裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

8日

火曜日

ビューンと飛んでく鉄人、2重カキコ〜

♪鉄人鉄人早く逝け。朝、寝床で現代教養文庫の濱田義一郎・監修、八木敬一・校注『俳風柳多留』四篇を読む。言葉の違い、風俗習慣の違い、文化的背景の違いを超えて当時の川柳に注釈をつけようという行為の大変さには目がくらむ。しかしだからこそ面白い。思えばこの日記のタイトル全てに注釈をつけるというのも、第三者がやるとなればすさまじい手間の作業だろう。

 7時起床、朝食、トウモロコシ、ミニホワイトアスパラ、クレソンのスチーム。それとゴールデンキウイ一個。林寛子離婚との報。黒澤家の息子や娘はどうも結婚が続かないような気が。文藝春秋社からこのあいだ来た『日本・黄金の四○○○日 衝撃の事件 1964−74』のアンケート原稿依頼、昨日が〆切だったのに気がついてあわてて書く。回答用紙というのがついていて、このワクの中に書け、という指示があるが、昨今の文筆家はだいたいワープロかパソコン使用だろうから、こういう用紙をつけても使わない者がほとんどなのではないかと思う。まだ万年筆で手書き、という執筆者が文藝春秋には多いのだろうか。返送用の封筒が依頼状に添えられ、FAXご使用の場合は、とFAX番号が書いてあって、メールアドレスが書いてないのも、いかにも文春的な前時代性である(決してこういうのは嫌いではない。不便だとは思 うが)。

 そう言えば、このあいだ早稲田のK先生の研究室のある建物をお邪魔したとき、玄関近くにレポート・論文提出用ポストというものが備え付けられていたのだが、その小ささに驚いた。要は、全部CD−ROMかフロッピー原稿なのである。わたしの学生時分には、論文は手書きのものを和文タイプして製本してもらっていた。ワープロ全盛時代になったのはそれ以降だが、後輩に聞くと、ワープロ使用不可、という頑固な教授がまだいっぱいいたそうである。楽して書いたものを人に読んでもらおうという、その根性がいかん、といったような理由であったらしい。マンガの新人賞でも、昭和50年代前半には、応募原稿にスクリーントーンなんかを使っていると、“新人のうちはこんなものは使うべきではない”などと評するエライ先生がいくらもいたものである。若いものが楽をする、ということをとにかく老人は嫌うものなのである。

 それからエルグ原稿ゲラチェックして同じくFAX。このFAXとて、最初に導入されたときは、“こんな真心のこもらない原稿受け渡しは……”と心情的拒否をする作家や編集者がいっぱいいたであろう。十数年前、桃園書房の編集部では、社長が
「最近の編集者は電気機器のスイッチをつけっぱなしにして帰る。けしからん」
 と、帰社するときに全部FAXなどの電源を落としてから行くよう厳命したため、こちらは原稿を夜中に書き上げても、朝まで待たないと送れずに、ホトホト困ったことがあった。また、佐川一政氏は、私が紹介した連載(文学雑誌でもないのに、彼の川端康成論を掲載したいと言ってきた酔狂なところであった)先の編集者が失礼だ、と怒って私に電話をかけてきたことがあった。
「深夜なのにゲラをFAXしてくるという失礼なことをするんです」
 と言うから、呆れて、FAXというのは深夜でも送れるというところが価値なのです、ベルがうるさければ鳴らないようにセットするか、寝室からFAXを出したらいかがですか、とサジェストしたが、結局、そことは喧嘩別れしてしまった。なぜゲラ送りが深夜になったかというと、佐川氏はワープロ使用も拒否して(私や睦月影郎さんが、モノカキで食っていこうというのなら、とさんざ勧めたのだが)手書きで毎度原稿を送っていたため、それをいちいちワープロ起こしする分、時間がかかったため だという。

 内容や表現形式に関わることであれば、それは新しいものの導入に批判的になるのもスジが通っていると思う。しかし、その中間段階での手間をはぶくことを拒否するというのは、思考の硬直ではないか。山本夏彦はあれだけ新しいもの嫌いの頑固爺イであったが、FAXが出回りはじめたころ、これを絶賛し、瞬時に原稿が相手先に届き、しかも元原稿が手元に残る、こんな素晴らしいものをなぜみんな使わないのか、とエッセイに書いた。ああ、この人は実は柔軟な頭脳を持っているんだな、と感心したことを覚えている。渡部昇一が、70年代に、論文執筆の際に原書をいちいち書き写すのは時間のムダだ、コピーをとってそこに貼り付けろ、と主張したのも、時代を考えれば画期的なことだったように思う。なにしろもう平成になってから、若手お笑いの連中(大恐慌劇団)のトークで、テレビ局からコントの台本をFAXで送れと言われた日の丸帝釈天(人名である)が、“ダメなんですよ、一部しかないから、送っちゃうと自分の練習用のがなくなるんですよ”と答えたという話が出て、壇上でそれを聞いた上薗そんな(これも人名)が、“馬鹿だなあ、コピーとっておけばいいじゃないか”と、まるきりコントのような会話をしていたくらいなのである。意外に、こ れらのものが完全普及するには時間がかかったのだ。

 雨で頭はズキズキ痛み、肩は凝り、テンションは上がらず、最低のコンデション。日記本の掲載日チョイス仕事をしばらくやる。正午に1999年分を何とかメール。昼は講談社Web現代の取材で、渋谷区役所地下の食堂。区役所地下というよりは、隣接している公会堂の地下に近く、区役所から入ると、地下道を通っていく。この、無風流な地下道に、あやしげなバッグや健康食品を売る“露店”が出ているのが、何か奇妙な光景である。7年も渋谷に住んで、ここの食堂に入るのは初めての経験だったが、いかにも地下食堂らしい雰囲気で、それだけで喜んでしまう。値段も格安であるが、味はまあ、安いだけのことはある。鯖の塩焼きはよかったが、ライスがバリバリという噛み応えで、どうしてもそのままでは食べきれず、味噌汁をぶっかけて、なんとか一杯流し込んだ。ちなみに、味噌汁の実はアブラゲにチンゲンサイの根本。メニューの中にチンゲンサイのおひたしというのがあったから、その残りを味噌汁の方に流用したのであろう。詳細はWeb現代で次々回くらいの掲載。知らなかったが、渋谷の公共施設食堂として、こっちは何回か行ったことのある勤労福祉会館の食堂の 方は、3月に閉店してしまったのだった。

 2時、時間割で廣済堂出版Iくんと打ち合わせ。それまでに、と、コラム原稿を一本、大至急で仕立てて持参する。今後の打ち合わせ。Iくん、この日記で他の本の作業ばかりが進んでいるような感じを受けて、いささかあせっているようである。この本の作業は地味なので、あまり日記には出てこないのである。打ち合わせ中にも心臓がバクバクと言うような感じがする。気のせいだとは思うが。打ち合わせ終えて帰宅し、また原稿書き。雨のせいか、いつもの半分以下の執筆ペースである。テンション下がると書庫とか廊下をウロウロ歩いて高める。海拓舎H氏から電話、金曜日に『壁際の名言』の件でプレイボーイ著者インタビュー。変わらず動きはいいようだが、そのおかげで献呈用、パブ用の送本はまだ全然出来ていないという。これも困ったモノ デアル。

 8時、やっと原稿完成。テンション上がらず書いているうち、規定原稿枚数を大幅にオーバーして、かなりあちこち削る。そこを調べるために時間をくった、というようなウンチクもあったが、構成とリズムを考えて全部削る。書くときには書くときの快感、読むときには読むときの快感を考慮しなくてはいけない。メールで送り、しばらく横になる。45分に家を出て、タクシーで下北沢へ。到着したあたりで阪神にマジック点灯。虎の子でK子と夕食。ジャガイモのゴルゴンゾーラソースが濃厚で酒に合う。アルコールが入るとやっと息がつけて、体がほぐれていくような気がする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa