裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

15日

金曜日

デリダ理論のコニャニャチワ

 喪中につき、タイトルはどこだったかのサイトからひろってきたやつ。朝5時半ころ目がさめる。この斎場は通夜で泊まり込む施設のくせに、フトンしか用意しておらず、タオルなどもなし。一応、風呂場の設備はあるので、シャワー浴びて、ジャージをタオル代わりにする。歯ブラシは母が持ってきてくれていた。何故かヒゲ剃りのみはある。結膜炎悪化を心配していた(なにしろかなりアルコールが入った)が、別になんともなし。しかし、男女込み十数人ザコ寝というのは、いくら親戚とはいえ、中学校の林間学校以来ではないか。

 朝飯を仕出し屋が運んでくる。二十年近く前の祖母の通夜もやはり泊まり込みだったが、そのときの朝飯が、握り飯に味噌汁だけの、かなりわびしいものであった。それにくらべると、ホウレンソウのゴマ和え、卵焼き、小なりとはいえ塩ジャケなど、かなりきちんとした朝飯になっている。もちろん、味はどうにもならないものではあるが、なをきは“コンビニ弁当の朝飯ばかりだから、こういうものでもうまくてうまくて”と、かきこんでいた。昨日買ったカレーパンはいらなかったか、とカバンから出すと、母が“あら、それはパパのところにあげて!”と言う。知らなかったが、親父は晩年、カレーパンが大の好物だったらしい。安っぽいものが好きな男だったのだな。偶然だったが最後の親孝行をしたということか。

 母の美容院の美容師さん(昨日は親類の誰よりも涙を流してくれていた)がやってきて、女性陣の髪を全部セットしてくれる。幸三叔父は二日酔いというよりはまだ、酔っぱらっているようで、椅子に腰掛けたままカタマッていた。母はまだ怒っているようで、“もう何があっても呼ばない”などと言っている。そんなに怒ることもなかろうに。

 かつての薬剤師の丸山くんなど、弔問客も多々。9時から告別式開始。昨日のお経にくらべるとやはりもう少し派手で、木魚と鉦の他に銅拍子と太鼓が入り、ドンドコジャンジャンとにぎやかである。母はさすがにハンカチを顔に押し当て嗚咽しているが、気はしっかりしていると見えて、坊さんが香語という、故人の略歴を読み上げたとき、昭和五年生まれを間違えて昭和二十五年生まれ、と読み、“昭和三十年、東京にて就職……”というところで、隣に並ぶわれわれ兄弟に指五本をそっと広げてみせ(五歳で就職か、というツッコミ)、“多くの孫たちに囲まれ”という部分で片手を“囲まれてないない”とふってみせていた。笑いをこらえるのに苦労する。焼香は、身内の列に、最後まで親父の世話をしてくれたお手伝いさん二人を入れる。出版関係者も多く参列してくれた。北海道新聞社のYさんとは、担当なれども今日が初対面。“どうかご自愛専一に。〆切は気にしないで結構ですから”とのことだが、そうもいくまい。

 葬儀委員長の挨拶は驚いたことに、中にはさまれるちょっとした冗談まで昨日の挨拶とまったく同じで、一瞬、デジャビュを起こしたかと思った(なをきもそう感じてギョッとしたそうだ)。も少し何か考えればよかりそうなものである。本当に涙が出たのはJPS製薬の社長の弔辞(これは本当に真心がこもったいい弔辞だった)で、去年の上京に触れたときと、最後に棺の蓋を閉じるとき。司会の女性と葬儀屋が、何度も“最後の、おわかれでございます。この、蓋を閉じると、二度と俊郎さまの、顔を見ることは、できません”とくり返す演出がアザトい。親父に最後になんと言葉をかけたものかと思ったが、結局、
「アリガトウ」
 の一言が口をついて出た。自分の店を長男が継がない、というわがままに、よく包容力を示してくれたものと思う。

 そこからリムジン型霊柩車とバスに乗り込み、里塚の焼き場へ。リムジンには母の他になをき夫婦と私が乗り込む。オイオイ泣いていた母が、車に乗ったとたんに毒舌をふるって(“あのアナウンスの変なアクセントは中国人かしら”など)葬儀の月旦を始めたのにオドロいた。火葬場まで一時間ほど、好天気でまるでピクニック気分になりそうである。で、火葬場の入口近辺でさらに一時間半ほど待たされる。友引明けで、焼かれる遺体が詰まっているのである。じりじりと暑い中を待つ。われわれの前に止まっている葬儀社の車に、社の電話番号が書かれているが、それが×××−4242。まさか葬儀社だから“死に死に”をとったわけではあるまいが、となをきと話す。やっと順番が来て、中に親父を運び込む。近代的な(札幌は昔、平岸に霊園関係設備があったが、市の拡張に伴い、里塚へ移った)設備の焼き窯の中に、親父の棺は自動コンベアによってすっと吸い込まれていった。

 焼き上がりを待つ間の控室は、何か宴会のようなにぎわいである。ちか子さんとK子が毒舌合戦で盛り上がり、小野叔父は坂部の伯母たち相手に独演会。母が“あんまり兄が自慢をして恥ずかしいから、やめるように言って頂戴”と私に言うが、別に止めることもあるまいと思うから黙っていたら、自分で割り込んでいって、話を別な方面に持っていってしまった。幸三叔父はそろそろ酔いが醒めて二日酔い的になってきたらしく、トイレの手洗いで顔をジャブジャブ洗っている。なをきという人間は、こういう“一般人会話”があまり得意でないタチで、夫婦で散歩に出ていく。私は濃い話題も好きだが、こういう通俗な“ダレソレさんの娘がもう中学になった”的雑談も結構好きなタイプで、要するに基本形がオシャベリに出来ているのだろう。この差は兄弟二人の作風の違いにも表われているように思う。

 拾骨の時間になり、拾骨室に行く。母は“こうなってしまうともうパパという気が何にもしないわ”と、案外平静。係の初老のおじさんが、実に丁寧に骨を拾い、中の溶けた鉄のカタマリなどを分けている。六道銭として十円玉を数枚、棺の中に入れたものは、回りが黒く焼けこげてそのまま残っている。それを係が紙に包んで、“これはお守りにどうぞ”と母に手渡そうとしたが、“キモチ悪いからいいです”と断られて、不満そうに骨壷の脇におさめる。また、頭の部分の骨を指して“これが下顎の骨で、これが鼻のところ……”と説明し出したのも、“あ、もう結構です”と断る。何やらその仕事にプライドを持っているらしいおじさん、ちとムッとした様子だった。しかし、最後に骨を収めた骨壷を箱に入れ、布で包むあたりの手付きの見事さは、まるで手品師のようで、K子とよしこが感嘆していた。

 そこから斎場へ戻る。北海道はここで弔問客に食事を供し、百箇日までの法要を全部済ませてしまう(あとは身内だけで行う)という簡便的な風習があり、これは現代的でいいのではないかと思う。最後のお経は住職でなく若いのが来て、アッサリと仕上げる(K子はそれでも長いと言っていたが)。客への供養の前に、長男の私から、一応挨拶。客たちが“お父さんの声にソックリねえ”と驚いていた。ここの料理はまあまあ、いいものらしいが、さっき火葬場で食べたばかりで、もっぱら折詰を詰めることに女たちは(母も含めて)終始していた。親戚たちも三々五々散っていき、最後に母と私夫婦、なをき夫婦、豪貴夫婦とちか子さんだけが残り、葬儀社のバンで家まで送ってもらう。車内でよしこさんとK子が、葬儀のアナウンスのお姉さんの口調のモノマネで大盛り上がり。不謹慎な家族である。“あんな口調で結婚式の司会とかもするのかなあ?”と言ったら、運転していた葬儀社の人が苦笑しながら“ハイ、やります……”。もっとも、口調はまるで変わるのだそうである。プロ。

 帰宅後、供花や供養、弔電などの整理。私関係だけでも、岡田さん、眠田さん、井上くん、浦山大人、睦月さんなどから頂いている。供養もかなりいただいた。私の番になったら、こういうことをキチンとは出来ない。みんな社会人として感心なものである。葬儀社が最後に、親父の祭壇を仏間にこしらえた。子供一同より、として送った灯籠は、斎場では実に映えて立派だったが、自宅に飾るには大きすぎ。K子が“後でウチで使うから”と買った座布団入りの花輪(最近の流行りで、カン詰めだとか座布団だとかの品を花輪の中心に飾る。これだけ金をかけているのだ、と見せびらかす工夫なのだろうが、なにか香港か台湾の風習のようである)も持ってこられるが、その座布団の巨大なこと。折詰は留守番してくれた須賀さんの奥さんに酒と一緒に進呈する。やはり、とったらすぐ切れた電話が数本、あったそうである。葬儀の空き巣狙いであろう。

「明日から寂しいだろうねえ、私」
 とお袋、つぶやきながら、カニチャーハンとビールでお疲れの乾杯。昨日からずっと弁当や仕出し続きだった舌に、このチャーハンの美味だったこと。
「親父もね、こういうものが食えなくなって、鼻から栄養とるばかりで何年も生きてもつまらなかったよ。二年って丁度いい期間だったんじゃないの。結婚式も東京行きも出来たんだしさ」
 と言い、しばらく、親父を東京に連れていった話で盛り上がる。あの時、変に反対して“気圧が変わると脳の血管が切れるかもしれない”と非科学的なことを言っていた輩がいたが、あそこで養生していても、あと十五年生きたわけでもなし、また、そんなんで生きる十五年に何の意味があろう。潮健児さんが最後のパーティで人生の有終の美を飾れたように、人間、いたずらに病床で命を長らえさせるより大事なことがある。親父は自分の美学を貫いて逝ったと思う。

 なをき夫妻は7時過ぎに千歳へと立つ。母はソファに横になって寝息を立てはじめる。私も二階に上がって、敷きっぱなしのフトンにワイシャツのまま横たわる。その後、“これからお線香上げさせてほしい”という非常識な客が来たそうであるが(通夜の帰りに遺族がどんな心身状態かわからないのだろうか)、K子が追い返したそうである。よくやった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa