裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

月曜日

愛、あなたと風太郎

風太郎のため、世界はあるの(忍法帖マニア)

朝7時半起床。天気よし、まったく現金なくらい、
「さあ、起きるぞ!」
になる。入浴、歯磨、服薬、朝食。セロリスープにスイカ。スイカは甘く、しみじみうまい。藤子・A・不二雄は完全菜食主義者で、秋はマツタケだけ、夏はスイカだけ食べて生きているという話だが、夏は確かにスイカだけ食べていたくなる。

日本綜合経営(私の講演のマネージメントしてくれる会社)から電話、11月の仙台講演正式決定。こないだの酒田での講演も評判がよかった、と伝えてくれて、安心かつ意外。帰りの新幹線の中でオノと反省しきりだったのだが。
「もうクイズはやらないんですか」
と訊かれる。いつだったかの講演でやったトリビアクイズ、あれが好評だったらしいがこれまた私としてはウケがイマイチと思ったので以降やってないのだが、講演というものの反響はまったくわからない。

ネット見回っていたらショックな報せ、米原万里死去。いま、彼女の本『必笑小咄のテクニック』(集英社新書)を読んでいたところなので、その西手新九郎に愕然。それにしても56歳の若さとは。もっとも、最近の彼女の写真の目クマの濃さは尋常でないと思っていたので
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=40980&media_id=2
その本のあとがきで悪性卵巣嚢腫だったと知ってなるほど、と思った。

若者にきちんと小言言える論客として、山本夏彦の後を継げるのは彼女だと思っていた。フリーのダンスは自由に踊っているようなつもりで結局どれも同じような踊りになる、と指摘して、
「型があるから人間は自由になれるのである」
と喝破した彼女のエッセイは私の基本理念のひとつとなった。理知の人であり、その理知をユーモアで包んで話すことの出来る人でもあった。返す返す残念である。

メール数本。今日は『こだわり人物伝』のテキスト取材2回目なので、早めに仕事場を出ないといけない。11時半に弁当使って(てんぷらの煮付け。てんぷらは市販のものだが、それなりにうまし)家を出る。タクシーの運転手さんが、顔といい言葉遣いといい、ぼやき口調の噺家みたいで面白い。自分でも
「私、よく人から“噺家みたいなしゃべり方だ”と言われるんですが……」
と言っていた。面白いのでいろいろ話を聞き出す。江戸川区生まれの東京っ子で、
「今の東京生まれはですね、自分の生まれた土地に愛着持てないと思いますよ。こんな、ねんびゃくねんじゅう道路工事しているのが普通、という町は絶対異常じゃないですか、ねえ」
とのこと。降りるときに
「お客様はひょっとして、えらく高名な方ではなかったかといま、思い出しましたが違いますか」
と訊かれた。“えらく高名な方”という言い方がいい。イエイエトンデモナイと答えて降りる。

ブックファーストで資料本買う。日差し強く、そこから歩いて事務所に行くまでにかなり汗をかいた。事務所でオノ、バーバラと仕事の件いくつか。バーバラには母のブログ管理の件も頼んでおく。仕事、カチ合い多し。原稿書く時間をもう少し余裕もってとらないと駄目。原稿料が出ないと言われて驚いた『プレザンテ』、オノが苦情を言ったら、出ることになった。目出度し。二度と仕事来ないとは思うが……。うわの空との衝突のことが雑談の話題になる。バーバラ、それはある種の人間の典型像が描けているから小説に書けという。

汗びっしょりになったTシャツを予備のものに変えて、1時、NHK出版ビル。会議室でインタビュー受ける。今回はウルトラQ以降のこと中心に。
「ウルトラシリーズは日本で唯一成功したシュールレアリズムTV番組である」
という持論を展開。インタビュアーがやはり円谷マニアなので撃てば響くよう。いつもこの『こだわり人物伝』は二人一組でテキストが出るのだが、もう片方は香山リカで“ジャイアント馬場”なのだそうだ。

今日は4時まで3時間、インタビュー時間をとっているらしい。らしい、というのも情けないがただ私はマネージャーに
「何時にドコソコへ行け」
と言われた、その指令通りに動いているだけ。会議室が2時間の予定だったので、ビル地下の居酒屋に場所を移して、“びわジュース”というもの飲みながら続ける。帰りにNHKの人に“このビル、牛舎というレストランがありましたね、と言ったら
「まさに牛舎という味がする店です」
と。カロリー満点を主義とする昭和期調の味で、それほど嫌いではないのだが。
終わって下のNHKブックスで本を物色、読みたいものいくつか買ったら万札がふっとんだ。事務所に帰り、すぐ原稿に取りかからねばいかんのだがしゃべったあとはテンション上がっていて、ひとまずそれを抑えねば何も書けず。せっかく天気もいいというのに。北海道新聞書票原稿のみあげる。

バーバラに急かされて、東武で宝島社Aさんと待ち合わせ。更科地下で、本の企画について打ち合せ。こないだ私が出した企画を、社内で通りやすいようにAさんが改めてくれたものを検討。ちょっと“私ぽくない”感じになっているところを訂正。
そのあと、モツ煮、三つ葉と白魚揚げ、アサリ酒蒸しなどをパクつきつつ、『文筆業サバイバル塾(略称“文サバ”)』の企画をバーバラと。9時、帰宅して原稿、書けずにホッピー。『ウォーホル日記』をトイレから持ってきて読む。78年11月22日の記述にガイアナの人民寺院集団自殺事件(起きたのは18日)についての記述。彼らがグレープ味のクールエイドに青酸カリを溶かして飲んだという報道に、
「これがキャンベルスープなら僕にインタビューがたくさんきたのに」
とか言って残念がっている。
「でもヒッピーたちはいつでもクールエイドだ」
クールエイドは粉末ジュースで、そのチープな味がアメリカ庶民の子供時代の思い出の味、になっている飲み物だとか。
http://plaza.rakuten.co.jp/misamamakw/13003
そうしたらマイミク日記に岡田眞澄死去の報が。おいおい、一日に二回も訃報を書かせないでくれよ、神様、という感じ。食道ガン、70歳。森繁久彌の『喜劇・とんかつ一代』でフランス人学生の役で森繁とあやしげなフランス語で会話していたので、てっきりフランス人だと思っていたら(なにせ愛称がジェラール・フィリップのものを借用した“ファンファン”だし)、デンマーク人の母親と日本人の父親との混血だそうな。もっとも生まれはフランスらしいが。ここらへんのややこしさが国際的、なのか。実兄はアムウェイの顧問をやっていたタレントE・H・エリックだが、全然似てない。岡田眞澄はまだ日本人の血が流れているとわかるが、エリック(本名・岡田泰美)は完全な外人顔である。遺伝の不思議。

最初に顔と名前を一致させたのはやはり『マグマ大使』のお父さんだろうが、このとき岡田眞澄31歳。マモルくんは演じた江木俊夫が当時14歳だったが、ドラマの中では小学生の役(最初はいていた半ズボンを途中ではかなくなってしまったのもよくわかる。思春期の男の子としてはイヤだったろう)。小学5,6年生の12歳としても、19のときに作った子。学生結婚か。やはりモテたのだろうな、お父さん。

ただ、キャリア的にはまだまだ色男が演じられる年齢で、よく父親役を引き受けたものだ、とずっと思っていたのだが、ときどき古い映画でお目にかかる若い頃の役を見ると、だいたいがイカレポンチな二枚目、といった役柄ばかりで、演技力がない時期だったからこれは仕方ないだろうが、本人も、そろそろそこから脱皮したいと思っていたのだろう。それで引き受けた役だと思われる。それは見事にあたって、岡田眞澄と言えばマグマ大使のパパ役、と晩年にいたるまで言われる代表作となり、本人も決してそれを嫌がっていなかったようだ。中年太りになってからはスターリンそっくりになり、実際スターリン役などを舞台で演じて、重厚な魅力をただよわせていた。とにかく二枚目俳優が晩年はみじめな姿をさらすことの多い芸能界で、中年美、老年美というものも世の中にはあるのだ、と認識させてくれた俳優だった(ビスコンティの『山猫』のタンクレディ役は最初彼に出演のオファーがあったのだが、監督のお稚児さんになることを拒否したんでアラン・ドロンに変更された、と本人が語っていたそうだが、ホントウかね?)。

最近やっとDVDが発売された日米合作映画『緯度0大作戦』でも海外版バージョンのオーディオ・コメンタリーをやっていたが、岡田氏はこの映画のことをすっかり忘れていたようで、全編にわたって、ほとんど映画の内容のことを話していないという珍コメンタリーになっている。

やはり季節の変わり目がよくないのか、とにもかくにも、そろそろ有名人には勝手に死ぬのを禁止したい今日このごろである。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa