裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

27日

水曜日

訃報は死亡さん

死亡記事はいったいドコサヘキサエン酸?

※原稿チェック

朝9時45分起床。
『猫酌』の食事会の件を参加希望者に通知。
朝食、ジュース、スープ。

栗本薫死去の報、26日、すい臓ガン。56歳。
もっと生きていて欲しい人だった。
……と言っても、その意味は通常のそれとは少し違う。
もちろん、人の死を願うものではないが、癌との闘病の情報が
耳に入って、ある種の予期はしていた。
生きていて欲しかったというのは、彼女の死により、私は
“あの頃”の自分と向き合わねばならないからである。
彼女がデビューした頃の自分と。
せめて、もう十年か十五年、それは先延ばししたかった。

私にとり彼女を語ることは私のSFや小説や評論や“文筆業”
として立っていくことや何やかやに対する、全てのコンプレックス
を語ることに通じる。

30年前、『奇想天外』誌(第二期)関係の人とよく話していた
とき、
「いま、SF業界で一番才能のある書き手が中島梓(評論家としての栗本薫のPN)」
と編集者のK氏が言い切り、私はそれを聞いて反射的に
「あんなのが一番の才能なら、僕はSF業界には行きたくない」
と吐き捨て、それをわきで聞いていたなみきたかし(当時並木孝)に
「自分より売れているからだろう」
とズバリ言われた。売れているも何も、私は当時まだ大学生で
デビューもしていなかった筈だが、しかし、自分の中の中島梓へ
の嫌悪感の由って来るところがジェラシーであること、それは
確実であった。

いや、私以外の人にもそういう人は多かったのではないか。
在学中から評論・創作活動で注目され、卒業論文を恩師に激賞されて
文壇デビュー。やつぎばやに群像新人文学賞、江戸川乱歩賞、
吉川英治賞等を受賞して一躍時の人となり、音楽に演劇にラジオ
DJにと進出、マスコミの寵児となる……といった、ある意味
若い作家志望者があこがれるパターン、下手をすると妄想と
言われかねないほどの理想のパターンをここまで現実化した人も
滅多になく、いよいよそういう奴が同世代から出てきたか、
と、実は背中に冷汗がつたうような思いをした人は多かった
はずだ。

よく考えれば文壇に出る、物を書くためのルートというのは
他にいくらもあり、現に多くの人が多くの道をたどって業界人に
なっているのだが、若いということの悲しさ、自分の前に
敷かれているのは赤い絨毯でなければならず、それが敷かれる
のが他人であるということに我慢できなかった。
それが20才というものであり、それがモノを書いて世に問おう
などという自我肥大者の、よくある思考パターンだったのだ。

以前、『20才の時の愛読書』という原稿を依頼されたことがあり、
私はまっさきにそこに百目鬼恭三郎の『風の書評』を挙げた。
20才というのは、モノカキを目指している者にとって、
そろそろ周囲が見え始め、“自分は天才ではない”ことに気づきはじめ、
しかしなお、それを認めたくなくてジタバタしている年齢であり、
どうやら自分より才能があるらしい若手の作家がぞろぞろと
文壇にデビューしはじめる時期で、毎日、新聞で文芸新人賞の
受賞記事を見る度に七転八倒している時期である。
その時に、そういうキラキラ輝く若手の作品を片っ端からコキおろし、
罵倒し、けちょんけちょんに叩いてくれる“風”の存在だけが救いだった、
というようなことを書いて、坪内祐三さんに大変面白がられた。
そして、私が風こと百目鬼恭三郎を秘かに伏し拝んでいたのは、
彼が栗本薫の乱歩賞受賞作『ぼくらの時代』を、ミステリとして
トリックがアンフェアであり、彼女が受賞した理由は話題性のみに
過ぎない、と一刀両断していたのが、多分、ではあるが、最も大きな
理由ではあった。
人間として小さい、とか卑しいとか、言わば言え。
これは自分の才能を商品にして食って行こうとする若者なら、
大なり小なり持っている感覚、持たない者はいない感覚なのだ。

だが、日本中に何百人いたかわからない、そんなチッポケな嫉妬小僧の
思いなどとは無関係に、彼女の才能はきらめいていた。SFにミステリに
JUNE小説に絶好調、中でも最大の彼女の貢献は『小説道場』の、
あの厳しくも愛情あふれる指導の技術にあったろう。
理想を失わず、かつ現実の業界事情に則したその指導は
“これぞ「作家」の指導”と、読む度にほれぼれしていた。
ある編集者が
「栗本さんの原稿はいただいたものをそのまま、印刷して本に
出来るんです。後からの赤入れ、誤字脱字など、見たことが
ありません。ああいう人を生まれついての作家というんだと思います」
と目を輝かせて絶賛したことがある。その時は私ももう大人に
なっていて、
「そうか。さすがだねえ」
と同調してみせる余裕もあったのは幸いだった。

作家として成功し、大好きな沢田研二のために台本も書き、しかもその
作品でジュリーをみじめに悲惨に(自分のためだけに)死なす、という
誰もが心の底でやりたかったことを大胆にやり、さらには女性としての
恋愛の勝者(不倫をして男を奥さんから奪う)の経験までした。
人生の全ての栄光が彼女の元に集まっているかと思えた。

それから……その頃からである、どうも彼女の作品、いや、彼女の
書く文章そのものに変調が現れ始めたのは。
それまで、いかに嫉妬を覚えようと認めざるを得なかった彼女の
才気のきらめきは、まさに“急激に”衰えはじめ、彼女の周辺には
彼女を女王とも女神とも讚える熱烈なファンたちだけが彼女をかばう
ように壁を作り、真実の姿を見せなくなった。ときおり目にする
彼女の文章は、目を覆いたくなるほどの劣化を見せていた。

願望を若いうちに達成してしまったことで、ものを書く、という
行為に対する熱意が失せてしまったのか。
あるいは、
http://wagamamakorin.client.jp/kaorin.html
ここで言われているように、もともと彼女自身が望んでいたのが
そういう場所だったのか。それは私にはまるでわからない。
はっきり言えば、興味もない。

だが、彼女の出現は、あきらかに当時の文壇を大きく変えただけの
衝撃があった。文壇に、ほぼ初めて、サブカルチャーを堂々と
持ち込んだ人でもあった。
今、私含め、サブカルと文壇の間をうろちょろしているような人間は、
全てがあのとき彼女が切り開いた地で生計を営んでいる、といって
過言ではない。

死去の報を見て驚いた。56才。5つも離れていたのか。
同年齢か、離れても2つ3つだとばかり思っていた。
それだけ当時の私が背伸びしていたということなのだろう。
またひとつ、青春の思い出だった存在がこの世を去った。
自分がデビュー時から知っている作家が亡くなるというのは
ある種、そういう時期が来たのだなあ、と自分の衰えまで
自覚されるものがある。黙祷。

昨日のチェック原稿の残り1/3をやる。
分量から行って昼過ぎには完成するだろうと思ったが、
これがいっかな終らない。

昼はシャケで弁当。
食ってさらに原稿。
芝居のお誘いもあるし何もあるしかにもあるしだが、
これが終らないと話が始まらぬ、予定も立たぬ。

結局、6時半過ぎまでチェック改稿、かかってしまう。
何とかメール。

サントクで買い物し、帰宅したら石本美由起氏の訃報。85歳。
連続するなあ。しかも三木たかしがつい数日前に亡くなっている。
今年はどうしちゃったのか。

『長崎のザボン売り』は戦後、原爆で打ちひしがれた長崎の
暗いイメージを一新し、可愛いリボンを結んだえくぼの娘の歩く
エキゾチズム(日本国内でエキゾチズムというのも変だが)を
全面に押し出した記念碑的な歌だが、実は長崎にはザボン売り娘
などというものはいなかった。第一、寄生虫の害で長崎市は当時
市内のザボンの木を全て伐採し、ザボンなどどこを探しても
なかった状態だったのだそうだ。
これらは全て作詞家・石本美由起の頭の中に形作られた架空の長崎の
イメージだったのである。
ところが、石本のこの歌がヒットしたことで観光客からの
問い合わせが殺到し、長崎市はザボンを復活させ、観光土産売り場に
ザボン娘を置いたという。天才のイメージは現実をも変えるのだ。

美由起という名前(本名・美幸)から女性だと思われることも多かったと
思われる。なお、石本は大正13年生まれ。ちなみに同い年生れ
の三木のり平の本名は田沼則子(ただし)と、読みは男性だが
字は女性。大正15年生まれの山口瞳も女性名。
性別の超越は大正デモクラシーの表れか(徴兵のがれではないか、
というmixiでの指摘もあった)。
さらにちなみに、だが、山口瞳は、
「自分はこの名前で苦労したので、性別のはっきりしないペンネームの
作家は嫌いだ。例えば栗本薫とか」
とジョーク(?)を飛ばしている。

石本の作詞は、戦後の日本人特有の情緒の基礎に、故郷を喪失した
男女の姿を置いたことに特長があるのではないか、と思う。
架空の長崎の情景を歌った(北原白秋の詩から長崎のイメージを
作り上げたという)のもその表れだし、大ヒット曲『憧れのハワイ航路』
の歌詞にもよく読み込めばそのケが濃厚だ。
『港町13番地』『哀愁波止場』などのようなマドロスものを
多く作詞したのも、故郷喪失者(ハイマートロス)の代表を
マドロスに求めたのだろう。『渡り鳥いつ帰る』のように、
居所定まらぬ男を引き止めようとする女の気持ちを歌った作品も、
所詮“男とは故郷を持たぬ者”という諦念が最初にあったからでは
ないか。数少ないアニソンの代表曲までが
「ふたつふるさと後にして……」
の『大ちゃん数え唄』なのだから徹底している。
「どこへ行くのよ」「知らぬ土地だよ」
のやりとりがある『矢切の渡し』が後年最大のヒット曲に
なったのもむべなるかな。

そういう意味では、故郷どころか、今の自分の立ち位置すら
明確でなくなっている今の日本人にも、石本美由起の
歌詞は十二分にアピールするのではないかと思う。
彼の死で日本の戦後が、ある意味本当に終わったのかもしれない。
黙祷。

NHKのYくんから電話、『アニメソングナイト』、
ハイファイでの再放送が超・高視聴率で、さっそく地上派放送が
本決まりになったとか。めでたし。
私は(家にBSがないので)まだ見てないが、水木アニキへの
最後の定義と、『グランプリ・ブギ』の選曲が評判よろし、とか。

それにしてもトンデモ本大賞の構成も早くせねばならぬ。
こんなときにまあ、と神経イラつかせながらも。
夜食、ヒラメとマグロの刺身で日本酒ロック。
あんかけ豆腐、ラッキョウ漬け、それと沖縄アグー豚の
肉みそ。

12時ころ、岡っちが来て、明日、橋沢さんのテレビ収録に
必要という帽子を借りに来た。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa