裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

28日

火曜日

そんなコパカバーナ!

 世界的に有名な保養地であるコパカバーナは……人口密度が東京より高い。朝、7時15分起床。雨もよいで薄暗い空。朝食はキャベツサラダ、ミルクコーヒー。朝刊にダイエー優勝で(眠田さん、おめでとう)胴上げされ宙に舞う王監督の姿が。無重力状態にある人のように、背筋を真っ直ぐ伸ばしたままで浮かんでいる写真が印象的 であった。

 で、その新聞(読売)の社会面に、茨城県の家裁の裁判官が、仲間をリンチで殺した暴走族たちに向い、“リサイクルも出来ない暴走族は産業廃棄物以下だ”“肥料にすらならない暴走族は犬のうんこより悪い”と発言した、という記事が。まさしくその通りで、何一つ間違ったことを言ったわけではない。それに対し被告の母親が、
「息子が人間じゃないと言われている気がした」
 と言ったとか。当然ではないか。こんな奴を人間と認めてはいけない。どんなバカでも人間として扱い甘やかすから、こういうクズが出るのである……ひさびさに聞いた胸のすくような叱責ではあるのだが、以前、判決文を読み上げるときに涙ぐんだ裁判官を情けないと怒ったデンで言えば、これもまた、あまりに感情的すぎて“機能”としての裁判官の職務としては困ったもの。親が怒らないから、本来怒るべきでない 裁判官が怒っちゃうのだ。

 雨で調子出ず。Web現代最終回原稿を仕上げたいのだが、テンションがあがらない。雑用片付けているうちに昼になり、外にも出たくないので、羊肉の切れっ端とネギを炒め、生卵に混ぜて飯にぶっかけて掻き込む。あとジャガイモの味噌汁。CDでずっと昨日のシネマスタアコレクションを聞く。こないだの平成オタク談義でも山本さんとかと話したが、“主題歌が主題歌だった時代”はよかったなあ。番組中の特殊な設定をベースにしたものだから、歌詞の中の語がきちんと明確なベクトルを持っていて、番組の顔としての役割をきちんと果たしていた。ひとり歩きする歌謡曲としても売ろうとして、中途半端なイメージソングばかり流すようになってからドラマやア ニメは奇妙にふやけた感じになってしまっていくのである。

 12時半あたりになんとか原稿、書き出して、1時半くらいから調子出始め、3時半までには10枚、仕上げられた。K子とYくんにメール。途中、光文社から電話。『女性自身』からトリビアがらみのインタビュー依頼。担当の人はと学会のファンでもあるという。光文社にはと学会ファンが多い。ファンでなかったのが、光文社(週刊宝石)で連載したときの担当者だけだったというのが何とも。トリビアがらみのインタビューと言えば、『噂の真相』から鶴岡のところに依頼があったそうだ。私がらみの裏ネタを仕入れようという魂胆か。“出演者のアイドル全員に手をつけている、 とか言っておくように”と電話で命令しておいたが、さて。

 その『トリビアの泉』のディレクターKさんに番組内の用件でメール。いろいろと雑用しているうちに時間が差し迫ってきたので、雨の中、出てタクシーで新宿。ピカデリー1で『キル・ビル』鑑賞。7時20分からの最終回だったが、客席は5分の入り。なかなか凄い。こういう映画はこういう風にしながら観ないと、という強迫観念もあって、ポプコーンとコーラを手にして客席へ。冒頭でショウ・ブラザースのタイトルが出るあたりでポプコーンを気管に吸い込みそうになってしまった。危ない危ない。で、タイトルバックにちゃんと主題歌(フランク・シナトラの娘ナンシーが歌う『バン・バン』)が流れるのに嬉しくなった。いや、もとは幼馴染みの彼との失恋の歌で、ハートが子供の頃のピストルごっこでバン・バンと撃たれたみたいにブレイクしちゃった、という歌なのだけれど、それを実際にバン・バンされちゃった主人公の身の上にかぶせちまうというのはシャレが効いてるというよりアホらしくて素晴らしい。これは、ついさっきこの日記に記した“中途半端なイメージソングを流す今の映画やテレビ”への皮肉みたいに見えてしまうのだが、違うか。なにせ、エンディングテーマが“怨み節”フルバージョンなわけだし。

 内容については一々語っているとキリがない映画なので省略。大満足だったが、一点、四年間の昏睡からユマ・サーマンが目覚めて、自分の頭蓋が金属製になっていることを知って驚愕するシーン、てっきりラストのルーシー・リューとの決闘の伏線に なってると思ったのだが、違った。使わないのは勿体ないような。

 ……しかし、なんか町山智洋と中野貴雄が石油成金か何かになって、金出して、自分のためだけのプライベート・ムービー作らせたらこんな風な作品になるのだろう、という映画であった。と、言うか、この二人以外に、日本で完璧にこの映画楽しめる人がどれだけいるのか、疑問。『エヴァ』のときに、下敷きになっているアニメ文化や特撮文化をまったく知らないままにリスペクトしていた人がいて、“それでホントに面白いのか、キミ?”と問いただしたくなったことがあったが、いま、この同じ館内にいるオシャレなカップルたちは、いったいこの映画の何パーセントを楽しめているのだろうか? いや、もちろん、全然観てなくても、テンポや映像センス、語り口の見事さ(特に時系列の並べなおし方)に酔ったまま、2時間をアッと言う間に過ごせることは確かなのだが、少なくとも“GOGO夕張”という栗山千明の役のネーミングの由来を“わかって観る”のと“わからないで観る”のとでは(あるいはまた、いかにもミニチュアで撮った東京の上空を、いかにもミニチュアで撮った飛行機が飛んでくるシーンの由来を、わかって観るのとわからないで観るのとでは)、映画の解釈が全然違ってきてしまうであろう。とにかく、パンフに記されている元ネタを半分以上知らない、という人は、この映画について“語っては”あぶない。

 昔はこういう日本描写のアメリカ映画が来ると必ず“国辱”とか言って憤慨する人とかがいたものだが、『ブレードランナー』以降、日本人は日本が出てきても、変なニッポン描写でないと逆につまらん、と文句をタレるまでになった。『ライジング・サン』など、アメリカ人の方が“こんな映画を見せたら日本人の反米運動が巻き起こる”と心配していた程だったが、日本人がスクリーン上のヘンテコなニッポンを観て大笑いし、拍手しているのを見て、首をひねっていたらしい。今の日本自体に、日本を感じられる要素が凄まじいイキオイで激減していっていることに、日本人はみな、心の底で欲求不満を感じているのだ。洋画の中の、ヘンテコに誇張された日本は、むしろヘンテコであるが故に、濃縮された日本らしさをこちらに感じさせてくれる。

 9時半、映画館を出て、タクシーで下北沢。『虎の子』へ。本日、“魔の”火曜日だが、こないだとは大違いで満席。自家製のサンマ燻製を出してくれたが、これが燻製の香りが強くて抜群の出来。K子は“燻しすぎ”と評したが。あと、つきだしで出た、はんぺんのポテトサラダ風が酒に非常に会う。

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