裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

10日

月曜日

夢もチボー家もない

 ああ、マルタン・デュ・ガール全集まで差し押さえられるなんて! ……しかし、元ネタの東京ぼん太なんて、この日記読む人の何人が知っているのか。きのうあれだけ昼寝したのだから、とか思っていたが、8時までぐっすり寝ていた。よく眠れるものである。夢もいろいろ見る。そのうちの一つ。ある美人作家(名前判らず)とセックスをすることになる。彼女が脱いだのを見ると、顔はまあ美人なのに、体が立方体のように真四角なデブである。しかも触るとむにゅ、とどこまでも柔らかい。もう一つの夢では、私はまだ学校に通っている。靴箱が新しいものに変わったために、古い靴箱の鍵を交換しなければならないのだが、係がもう帰ってしまって交換できない。この夢には、若い頃の夢を見るときの定番である、坂道の通りがまた、出てくる。前にもこの日記に書いたが、かなり急勾配の長い坂道の両脇に、古い木造住宅が重なりあうようにして軒を連ねている光景である。そこを、母親となにやら口ゲンカしながら歩いている。途中で路上で靴を並べて売っている店があり、二人、立ち止まり、私はそこで雨靴を買う。透明なビニール製で、普段はバッグとして使えるが、雨が降ったときには靴になるのである。この坂道は、阿佐谷のアオイ荘に続く道のイメージが頭の中で変形した通りであろうと思う。何度も私の夢には出てきて、次第に古怪なイメージになっていき、つげ義春のマンガに出てくるような光景に変じていたが、今朝の夢では、いくぶん、現実の通りに近いものに戻っていた。こないだ、阿佐谷へ行って、記憶が更新されたためであろうと思われる。

 朝食はまた、豆サラダ(グリンピース、豆もやし、トウモロコシ)。モンキーバナナとコーヒー。新聞休刊日なのでちと活字の禁断症状。昨日の産経新聞などを読む。書評欄でドイツ文学者の松永美穂が、R・ヒュルゼンベック『ビリッヒ博士の最期』(未知谷)を紹介している。こちらも、トーマス・マンと同時代の作家だがダダイズム運動に参加した精神分析医という一筋縄でいかない作者の、一筋縄でいかない作品だが、評者は非常にかろやかに、かつ手際よく作品の読みどころと作者紹介、そして作品の生まれた背景を解説して、こちらに提示してくれている。ちとかろやかすぎる感もあり、昨日の千石氏の気合の入り方とは正反対だが、私は新聞の読書評としてはこちらをかう。と、いうか、読売の書評子たちは、少し気張りすぎである。本を本当に真摯に読まねばならないのは試験前の大学生くらいなもので、一般人はもっと気軽に手にとるべきだ。そして、読んでつまらなければ投げ出せばそれでいいのである。

 鶴岡から久しぶりに電話。最近テンパり気味なんすよ、と言う。短い時間だったが変わらぬ馬鹿ばなし。いろいろ方向性を変えようとかまた元にもどろうとか迷っているらしい。若いモンは大変だねえ、と思う。その点、年寄りは自由だ。迷いなどなく自分の依って立つ視点で全てのことを切って捨てられる。まったく、ロートルになるということがこんなに楽しいことだとは、若いうちは思いもしなかった。それもこれも、“柔軟な思考”とか、“視座の自由さ”などという不安定なものを断ち切れたから、である。人は、自由という意味をはき違えている。例えて言えば、ピアノをやろうかバイオリンにしようか、それともフルートを習おうか、と選択の自由をもてあそんでいるうちに、何の技術も習得できずいい年になってしまうようなものである。早いうちからピアノならピアノ、と自分の方向性を定めて、そこでの演奏技術を深化させた者の方が、はるかに自由な芸術表現が可能になる。それもこれも、人間の所有する時間が有限だからだ。有限の時間の中で無限の選択肢を渡り歩くくらい非能率なことはない。自由があるように見えて、結局、人はタンポポの種と同じく、風邪に吹かれて落ちた場所で全ての運命が決まる。ならば、その落ちた場所でベストを尽くすしかない。とらわれることを怖れる者は結局、大地に根付くことなく、立ち枯れねばな らない。“自由病”のなれの果ては悲惨なものである。

 雑用があったので六本木に出る。まだ肌寒いが、吹く風はまぎれもなく春の匂い。銀行で振り込みし、讃岐屋といううどん屋でうどんを食う。釜揚げはもう売り切れということでぶっかけ。さすが、花丸などに比べるとはるかにうまいが、ぶっかけにア ゲ一枚で820円というのもけっこうなお値段。

 大盛堂書店で雑誌立ち読み。『噂の真相』に、伊万里すみ子と並んで、滝沢解死去の報(やはり一月)があった。ふくしま政美『女犯坊』『聖徳太子』などの原作者であり、一時の(突発的ではあったが)ふくしま政美再評価で、最近の読者にもなじみが深くなっていたのではないかと思われる。2月の2日の日記に、赤塚不二夫『鬼警部』のことを書いたが、あのストーリィ協力が滝沢解で、それから赤塚不二夫と彼はコンビを組み、『狂犬トロツキー』『幕末珍犬組』といった、頭でっかち的な失敗作を多数生み出していく。先にも書いたように、純粋なナンセンスの世界に変な思想を盛り込んでいく作風に反発を感じていた私であったが、その底に流れている異様な情念の濃さはビリビリするほどに感じて、なんなんだろうこの人は、と、単なるマンガ原作者を越えたものを彼には感じていた。また、そのような“傾向的マンガ”に失敗し、娯楽派に転じてからの、異様なコワレ方はまた梶原一騎や小池一夫といった成功者の作品にはついぞ見られない、ドス黒いまでの情念の世界を描き出していた。成功作よりは失敗作の方が多い人だったが、失敗作でなくては味わえない、異様なインパクトというものもまた、あるのである。代表作と言えばなんと言っても『女犯坊』だろうが、小森一也・画の『怪豪力士伝』なんかも、コワレ方は凄まじかった。大島渚などと同世代の、60年安保世代で、その挫折を一番色濃くひきずっていた一人ではなかったろうか。

 帰宅、Web現代原稿を書き出す。イベント続きで、仕事がちょっと滞り気味。馬力をかけねばなるまい。これは大過なく書き終え、次に『男の部屋』にかかる。短いものだからとタカをくくっていたが、最初の釘が間違えてはまってしまったものか、どう書き込んでも面白くならない。あちらを直し、こちらを直し、なんとか読めるものには仕上がったものの、読み返すと構成がメチャクチャ。一晩おいて、明日の朝に 手直しして送ろうと思い、そこで中断。

 新宿に出て、8時、伊勢丹会館内『三笠会館』。K子先に来て席についていた。すでに牡蠣のシーズンも終わり。やはり鯛か。お刺身風サラダ、オマール海老のスパゲティ、エスカルゴにコショウダイの白ワイン蒸し。いずれも一人前を二人で分けて。エスカルゴがとろけるように柔らかくて甘くて、これだけは一人一人前食べたい。ワイン一本あけて、最後にチーズとカルバドスまでとって、寿司屋よりずっと安いというのはどういうことぞ。

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