裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

20日

日曜日

ドッカータとフーガ

 バッハが日雇労働者の姿を見て作曲したのがこの曲で……。朝6時に目が覚め、しばらく読書などして、また7時に寝て、9時に宅急便で起こされる。チョンガーの自堕落な日曜。少し昨日の酒が残っている。気圧も変調気味で調子極めて悪し。朝食、豆スープと巨峰。三島由紀夫について少しコピーなどした資料を読む。その中で、フランス文学の篠沢秀夫が、“三島は『潮騒』の頃から軍国主義的傾向を作品の中にちらつかせていたが、当時の彼は風俗解放の旗頭と思われていて、憂国者的傾向にはだれも目が行っていなかった”と指摘しているのがあり、感ずるところがあった。性解放と軍国は相反しているように見えながら、実は密接に結びついているイメージなのだ。ここらへん、放り出しっぱなしになっているが『戦争論』で詳しくやろう。

 池谷三郎氏死去。79歳。われわれ東宝特撮ファンにとっては“あのアナウンサー役の人”で通った。『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『妖星ゴラス』『怪獣大戦争』『怪獣総進撃』などなどなどの映画で、われわれはこの人の報道で怪獣の出現、地球の危機を知ったのである。アナウンサー役専門の役者というのはいかにも妙で、最初、われわれはそれを第一作『ゴジラ』の実況中継アナウンサー役があまりに印象的で、それ以来アナウンサーとなればアイツ、と役が回ってきたんだと思っていたが、なんと本職のTBSアナウンサーだったそうで、アナウンサー養成学校の校長まで務めていたという。東宝の脇役関係にはいろいろマニアックな紹介サイトが多いが、ちょっと切り口が面白いと思ったのは、以下のところで、これはいろんな映画でアナウンサー役をやった俳優・本職のリスト。
http://www.fjmovie.com/horror/j/column/announcer.html
『ただいま実況中』

 手紙類を整理。トーハンから『2002年印象に残った本』のアンケート依頼が今年も来た。ハンズ玄関にサンタは立ったし、このアンケートは来たし、開田さんの同人誌『特撮が来た!』からも今年の特撮作品について原稿依頼が来たし、やれ年末な ことよ、と深く実感。モノカキは年末を一ヶ月半、前倒しで体感する。

 植木不等式氏のbk1の書評コラム『渡る世間はバネ秤』は、植木氏の本領発揮の(まあ、タイトルからしてそうだな)傑作連載なのだが、トップページから行こうとすると非常に行きにくいのと、更新が不定期すぎるので困る。9月末に更新されていたのを今日まで気がつかずにいた。嬉々として読むが、その中で中根研一『中国「野 人」騒動記』(大修館書店)を取り上げ、そのラスト(だと思う)の
「あの“雑交野人”が最後の一匹とは思えない。中国人がその形象に仮託してなにかをいわんとする限り、あの“雑交野人”の同類が、また大陸のどこかにあらわれてくるかもしれない――」
 という部分を引用している。うわ、『ゴジラ』の山根博士の台詞のパロディではないか。紹介によるとこの著者は川口探検隊シリーズのパロディもやらかしているというし、こういう正統派の学者の文章にまで、大衆文化的教養がすでに本歌取りの対象としてどんどん取り入れられているあたり、別の意味で非常に面白い。さっそく注文する。もっとも、私は紀伊國屋ブックウェブの会員なもんで、そっちで。bk1さん には申し訳ない。

 ついでに他の人のコラムも読んでみる。竹熊健太郎氏が田中圭一氏の『神罰』を取り上げ、手塚作品がこれまでパロディされていなかったのはその作中に自己パロディの要素があるためであり、パロディに必要な落差が生まれ得ぬ故であった、と説いている。シリアスな作品中にギャグを差し挟むのを、手塚治虫の“ワン・アンド・オンリー”なものとする意見にも異論があるが、それは措くとして、手塚治虫のパロディが田中氏以前に存在しなかったように書くのは、他の凡百のマンガ評論家ならともかく、マンガの歴史に博識をもって鳴る竹熊氏とも思えない。初期ロリコン同人誌界において、手塚のパロディは多数とまではいかずとも常に一定量存在していた(『リボンの騎士』などは人気元ネタだった)し、それらは手塚治虫がその作風から決して描くことの出来なかった“下品ネタ”を露骨に作中に取り込むことで、十分にパロディとしての落差を生み出し得ていた。私が当時購入した作品には、『ビッグX』の昭とニーナのセックスを、手塚タッチをほぼ模したと言えるレベルの絵で描いたものがあり、あまりと言えばあまりな作者名“手淫塚精虫”と共に、その下品さと、パロディとしての出来のよさに、弟と二人で大喜びしたものだ。まさに、竹熊氏の言う、手塚の中に内在していたエログロナンセンスを、徹底して解き放った作品であった。『神罰』もまた、この系列に属するパロディ作品であり、その完成度を讃えることに異議はないものの、実はここに辿りつく経路はちゃんと70年代に用意されていたものであり、田中氏が商業マンガとしてそれを発表できるようになったのはマンガ業界自体 の質の変化によるものとして分析しなければいけないことだろう。

 マンガに限らず評論家が往々にして足をとられる陥穽は、自己の評論対象を持ち上げる(ことによってその対象を取り上げた自分をも特化しようとする)あまり、その対象の存在を、他と懸絶した特異なものと安易に規定してしまうことである。例えば新海誠の『ほしのこえ』が、現在の自主アニメーション界全体のレベルの高さを、たぶんそのテの作品を一本も見ておらず知りもしない評論家モドキたちによって頓珍漢な言説で絶賛されまくっている状況などを見るにつけ、苦笑する他はない。同様の意味で、竹熊氏が田中氏の、他者の絵柄を完全に身につけてしまう技術を
「『専業マンガ家』であれば恐ろしくてとてもできない行為」
 と断定してしまうのは、同じく自分のそれまでの作風を捨てて、楳図かずおのスタイルを丸々換骨奪胎し、それで自分のオリジナルな世界をクリエイトしつつある児島都のような優れたマンガ家(もちろん、専業マンガ家である)の存在をネグレクトしているものとしか思えない。やはりエヴァンゲリオンに狂って以来、この人の評論家的アンテナはどうにかなってしまったようだ。
http://www.bk1.co.jp/s/m/column/

 昼2時ころ、新宿に出て、メトロ食堂街でウナギメシを食い、紀伊國屋書店で新書数冊、DVD数枚購入。雨というより、街中が靄っているような雰囲気である。伊勢丹で今夜のメシを買う。料理する気にならないので、茹でてあるカニ買う。帰宅、いくつかメールに返事。『深夜+1』(内藤陳氏のお店)関係からとか。いろいろ来ている。仕事せねばと思うが、雑事多々。台所の掃除、猫のトイレの始末、その他。

 ぼやぼやしているうちに夕方になってしまうが、なにかテンションあがらず、と、言うよりは気圧による軽い鬱で、人生とか考えてゴロチャラとする。夕刻、宅急便で豪貴から麻黄附子細辛湯届く。おとついで切れていたのである。さっそく服用。効果覿面というか、急に仕事する気になって、Web現代原稿。アドレナリンが出ていると見えて腹が減らない。11時までかかって10枚アゲ、メールする。こういうときは一人暮らしが便利だなあ、と思う。長生きは出来ないだろうが。そう思っていたらK子から電話。そろそろ向こうに飽きてきたらしい。
「日本人ばっかりで英語を使う機会がない。ママも、何のためにこんなところに住むんだか」
 とか言っている。異文化の中に放り込まれるのが好き、というのは頼もしいが。

 11時、晩飯。毛ガニは身がコナっぽく、ミソもほとんどない、カスガニである。高かったのに。ソバガキ作って、ビール小二カン、酒二合。DVDでナショナル・ジオグラフィックシリーズ『パナマの熱帯雨林』。そこで生活するさまざまな動物たちの生態が描かれるが、彼らをそこで研究する学者たちのさまざまな生態のコレクションにもなっていて面白い。巨木のてっぺんに毎日登ってはそこの生物層を研究する女性動物学者、毛虫の歌う歌を録音し続け、“私はその世界一のコレクターだ”と豪語する(他にいるのか?)若手昆虫学者、コウモリに魅せられるあまり、彼らと同じく夜行性となってしまった女性動物学者、カエル男と呼ばれる、鳴き真似でカエルと会話ができる老動物学者。

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