裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

1日

金曜日

ウェルテル坊主テル坊主

 若きウェルテルは僧院に入る決心をした。朝4時頃目が覚め、『荒涼館』を読み継ぐ。冒頭二章は19世紀半ば当時の英国の裁判制度に対する風刺たっぷりの状況説明で、皮肉をかなり含ませているのだろうが、当然のことながら21世紀日本人にとっては、サビが効いているのやらいぬのやら、よくわからないままに退屈を極める。しかし、三章になり、ようやく物語の語り手、エスタの一人称になり、彼女がその親友のエイダと共に荒涼館へと向かう件りに入ると、次々登場する奇妙極まる人物たちの性癖や、彼女たちが巻き込まれる謎への伏線などがいずれもスリリングに描き出されて、どんどん作中へと引き込まれていく。しかもエスタを徹底的善人に設定してあるので、彼女が何の疑いもなく怪しげな人物に接するたびに読者はハラハラする仕掛けになっている。大ディケンズに向かって今さらこんなことを言うのは無礼の極みとは思うが、さすが、ストーリィテリングのうまさといったらない。

 6時ころまた就寝。7時30分起床。元気だな、まだ俺も、という感じ。朝食、ふかし肉まん。イチゴ。ミルクコーヒー。小青龍湯、黄連解毒湯、百草胃腸薬等クスリ服用如例。入浴、髭剃り、歯磨き(一般用及び歯間ブラシにて)等々これまた如例。電話、数本。小学館『週刊ポスト』から、何か映画を観て原稿を書くよう電話。ついうっかり、こまごまとした仕事に忙しく、間が空いてしまった。またきちんと試写会通いをしなければ。

 大阪でのことで書き落としひとつ。二日目、朝、ホテルでテレビをザッピングしていたら、やけに太ったおじさんが爺さん婆さん相手に講演をしていた。自分の脳溢血闘病記である。のどのあたりに肉がたるんでふくれており、それがしゃべるたびにゆれる。しかし、声が抜群にいい。誰だろうと思ったら、名古屋章だったのに驚いた。顔の形がまったく違ってしまっている。いつの間にこんなに太ったのか。側頭部に出血して認識感覚がやられ、家人が気がつくと、トーストにバタを塗ろうとしてトーストの存在を忘れ、バタばかり食べていたという。まさか、それでこんなに太ったわけじゃああるまいが。

 午前中、体調最悪、目の前がモウロウとする。それでも仕事はする。母からカレーなど送ってくる。石原さんから電話、恒友出版との契約は無事すんだとのしらせ。講談社から、前回送った原稿に一部ミスありとのメール。おかしいと思って調べたら、最終構成するときに行替えで一部がスッポリ抜けて、まるきり反対の意味になっていた。文法上はおかしくないのでそのまま見逃してしまっていたのである。昼は六本木に出て、買物など雑用すませ、吉野屋で牛丼。並とオシンコで380円。

 帰宅してなお原稿。アスペクトからゲラ戻しのバイク便が4時に来るというので、その確認作業もする。鶴岡法斎来宅。ライターでは収入がおぼつかないというので、その他のモノカキ仕事について少しサジェスチョン。彼にもも少し器用さ(生活していくということに対しての)が欲しいところである。あと、これは彼などの世代のライター、ミュージシャン、その他アーティスト、クリエイター全般に言えることだろうが、常に賞賛されていないと不安になるようではダメ。賞賛の声と生活のレベルの落差に気がついたときがショックなのである。

 その後、さらにだだだと『男の部屋』原稿。9枚を2時間半。書き上げたあたりで7時45分、K子との待ち合わせギリギリ、慌ててタクシー飛ばして新宿へ。伊勢丹会館『三笠会館』。金曜日で、かなり立て込んでいる。奥の席には、話の様子からお役人らしいと思えるおじさんたち4人組。もうかなりワインが回っているらしく、一人、やたら高声で“コリャコリャてなもので、アハハハ”などとルーティンな酔っぱらいぶりを発揮している人あり。無邪気とは思うがうるさい。一方、窓際には手編みのセーターにメガネ姿のおばさん二人。髪も栗色で、顔が典型的な外人の老女という雰囲気。ところが二人ともバリバリの日本語で、“そうなのよぉ、台所の下水が工事中で使えなくってさぁ、困っちゃったのよ”などと下世話に会話している。これにはオドロく。二世か、それともこちら暮らしが長いのか。たとえどんなに日本語のうまいガイジンさんでも、ガイジン同士で話すときは母国語を使っていると思ったので、外人同士の日本語会話というのが非常に興味深かった。料理は定番でイカのパスティスにスパゲッティ、今日のはソフトシェルクラブのトマトソースで、軽いトマトソースが非常にさわやか。鯛の塩竈焼きのケッパーソースも、さらいたいくらい美味で、疲れ切った心身(まったく、どうしてこんなに草臥れるだろう)がリフレッシュされる思いだった。

 ネット某所で『コミックファン』新刊の、伊藤剛氏の文章がちょっと話題になっていた。彼はその中で、マンガのキャラクターは記号化された表現である故に痛みなどの身体感覚を直接読者に伝えることが出来ない、と論じている。そして、それを限界とする大塚英志の論に対し、
「身体感覚と感情移入の乖離。実はこれこそが、まんが表現の特性なのではないのだろうか」
 と、むしろその記号表現故の強みに筆を及ぼしている。この着眼点自体は私が『B級学』で論じていることとほぼ同じであるが、しかし、私がそれをマンガ家の技術の拙劣さが生んだ(半ば僥倖的)効果、としているのに対し、伊藤氏はそれを“まんが表現の特性”と、より踏み込んだ解釈をしている。そのどちらが正しいのか、ここではその検証は控えるが、気になったのは、伊藤氏がやや軽々に“特性”という言葉を用いていることだ。果して、身体の記号化はマンガ表現独自のものなのだろうか。伊藤氏はこの記号化の代表に手塚治虫を例にとる大塚英志氏の文章をひいて、そこに異義を差し挟むことなく、そのような表現を手塚のオリジナル(もしくは手塚を右総代とするマンガ独自の手法)としているが、キャラクターを記号的に描くことにより、身体感覚を欠損させ、その結果の表現をギャグに結び付ける手法は、マンガ(少なくとも手塚マンガ)より早くに、キーストン・コップスに代表される喜劇映画がすでに確立させていた手法ではないのか。チャップリンの衣装、キートンの無表情等は、いずれも生身の身体を記号化させる工夫である。大塚氏が例に引いている、高い崖から落っこちたキャラクターが地面にめり込んでも、次のシーンでは手や頭に包帯を巻いた姿で登場する程度ですみ、しかもその数コマ後ではすでにその形跡もとどめぬ無傷な姿になっている、という表現は、手塚治虫がその成長期に親しんだニコニコ大会などでの、スラップスティック喜劇から自作の中に取り入れたことは明らかと思える。さらにさかのぼって、痛みや悲しみといった感覚とキャラクターを乖離させ、痛みを伴う暴力描写を笑いとして描くという伝統は、多くの大衆演劇、そしてパンチ&ジュディの人形劇などにまでその源流を求めていかねばなるまい。少なくとも、キャラクターの記号化をマンガのみに可能だった特性、という言い切りは粗略の指摘をまぬがれ得ないものである。

 伊藤氏や東浩紀氏の論考を読むたびに感じるじれったさは、彼らがマンガやオタクを語るとき、あまりにも視野を狭くとり、マンガやオタク文化が綿々と連続している大衆文化とその受容の形の、一バリエーションであるという認識に欠けることと、それら大衆文化に関する知識や造詣にあまりに乏しいことである。それだから、他の分野からの明確な影響であるものを特性と言い切り、過大(もしくは過小)評価してしまうような軽率な発言を往々にしてやらかすのである。彼らがそれに気がつかないのは、(『動物化するポストモダン』の批評でも見られた傾向だが)評価する側にもその知識が乏しい者がほとんどで、あきらかな彼らの誤謬を指摘できないという現状のなさけなさの現れに過ぎない。その方面に詳しい誰かが、一度お灸を据えてやらない限り、彼らはこのままだと(オタクアミーゴス会議室で先日誰かが指摘したように)本当の裸の王様になり果ててしまわないだろうか。それを懸念するのである。

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