリコン事件。ちょっと笑ってしまう。
http://news.fs.biglobe.ne.jp/social/jj040316-X532.html
 この老人の家にロリ雑誌だのビデオだのが山積みになっていたのか。そんなことはあるまい。山積みになっていた事件には飛びついて鬼の首をとったかのように報道して、そうでない事件にはほおかぶりをしていちゃいけない。ロリビデオを見ようが見まいが性的犯罪を犯す人間は犯し、犯さぬ人間は犯さない。もちろん、だからといってロリビデオが家に山積みになっている人間がいばっちゃあいけない。……世間様にあまり堂々と言えない趣味は言えない趣味であるところが快感なので、ああいうものが流行っている理由の大半も、それがいけないことであるところに存しているのである。それを世間に認知せよと迫るのは自分で自分の首を絞めるようなもの。人間は、みなお天道様に顔向けできる趣味のみを持たねばならぬわけではないし、人に好かれ ぬ人格であっていけない理由もないのである。

 8時20分、家を出てバスで新宿経由渋谷。風、凄まじ。メールチェック。20日のと学会にタカノ綾さんが上京して出席とのことで、翌21日に食事会でも、と企画していたが、そっちは都合でNGになった由。あと、パズル系の新雑誌が創刊されるそうで、そこにコラム連載の依頼。『クルー』でコンビを組んでいた仲峰志穂子さん にイラストをまた頼みたいので、編集部に許可を求めるメール。

 12時半、弁当。今日は昨日のカツの残り。食べながらビデオで『フイチンさん』を見る。あにまる屋という制作会社から送っていただいたアニメで、なんで私のようなものの許に、と思って同封されていた手紙を読んだら、ネットでフイチンさんで検索したら、私の日記に、品田冬樹さんが“くもとちゅうりっぷ”の次はフイチンさんフィギュアを作りたがっている、という記述があり、品田さんとここのプロダクショ ンはおつきあいがあるので、ということだった。縁だなあ、と思う。感謝。

 フイチンさんをリアルに読んでいた世代ではない(なにしろ私の生まれる前年、昭和32年に連載が開始された作品である)。しかし、アニメを見た感想は、“懐かしい”の一言。作品全体にただよう、奇妙なまでのデジャブ感は何だろう。同封されて いたパンフにはこうある。
「制作するにあたって、戦前のハルピンを舞台とするこの漫画で、戦争や、植民地問題や、身分の問題などについてどう扱うか、悩んだ時もありました。しかしそれは、原作者上田トシコがそうしたように、あえてふれることなく、フイチンとそのまわりの子供たちの、生き生きとした日常に焦点を合わせて、描きました」
 この姿勢に拍手。原作にないさまざまなものを付け加えるのなら、新作をつくればよろしいことだ。問題意識を持って『フイチンさん』をアニメ化する、などという考えそのものがナンセンスである。屋敷のご主人さまには三人の太太(夫人)がいるのだが、フイチンはそれにただ“ひえー”と呆れるだけで、女性の地位とは、とか人権は、とか言うことを考えたりはしない。戦前の中国の、使用人の娘がそういうことを考える方が不自然なのである。その一方で、年かさの第一夫人は部屋の中で小間使いに傅かれて寝台に横たわるように座っており(纏足だからだろう)、第二夫人はややインテリで油絵などを描いており、第三夫人は完全な洋装でしょっちゅうパーティなどに出かけていき、一番身分にこだわる、という描き分けが細かい。使用人から出世した主人がだんだん夫人の家柄を上げていったことが、子供と一緒に見ている親にだけ解るように描いているのである。当時の満州の実際の暮らしをよく知る作者ならで はのリアリズムだろう。

 派手な演出もなく、昔ながらの手法で元気いっぱいのキャラ、嫌味な上流階級と、かたくなな坊ちゃんの心を解きほぐしていく、天性に明るい女の子というストーリィが語られる。これが現代の人々に無条件に勧められる作品か、というと、いささかの躊躇がある。あまりにクラシカルすぎる、と思う。しかし、クラシカルに作ってあるからこそ、今のアニメに失われた大きな魅力をこの作品はたたえている。そういう魅力を若い人に伝えようとするとき、古い作品を持ち出して説明しても、まずダメである。昔の作品、というだけで、今の人には目にフィルターがかかってしまう。何度もそのような齟齬を体験した。やはり、世代的にわれわれと今のアニメしか見ていない人の間には、深いミゾがあるのだ。しかし、新作で、しかも懐かしい魅力を十二分に備えたこの作品が公開されるということで、やっと、若い人たちに、かつてのアニメが持っていた楽しさというのはどんなものなのかが、スムーズに伝わるのではないかと思える。その意義は大きい。3月20日から、下北沢トリウッドにて公開。くわしくは下記サイトで。
http://darumad.hp.infoseek.co.jp/fitin.html

 原稿書きカリカリと。途中で散歩に出て、ヤングマガジンアッパーズ立読み。『バジリスク』は朱絹がとうとう殺されてしまった。口から血へどを吐いての凄惨な死に 様と、川に落ちて
「赤い輪が無数に水面にひろがり、そして、その名のごとく数十条の朱い絹をひくようにして流れ去った」
 と原作に書かれた美しい描写の対比が見所なのだが、今回のアッパーズ、印刷が悪 くてまったく効果が失われている。

 竹内真氏の新刊『図書館の水脈』への推薦文、ダ・ヴィンチ編集部へメール。すぐに担当編集の人から御礼メール返ってくる。あと山田誠二さんから、『呪いのB級マンガ』の感想がメールでくる。“ネコンブ最高”とのこと。扶桑社Yさんから、先日の打ち合わせでこちらが提案した企画、なんとそっくりそのままどころか、さらにこちらにオイシイ形で通ってしまったとのこと。これはうれしいが、しかしながら、スケジュールがかなり凄まじいことになりそうである。植木・談之助両氏にその旨をすぐメール。

 ネットニュースで、フランスにイスラム過激派から、公立学校でのイスラム系女子生徒のスカーフ禁止にからみ“全知全能のアラーの奉仕者”を名乗ってテロ予告文が来たとのこと。アメリカ追随でないフランスもまた、イスラムにとっては所詮、異教の国なのである。宗教の違いは、共存を否定するところまで最終的に到達してしまうベクトルを、それがどんな宗教であれ、底に存在させている。ここを理解した上で、他国とつきあっていくという覚悟が、果たして今のわれわれにはあるだろうか。
http://www.ocn.ne.jp/news/data/20040317/y20040317i402.html

 5時半、家を出て新宿へ。東口武蔵野館で『ラブ・アクチュアリー』見るつもりで向かうが、タクシーの運転手がおばさんで、ウチの娘は本好きで、小学校のとき担任の先生に驚かれたみたいな話を延々とされてイラつく。ギリギリに武蔵野館に到着するが、満席立ち見の状態。驚いて出て、他に上映時間の合う作品は、と、コマ劇場前の新宿トーアで杉本彩主演『花と蛇』を観る。場内に入ったら、開田あやさんがいたのにまた驚く。なんでこういう映画を、と思ったら、映画評の仕事が急に来たのだそ うえである。

 谷ナオミの『花と蛇』はノートを見ると学生時代にオールナイトで観てはいるはずなのだが、さすがに昔のことで記憶も薄れている。確かレイトショー上映があったから、それを観てから比較検討はするつもりであるが、一言で言うと、団鬼六の作品というのはファンタジーなんだから、その周辺に変に金をかけてリアリズムを持ち込むと、本論のリアリズムを超越したSM陵辱シーンに入ってからとの対比で、どうしてもアホらしくなってしまうのである。杉本彩の肉体は磨き上げられ、鍛えぬかれていて、それがまた逆に、エロチシズムを排除する役割しか果たしていない。あそこまで完璧な肉体にはエロさが逆にないのである(フィギュアのエロチシズムに一脈通じるように思えた。と、いうことは現代的なのか、やはり)。花魁ショーぽかったり、馬に乗せられて登場するシーンで、私とあやさん二人、並んで吹き出した。あと、SMショーの司会役の伊藤洋三郎が、変態性を際だたせるための演出で、セーラームーンのコスプレで出てくるのにも、“コミケで実物間近に見てるからなあ”と苦笑。考えてみれば、友人の妻と一緒にこんな映画を並んで観ているという、なかなか色っぽくなりそうなシチュエーションなのに、全然そうならぬ。

 こういうSMにかかせないコビトも出てくるが、それがお約束のように角掛留造とミスター・ブッタマンだったのにも笑った。仮面で素顔は見えないが、ブッタマン、やっとホモ映画などでなく、まっとうな映画で杉本彩の股ぐらをのぞき込むという果報な役で出られておめでたい。十字架に杉本彩と並んでかけられている女役で卯月妙 子さんも出ておられたげであるが、一瞬のことで確認できなかった。

 とにかくこの作品、SMはコレデモカと描いても、そのためにかえって、団鬼六の作品が描いて(谷ナオミ作品も、そこがラストに持ってこられて印象的だった)いる“被虐の喜び”が薄い。最後にとらわれの場所から逃げ出す静子の表情にも、ただ、ホラー映画のヒロインのような恐怖しか感じられないのである。ちなみに一番の怪演の石橋蓮司、よくこんな作品に出て缶コーヒーのCM、しくじらないな。

 出て、あやさんと一緒に丸の内線で帰宅。植木不等式氏の日記にあった、地下鉄駅名プレートのMナンバー表示、初めて見る。どうも荻窪駅からの駅数らしいが、いったい何でこんなものつけているのか、よく理由わからず。帰宅。しまった、話に夢中になって回収処分の週刊文春買うの忘れた、と思ったが、ちゃんと母が買っていた。この息子にしてこの母だなあ。“最後の一冊!”と宣伝されていたのを買ったのヨ、と母は自慢していた。夕食、今日はアサリと水菜の鍋、南瓜のマッシュとレーズンのサラダ。これで飲む“一刻者”がうまい。鍋は食べ終わったあとにご飯を入れて、雑炊にしてさらさら掻き込む。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa