裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

9日

月曜日

日刊ケンタイ

 本日の献体情報を知りたいあなたのための夕刊紙です。朝、7時半に起き出して、寝ぼけまなこでテレビのニュースをつけたら大雪の情景。ギョッとして窓外を見たらまさに白雪紛々だった。最初に窓を見ずにテレビ画面を見るというのが都会生活ぽいところだ。ちょうど新聞休刊日に降るとはまた、若者に優しい雪である。朝食、ジャガイモの蒸かしたのと、ニラの中華スープ。K子にはジャガイモとセロリの炒め物。果物はポンカン。

 朝のニュースショーが雪のため、地方によっては音声に障害が出ているとのテロップが入る。ネットでも、うまくメールが送られないのだが大丈夫でしょうか、という問い合わせがいくつか(これは雪のせいかどうだか)。電子コミュニケーション時代というのはもろいものである。007映画に、地球周回軌道で核爆弾搭載の人工衛星を爆発させ、英国の電子情報を全て消失させようとする悪党が出てきた。そうしておいて、混乱している銀行から、多額の金をおろしてしまおうと目論むというのがセコいところだが。

 ところで、同じく情報というのがたよりないことであるという事件。おとつい、産経新聞に載ったウィリアム・ヘンソンの訃報であるが、訃報記事を見たあと、
http://www.inkyfingers.com/Jenna/R&B.main.htm
 などに行ってみたのだが、ヘンソンの名前はどこにもない。生みの親は同じウィリアムでも、Wiliam Hurtzだ、とある。カートゥーンMLで、やはりおかしいと思って調べた人がいて、経歴がかなりこの二人は一致することから、どうも、ハーツ(2000年10月に死去)とゴッチャになったのではないか、との書き込みがあった。確かにヘンソンも、キャスパーのあとメキシコに行っているが、それは先に渡っていたハーツから協力を依頼されてのことである。あくまでもヘンソンは、これらの作品に関わっていたというだけで、創作したとか、生みの親であった、という事実はないとのこと。英文記事の“his works”というのを、createとカン違いしてしまったのだろう。まあ、日本でも宮崎駿を“『ルパン三世』の生みの親”とか書いてる記事を見ることがあるしねえ。

 昨日の『男の世界』原稿を一本、アップして、それから世界文化社原稿にかかる。雪は小降りではあるがおやまずに降り続いている。郵便局に、ネット古書店で買った本の代金を払い込みに行く。このときは、霧雨に変わっていた。薄暗く、道路も街路樹も雪で覆われた寒々しい光景を見て、何かキュッと懐かしい気分になってしまったのに自分で驚く。雪は北海道で見飽きるほど見ているのだが、あと1年半で、もう北海道の雪を、実家のある故郷の雪、とは見られなくなる。ハイマートロスとなる身がはやり心のどこかで寂しいのだろう。

 昼は昨日の残りご飯で茶漬け。お歳暮に某社から道場六三郎の焼き豚と角煮が届いた。普段ならあまりゾッとしないものだが、ハチバンラーメンの具が確保できた、と思うとうれしくなる。食べおわって、いつものようにだるさが襲ってくるが、その時間を利用して読書。トランスパーソナル心理学者・哲学者であるケン・ウィルバーの日記をまとめた『ワン・テイスト』(コスモス・ライブラリー)を読む。ウィルバーの理論をまとめた著作群はニューエイジの臭みがきつくて読めたものではないが、これは日記形式になっているため、向こうの知識人の日常と日常の思考なるものがどうなっているのか、をうかがえてなかなか面白い。飛ばし読みをするな、と著者が前書きでクギを刺しているが、大きなお世話だ、と興味のあるところを拾い読みする。日本とまったく異なる出版システムで著者の本の刊行先が決まる(原稿に対して、各社が入札する)ところなど、大変興味深かった。

 著者はドラッグによる覚醒は認めているようであるが、宇宙人に出会ってステージが上がった、などという話はタワゴトとして一顧だに与えていないのが面白い。
「毎年一万人以上の報告(UFOに出会ったという)があります。そうした人のすべてが話をでっちあげていると思いますか?」
 というビリーバーからの質問に対するウィルバーの答えは簡単明瞭、
「もちろん」。
 アメリカには一年に千五百件もエルビス・プレスリーを見たという報告がある。そこから、エルビスがまだ元気で生きているという“仮定”は成り立つが、それは“証拠”ではない、という著者の理論は明快。しかし、それなら著者のいう、“人間はみんな、セラピーや修行を適切に取りさえすれば、自我を超えて、究極の悟りへ達することができる”という説の、その自我を超えたところにあるものが究極の悟りだというのも、単なる“仮定”であって、根拠あるものではないのではないか、とも思ったりするが。ウィルバーは、宇宙人コンタクティの正体はナルシズムである、と言う。コメディアンのデニス・ミラーのトークを引いて、
「高度に進化したエイリアン――(中略)――が、何十億光年も旅して来て、着陸すると同時に、まずは田舎者のケツの穴に懐中電灯を当てたいと思った、と考えるほどナルシシスティックな種族は人間だけだ」
 これも、向こうじゃコメディアンが舞台でこんなことをしゃべるのか、と知って、ちょっと驚いた。

 原稿の資料がちょっと必要になる。いつもなら、ちょいと出て、パルコブックセンターか大盛堂書店に行って物色してくるのだが、今日の天気ではちと億劫である。それでも、家に閉じこもっていてはな、と、前に案内が来ていた映画『ブラッディ・マロリー』を観に、京橋の片倉キャロン地下、映画美学校第二試写室へ。配給会社の人と名刺交換。“これはB級テイストたっぷり、カラサワさん好みです”と。なにしろ監督がいまやオタクの第二のメッカとなったフランス人、その名もジュリアン・マニア。名前までマニアだぜ(綴りは違うけど)。

 ストーリィもかなりバンド・デシネ風で、結婚した当日に、夫が吸血鬼であることを知ったマロリーは、斧で夫の首をはねるが、そのとき体に浴びた返り血が染み込んだことにより、霊界との交信能力が身についてしまう(交信で出てくるのが、自分が首をはねた夫で、彼とほほえましい交流がある、という設定がフランス的である)。やがて彼女は国家機関『超常現象特殊部隊』のリーダーとなって、爆発物の専門家のオカマ、ヴェナ・カヴァ、聾唖者だが、他の生き物に憑依する能力を持った少女トーキング・ティナなどと共に、悪霊たちとの戦いに挑んでいく……という、中野貴雄が撮ればいいのに、というような物語。もっとも、ラストの悪玉の退治法や、猟奇殺人鬼の海坊主みたいな男にティナが乗り移って少女の声でしゃべるなど、ギャグも多いが、基本的に、露骨なギャグでなく、描写の食い違いやブラックさ(ローマ法皇の演説とその聴衆の反応がまるきりナチス的になるところなど)で笑いを取っているのが上品である。ここらへんで嗜好がわかれるかも知れぬ。帰宅してから、今年のファンタスティック映画祭で上映したのを観た人の感想をざっと読んだが、“戦隊ものをこう変に解釈しちまうからフランス人は駄目だ”と怒っているところがあった。“なるほど、こう解釈しますか”とは思えないところがオタクの心の狭いところだ。

 資料のインタビューによると、この映画には日本の“マンガ”から多くをとっているという(いちいち言われなくたってわかりますけどね)。しかし、マンガといっても好きなのは70年代〜80年代のものだ、というのだから頼もしい。確かに、監督の言う通り女吸血鬼レディ・バレンタインはベルばらのオスカルみたいな格好で出てくるし、口のない美女(?)妖怪モルフィーヌはミーメがモデルであろうことがまるわかり。インタビューにはないが、主人公・マロリーは、スタイルといい髪が真っ赤なことといい、キューティーハニーだろう。マロリーを演ずるオリヴィア・ボナミーが、美人ではあるがハリウッドみたいにお色気満載、というキャラでないところが実にいい。知性がかっていて、好みである。ワキフェチの私には、鎖で吊されるところなど、うれしいシーン満載。冒頭で彼女が猫を車でひき殺して挽肉にしちまうところとか、ティナが憑依したかわいらしいネズミがバレンタインにクシャッと見事に踏みつぶされるところとか、動物をあっけなく殺してしまうギャグもヨーロッパ映画ならでは(ちゃんとラストロールに“動物は実際には殺してません”と出る。もっとも、フランス語なので、本当にそう書いてあったかは自信がない)。

 レディ・バレンタイン役のバレンティーナ・バルガスは、ちょっとデビ夫人が入った嫌らしいおばさん吸血鬼を好演しているが、バルガスと言えば『薔薇の名前』で、クリスチャン・スレーターと熱烈なファックシーンを演じた少女役。年月というものには、うたた感慨にたえぬ。ラストの楽屋オチ(音楽が『リング』の川井憲次だからというので……)には笑った。2003年2月より渋谷シネマ・ソサエティ、シネ・リーブル池袋で公開とのこと。珍品好きな方はぜひ。

 帰宅、タクシーで。雪はすっかりあがったが、雪のおかげで道路は空いていて、スイスイ飛ばす。帰宅して、と学会MLに東京大会開催に関してちょっと書き込み。9時、華暦でK子と夕食。案外客が入っている。今日は雪だからガラガラだろうと、ほとんど仕入れをしなかったらしく、刺身も焼き魚も品切れ続出、おでんもほとんどタネなく、10時にはラストオーダー。ひれ酒飲んで温まり、帰宅してすぐ寝る。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa