裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

6日

日曜日

釜茹で一番肝心なことは素敵なタイミング♪

 死刑駄洒落シリーズ第五弾。朝4時半起床。ベッド読書。外はかなり寒そうだが、ぬくぬくと暖かい部屋で本が読める幸せ。起き出してミクシィのぞいたりする。『アニメ夜話』制作会社アマゾンから連絡。最初は三回放送のうち二回に出演をお願いします、という話で準備を進めていたのが、ゲストの顔ぶれをもう少しバラエティに富ませたいので、一回に関しては出演を取り下げさせてください、と。私としては別にかまわないのだが、以前この番組でナディアを取り上げたとき、本来私は出演予定でなかったところを(樋口真嗣監督が忙しくて出演できなかったピンチヒッターで)い きなり
「出演お願いできないでしょうか」
 ということで予定やりくりして出た経緯がある。これで今度は急遽出演取り下げ、ということで、またハイハイと言って文句言わないでいると、“足りないとき出してきて、多すぎるときゃしまう”的な、便利な補充要員として認識されてしまう。怒るべきところはきちんと怒らないといけない。“いい人”ではいけないのだ……と、い うことで、怒ったメールを返信しておく。

 そもそも、この扱いでは残りの一回も出て気持ちよくしゃべることが出来る(つまり、いい番組作りに貢献できる)とは思えない。いくら評論家はしゃべるのが仕事、とはいえしゃべる機械ではない。人間である。人情で動く。そこらへんの機微がわか らないスタッフにいい番組が作れるとは思えない。

 入浴、朝食。ミカン、パイナップル、カップポタージュ。地下鉄で通勤。仕事場でとりあえず『コミビア』用ネタ五本。お題なしのネタ選定は実に荷である。昼食12時。オニギリと黒豆納豆、カップのアサリ汁。この過酷な(?)ダイエットを続けられるのも、黒豆納豆のグルタミン酸の旨みに半ば中毒しているせいだろう。

 ネタ送って、それから『FRIDAY』コラム原稿。バレンタインデーネタ。バレンタインデーの一ヶ月後にはホワイトデーがあるが、韓国ではさらにその一月後(4月14日)にはブラックデーというものがあり、せっかくバレンタインデーに男子にチョコをあげたのにホワイトデーにおかえしを貰えなかった女子たちが、黒い服を着て黒い食べ物(黒いソースのかかったジャージャー麺)を食べる。あははは。

 3時15分、家を出て新宿、埼京線で池袋。芸術劇場小ホールで劇団セレソンDX『FAMILY!』鑑賞。先日、某打ち合わせ時に関係者から“是非とも観てください”と頼まれたもの。今売り出し中のサタケミキオ(上戸彩の『アタックNO.1』の脚本)作、今売り出し中の宅間孝行(『タイガー&ドラゴン』出演)主演で、実はこの二人は同一人物だったりするのだが、彼の劇団のシチュエーション・コメディ。

 政治家の地盤引き継ぎをめぐっての裏の駆け引きの舞台となる、東北の山中の某ホテル。ここのオーナーで、今期限りで政界を病気引退する予定の政治家は、二十年間顔を合わせたことのない先妻の息子をそこに呼び出し、自分の支持母体である医師会長の娘とめあわせようとする。しかし、その娘は夢見少女(でも三十歳)で、いつか自分を王子様が迎えに現れると信じている。息子は一向に現れず、かわりにやってきたのはその政治家とたまたま入院先で一緒だったトラックの運転手とその仲間の三バカトリオ。息子を待ちかまえていた医師会長と黒幕代議士の二人は、運転手を息子と間違えて説得を開始し、運転手もなにがなんだかわからぬうちに“その気”になってしまう。一方でホテルには謎の美女、また携帯で呼び出されたらしいオタク男などが次々立ち現れ、さらに政治家秘書とホテルの従業員の女の子とのすれ違いの恋愛も加 わって……。

 台本段階でコメディの基本である“人物の交錯”“複数の事情の混乱”“それらのラストに向けての収斂”がカッチリと描き混まれており、ウェル・メイド・プレイの 根本である
「全員がきちんとまとめようとしている話を、一人のトリックスターがぶちこわし、当初の予定とはまったく異なる、しかし観客全員が納得する形にまとめて幕」
 という様式がまるで教科書のようにきちんと展開し、涙と笑いが適度に混交されて提供される。なるほど、これは人気劇団になるのも無理はない。芝居を観ることの心 地よさを十二分に味わった。

 数組の、いずれも本当に恋する相手と結びつけない(あるいはケンカばかりしている)男女と、その混乱にさらに拍車をかける三バカの存在。主役のトラック運転手を演ずる宅間孝行と、その仲間の三バカのキャラには、シェイクスピアの『から騒ぎ』におけるコメディ・リリーフのドグベリーたち夜警三人組が重ね合わせられる。新し くて、しかもクラシックなのである。

 ただ、ウェル・メイド・プレイというものは基本的に、100の面白さがその台本の中に予定されていた場合、観客が受けとる面白さはマックスで100であり、突発的な、作者も演者も観客も予想もつかなかったものが舞台上に現出することの興奮、つまり“化ける”ことがない。そのかわり、ハズさない。日によって来たお客さんに 差別が生じることがない。ここらが難しいところだ。

 つまり、落語に例えると志ん生タイプと文楽タイプ、或いは談志タイプと志ん朝タイプのどちらを方向性として選択するかということだ。いつ聞きにいっても80点をキープする文楽・志ん朝タイプをよしとするか、平均点は5〜60点、時には30点が続くときもあるが、当たったときには120点、いや、ごく希に200点をはじく という志ん生・談志タイプをよしとするか。

 舞台というナマモノの場合、観にくる日によって不公平は絶対にある。客のことを考えるなら、その不公平の幅を出来うる限り小さくしようとするのが主催者の正しいあり方だ。しかし、一回200点の舞台を体験してしまった客は、たとえそれがその演者(劇団)一生一度の200点であっても、それから永久にその200点の舞台のことを語ってやまない。それをねらうバクチもアリ、ではあると思う。

 で、私の好みもどちらかというとこのバクチの快感の方にある。しかし、バクチはバクチだし、そもそも私がそういうバクチを好きになったのも、80点キープの演者を追っているうちにたまたま、200点を体験してしまったという幸運(?)のせいである。何年もその演者を追いかけても、ついに一度も50点以上の舞台を観られないファンだって存在するのである。このジレンマは、全ての表現芸術者にとっての悩 みであろう。

 ……もっとも、若いうちは、演者はすべからく80点キープを目指すべきだとは思う。バクチは自分が結局のところバクチ体質で、まっとうな努力には向かない(努力がむくわれない体質の者も絶対にある一定の確率で存在する)ということを知ってからで遅くない。そして、バクチタイプであっても、そのバクチの目が自分に向くような努力は、これはしなくてはならない。バクチに身を持ち崩す典型は、自分のかつての200点の幻影に一生とらわれて、30点しかとれぬ現在の身をなんとかしようと する努力を怠るタイプなのである。

 劇場出る。寒い。池袋でなにがな飯をとも思ったが、現在の池袋はきれいでおしゃれな街になってしまっており、私の行きたいような店がない。JRで新宿まで、そこからタクシーで帰って、DVD等見ながら水割り缶、焼き鳥、ベビースターラーメン などで一人で晩酌。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa