裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

20日

土曜日

膜下っかっか脳のクモ

 頭の中身が膜下っか、ぎんぎんぎら血がにじむ。朝6時半目が覚めて30分ほど読書タイム。朝食、8時。トウモロコシとサツマイモ、クレソン。果物はプルーン。ゆうべの飲み会のダベり中に舌の右の付け根を噛んでしまい、そこが腫れて痛い。

 ゲラチェックもどしなど数件。青山智樹氏のサイト日記で、SF大会論のようなものがアップされており、そのまとめが、“SF大会というのはあれだけの規模のものを素人がやっている。プロに頼めば一億円はかかる。実行委員は一億に値する仕事をしているのだ。誇ってよい”という内容であった(7月17日の日記)。
http://www.din.or.jp/~aoyama/
 私はSF大会に十年の間、ゲストとして参加させてもらい、無理な企画案も出し、スタッフの方々には万象お世話になって、そのこと自体には満腔の感謝の意を表するにやぶさかではないが、この論はちょっとリクツがヘンだろう。プロが請け負って一億かかるというのと、実行委員が一億に値する仕事をしている、ということとはまったく意味が違う。“金をとらないから我慢してもらっている”部分、それから“責任者が年ごとに変わる故にその年の不満が翌年に持ち越されない”部分がSF大会にはある、ということに助けられての毎年の成功だということを忘れてはいけない。

 そして、彼の文章の中で最も問題なのが、“SF大会の会計を圧迫しているのはゲストである”という部分である。引用するとこうなる。
「SF大会にはゲストなる人物がやってきて、まあ、このゲストと会ったり話が出来たりするのがSF大会の魅力の一つとなっている」
「が、このゲストがSF大会の会計を圧迫しているのは否定できない」
「都市型大会では大抵はゲストは無料招待である」
「仮に総参加者数一千名、ゲスト百名という大会を考えてみよう。都市型で大会全部負担だったとしたら総予算の十%がゲストのために費やされる。無意味な失費だとは断言できないが、SF大会の収入のほとんどが参加者の参加費によることを考えると決して少ない額ではない」
「だから、ぼくはゲスト参加するクリエイターも自分で参加費を支払って一般参加すべきだと主張している」

 で、青山氏は自身のこの主張を実践して、毎回、大会には真っ先に一般参加者として参加費を支払い、ゲスト扱いになった際も、その分の寄付を置いて帰るそうな。その首尾一貫した態度には敬意を表するが、しかし私にはこの主張、特に最後の部分に至る論理がどうしても理解できない。破綻しているか、もしくはごまかしがあると考 えるものである。

 まず、SF大会に参加する一般ファンの主な楽しみのひとつが、ゲストであるプロ作家、もしくは著名人に出会えることだという前提が述べられているが、と、すればSF大会に赴くことで利益を得るのは一方的に一般参加者側である。ゲストはいわば見世物として、彼らに写真を撮られ、握手やサインを求められ、そして企画に参画してウケをとることを求められる。この立場の違う二者に対する扱いが同じでなくてはならない、という理由はどこにあるのか。

 青山氏の主張には、その底に“ゲストとはいえSF大会に参加することは楽しいことであり、本人もそれを望んでいるのだから”という前提があるのだろうが、今やゲストのプロ作家たち必ずしもSFファン出身ではない。SFの裾野が広がったことにより、周辺分野の人々も多く、大会にはゲストとして招かれている(私などもその一人である)。そういう他分野の人々に、狭く特殊なSF業界の慣習に合わせろと要求するのは、非常識というよりむしろ暴力に属する行為だろう。特に今回のように7月に開催される大会の場合、プロの作家であればまず、一線以上にいる者ならお盆進行という極限状況に置かれていることを考えなくてはならない。のんきに“ゲストで参加お願いできませんかあ”などと電話かけたら、怒鳴り返されてしかるべき時期なのである。そこをわざわざファンのために足を運ぼうという気にさせるために、主催者側が相当の礼をつくすのは当然以前の問題ではないか?

 と、言うか、そもそもわからぬのは、この青山氏の文章を読むと、まるで大会側がゲストについては完全にアゴアシ持ちであるかのような印象を受けることだ。基本的に、SF大会において、ゲストが享受できるのは“参加費免除”という特権だけであり(今回は予算の関係ということでその特権も破棄された)、交通費・宿泊費は自分持ちが原則である。……いったい、これでどこが大会の費用を圧迫するのか。氏に少し質問してみたい。それとも、われわれ末端ゲストとは違う、別格のオール大会持ちゲストという人が実は裏にいらっしゃるのだろうか。私の周囲でそういう例は、ハマコンの後、潮健児氏にDAICON6の実行委員氏が、“来年もぜひ、参加をお願いします”と言ってきたとき、私が“じゃあ、交通費と宿泊費を持ってくれませんか”とお願いして、そのとき彼が言下に“持ちます!”と即答してくれたのが唯一のものである。そしてそれは(当日精算ではあったが)完全に実行された。潮健児の名誉のために、あの、その場での一言は本当にうれしかったし、潮氏はその一言を大事にして、死病に冒されて余命いくばくもない体を、わざわざ大阪まで運んだ。結果、付き人を一人つけなくてはならなくなり、その費用は私が出したが、しかし、そのおかげで潮氏はファンたちに最後の挨拶が出来たわけで、その出費は決してムダではなかったと思っている。SF大会にとってもそうだろう。

 本人から聞いたことだが、十何年か前のSF大会実行委員会が、ある人気女流マンガ家に、“あなたはT〜先生の推薦で今年のSF大会のゲストに選ばれました。つきましては参加費をお支払いください”とやって、驚愕した彼女がT〜先生に電話をかけ、“これってヘンじゃないですか?”と質問したところT〜先生も“まあ、SF大会というのは昔からそういうことになっているので……”と返答に窮し、とりあえず彼女の参加費を免除させ、それ以降、SF大会はゲストからは参加費をとらない、ということになったそうである(真偽のほどは知らないが、複数の関係者からそれと同じ話を耳にしている)。エスエフという分野が一般大衆から乖離していき、彼らに見捨てられたような状況に陥っているのは、こういう部分を改めようという声が内部から出てこなかった、その視野狭窄によるものではないのだろうかと思わせる。

 青山氏はSF大会のやり方を“40年繰り返してある一定のスタイルが固まってきたように思う。このスタイルを「こんなものだ」と連合会議で成文化しておいてもいいのではなかろうか”と言っている。冗談ではない、成文化もされていない特殊事情を、周囲に対するSFの立場の変化も考えず“こんなものだ”と思って疑いもせず、変えようとしなかった弊害がアチコチで噴出しているのである。

 青山氏はご自身の主張の根拠を“ワールドコンもそうだから”ということに置いている。歴史も成り立ちも異なるアチラのやり方を日本にそのまま当てはめる無理は措くとしても、本当にワールドコンはゲスト参加自費、というのが常識なのだろうか。私の仄聞した限りでは違った情報が入っているのだが。また、SFコンから派生したトレッキーズのコンベンションや怪獣関係のコンベンションではゲストは費用全額向こう持ちが原則、出演料が出るところも珍しくない。サインだって有料なのは『ギャラクシー・クエスト』を観ればおわかりの通り。昭和ガメラの湯浅憲明監督がアメリカの特撮コンベンションのゲストとして招かれたときには、ご夫婦で往復の飛行機はファーストクラス、ホテルも最上級の部屋を取ってくれて、その扱いに驚嘆してわざわざ私に手紙を現地からくださったほどであった。……これが正しいあり方なのではないかと考える私の方が非常識なのか?

 こう書いたからと言って誤解しないでいただきたい(殊に歴代の大会実行委員の皆さん)。私はこの十年の大会への参加を本当に楽しんできたし、会場でその対応に不愉快な思いをしたことも一度もない。しかし、それは私が毎回、企画を自分の意志で持ち込んで、いわゆる自己責任下で行っていたからであり、また、一旦企画が始まれば、どのようなアクシデントがあろうとも、何とか2時間やそこらは持たせられるという、芸能プロ時代に鍛えた現場感覚があったからである。大会経験もなく、本業以外では素人同然のゲストさんたちにとっては、企画をひとつ持たされるというのは大きな負担になるのである。素人なら逆に、演壇上で大失敗をやらかしてもお笑いぐさですむ。プロにとって、例えばしゃべりの技術がつたないとか、内容がウスいなどという評価がなされる(あまつさえ、ネットなどでそれが広められる)というのは、本業以外のところとはいえ、モロに営業に響くのだ。リスクを背負っているのである。そのリスクに何らかの対価が支払われるというのは、当然のことだと考える。

 問題は、ゲスト必ずしも企画を持つわけではない、ということであろう。大会の豪勢さをアピールするために、ハマコンあたりから、やたらゲスト参加者を増やし、彼らの大半は、何をするでもなくただ会場をぶらついていただけであった。芝居のヒトダマじゃあるまいし、ぶらぶらしているだけで人が喜ぶと思っている、ということが私には不思議だった。中にはパーティなどでタダ飯を食って帰るだけという連中もおり、彼らこそ、青山氏の言う“大会の会計を圧迫する”寄生虫ではないかと思う。参加費を免除してもらっているからには、じゃアお返しになにか企画を、せめてサイン会や壇上での挨拶くらいはしなくては、と思うのが人間のミチではないか。向後、ゲストは何か企画に参加する者のみとする、ということを原則にすれば、だいぶその点は改善されるのではないかと思う。と、いうか、これまた常識以前のことではあり、それを長い間、何とも思わずに放っておいたというのも、SFの閉鎖性の現れであろう。閉鎖性を私は、SFというようなものを成り立たせるためにはある程度の必要条件だと思ってはいるのだが、ならばなおのこと、そこから派生する非常識性には厳しいチェックの目を光らせねばならないのである。

 昼、何を食おうかと外に出る。日差しがカッと照りつけてくる。夏、いよいよである。1時過ぎではあったがマンション近辺のどこの店も満員。空いてる店を求めもとめているうち青山に来てしまい、衝動的にマクドナルドに飛び込んで、てりやきバーガーとアップルパイを食う。てりやきバーガーの醤油とマヨネーズの取り合わせに、改めて感心する。“俺は喧嘩もした。カッパライもやった。だがハンバーガーにマヨネーズはつけない。そんなことは神もお許しにならん”と、いうセリフが映画『走れ走れ! 救急車』にあったが、そう思う人もそこに醤油という要素が入れば、納得するのではあるまいか。食ったついでにスーパーで夕食の材料を買い込む。

 帰宅したら汗ぐっしょり。寝転がって読書。岩波文庫『砂払』(山中共古著・中野三敏校訂)を読む。こんにゃく本と呼ばれた江戸洒落本二百冊を読破して、その中から原本刊行の昭和元年時にはすでにわかりにくいものになっていた江戸の時代風俗に関する記述、またシャレの元ネタなどに解説を加えたもの。吉原言葉と言えば一様に“ありんす”だと思っている者も多いだろうが、実際はそれに加えて、それぞれの店で“家言葉”というものがあり、言葉を聞いただけでどこの店の女郎かがわかったという話などがある。松葉屋ではありんすの代わりに“おす”、丁字屋になると“ざんす”と言い、角玉屋では人を呼ぶとき“こんなこんな”と言い、扇屋では人の話の相づちに“ほんだんすかえ”と言った、などという知識は、今のわれわれの生活にそれこそひとつも役にも立たないものだが、それにも関わらず、いやそれ故に、読んでいて面白くて仕方がない。純粋な雑知識の快楽である。そして、これらの消えていった江戸の文化は、次代に後も残さず消えてしまったがゆえに江戸という特異な時代の示準化石となり、その光景を眼前に彷彿とさせてくれる。『月刊Asahi』1992年7月号の『20世紀日本の異能・異才100人』という特集の解説座談会で谷沢永一が“名論卓説を書いた本は全部消えます。例外なく消えちゃう”と断じている。江戸時代の文献でそれは顕著であり、
「当時の儒者が刻苦して著した学説は全部、いまパーですよ。世相風俗を書いた随筆が、最高に値打ちがある。明治・大正文献も、いずれそうなる」
 と言っている。古書マニアである谷沢センセイ故の独断的言説であるが、しかし、私も全く同感であり、さらに“昭和文献も、そうなる。すでに、なりつつある”と断じたい。残るのは、今を分析評論したものではない。先行きを示したものでもない。ただ、今を子細に記録し、その面白さを語りたがっている文献なのだ。私がシコシコとこんな日記をつけている目標も、この『砂払』あたりにあるかもしれない。

 ついでに言うと、この岩波文庫版は、共古の文章ばかりでなく、そこに原稿を読んで付け加え、また共古の知識の及ばなかったところの補正やカン違いの訂正、意見を異にするところなどを書き込んだ林若樹、三田村鳶魚、三村竹清などの文も共に活字に起こしている。この手の書物の翻刻として、まことに理にかなっているし、また、掲示板やパソ通の会議室の原型のような雰囲気も伝わってきて面白い。この日記の書き込みについても、多くの人がメールなどで毎回、つけ加えや訂正を行ってくれており、記述を支えているのである。昨日の記述に関しても“橋本治は豆腐屋ではなく、牛乳屋の息子である”という訂正をいただいたし、また一昨日のヒトラーの口髭に関してはヒトラーマニアの談之助師匠から、“第一次大戦勃発時のオデオン広場の群集の中のヒトラーもチョビヒゲなので、あの説はあまり信憑性がないのでは(まあ、あの写真自体怪しいという噂もあるが)”というツッコミをいただいた。こういう、知識が知識を呼ぶという図式はいいなあ、とつくづく思う。

 夕方、やや涼しくなったのでもう一度散歩がてら、神山町近辺を歩く。帰って夕食の支度。中元の貰い物の干物を焼き、カニ缶の残りでカニわっぱ。わっぱ飯にして蒸すとパックご飯も一粒の単位から甘味が出る。それからハマグリの安いのと豆腐で簡単な湯豆腐仕立の小鍋。ビデオで赤胴鈴之介『飛鳥流真空切り』(安田公義監督)。1957年の一年間で6本も作られた鈴之介ものの四本目。前作『鬼面党退治』で鬼面党首領の娘として登場した三田登喜子がここでも登場、真空斬りの秘伝書を奪って逃げ、さらに次回の『新月塔の妖鬼』にまで連続して登場する。大映作品ではおなじみのこの女優さん、調べてみたらウルトラマンダイナにまで出演している。主役の鈴之介役・梅若正次がほぼ、この鈴之介シリーズの一年数ヶ月のみの人気で映画界から消えたのに比べ、随分寿命の長いことであった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa