裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

2日

木曜日

ヘブライニッポン

 六芒籠目を寂しく撫でて酒井勝軍苦笑い(日ユ同祖論)。朝、寝床で江戸時代の随筆集に目を通す。来年出る予定の本の資料なのだが、それに使うのとは関係ない部分で、ちょっと“へぇ”な記述を見つけた。まったく実生活で役に立たぬ知識という点では純正なトリビアだと思うのだが、一般性もない。
「天皇の諡号にはその威徳にちなんでつけられる“御徳号”(仁徳とか、聖武とか、武烈とか)と、在所にちなんでつけられる“御在所号”(醍醐とか、深町とか、小松とか)があるが、“後〜”とつけるのは御在所号にだけであり、御徳号につけてはいけない」(松井羅州『它山石』)
 ほう、と思い、枕元にあった歴史書にちょうど歴代天皇名が列記してあったので、ちょっと確認してみた。なるほど、後醍醐をはじめ、後冷泉、後三条、後白河、みな在所号ばかりである。後神武天皇なんてのはいない。もっとも、威徳号は平安時代以降、ほとんど用いられなくなるのだが(ゴ・ジン・ジェム大統領というのがいたが、あれはジン・ジェム大統領の後で後ジン・ジェムか、とかいうヨタも思いついた)。

 なにげなく覚えていた天皇の号に、こんな法則があったとは知らなかった。で、歴代天皇の号をずっと読んでいたら、“後西天皇(ごさいてんのう)”という天皇がいることに気がついた。第111代の天皇である。後の字を号につけるのは、先皇にゆかりがあったり、またはその徳を慕ったりした場合であるから、この場合“西天皇”という天皇がいなければならぬことになるが、そんなのは聞いたことがない。で、起きだしてネットでちょっと調べたら、これは元は“後西院天皇”というのが正式な号なのであった。天皇の住居のことを“院”というが、淳和天皇(53代)の住んでいたところを“西院”といい、淳和は御徳号なので後をつけられないため、その院名をとって、それに後の字を添えたのであろう。在所号の天皇は院名で呼ばれるのが慣例であったために、“後鳥羽院”とか“嵯峨院”とかいう追号が以前には正規の諡号であった。ところが大正13年、宮内省の“御歴代史実考査委員会”というところが、天皇の尊号を統一することを規定して、歴代天皇は全て“〜天皇”と呼ぶべし、“〜院”とは呼ぶべからず、と定めたので、それまでの院号は全て廃止され、一律に“〜天皇”という風に呼ぶようになり、院号は『崇徳院』などという落語のタイトルに残るのみとなった。……で、このときに宮内省の係員は律儀にも、正式な院号でもなんでもない、後西院の院まで取り外してしまい、“後西天皇”という、ちょっと規格外な天皇が出来てしまったわけなのであった。……御徳号、御在所号などという言葉を覚えたところから、思わぬ歴史の勉強をしてしまったことである。

 7時半起床。朝食はピーナッツスプラウトと枝豆。服薬、入浴、洗顔歯磨等如例。午前中はメールチェックやなんだかんだ雑用でつぶれる。資料庫の中にないものをリストアップしてネット書店で注文するのも午前中の日課である。この日記を本にまとめるとき、最初の頃の本買いが一度に三万とか五万とかいう記述が多出して自分でも驚いたが、その後資料本はネット購入が主になったため、基本的な本代はそれほど変 化していないように思う。

 マンションの管理会社の人来、先日からの水漏れの件の説明。上の階の排水管の接合部が破損していた由。そこは取り替えたが、まだコンクリの上に溜まっている水が漏れてくる可能性があり、一週間ほど様子見をさせてくれとのこと也。『仄暗い水の 底から』という映画を思い出す。あんな上品なものじゃないが。

 2時、東武ホテルで朝日新聞学芸部I氏と待ち合わせ、時間割に移動して取材を受ける。……つもりが、時間割に行ったら、ゆまに書房のTさんが既にいた。バッティングである。いや、ゆまにさんとは仮の時間押さえのつもりで、取消とも決定とも、こちらからは伝えてなかったのであった。うひゃあ、と思い、平身低頭、改めてということでTさんにはお引き取りを願う。最近こういうミスが目立つ。いよいよ秘書が 必要か?

 で、気を取り直してインタビュー受ける。昨今の、アニメやマンガの実写映画化のブームに対し、“否定的な見地から”意見を述べてほしい、という依頼である(もちろん、記事自体は中立で、私は否定派として意見を求められているのである)。私の基本的意見については、この日記を読んで知ったのだそうである。“朝日新聞社にもこの日記の読者っているんですか”と訊いたら、“同じ部署でも他にも何人も読んで います”とのこと。あまり朝日の人のウワサなどは書けないか?

 ともあれ、1時間半ほど、いろいろなことをしゃべる。どこまで記事に反映されるかわからないので、記事が出来てきてから、載りはぐれた部分を補って、私の基本的な意見は書き付けておこう。ただ、否定的意見の持ち主といっても、それはアニメやマンガの映画化自体を否定しているわけではない。また、映画の出来ウンヌンでもない。映画という文化を愛する故に、オリジナルの企画が通らない現状を憂いているの である。Iさんは面白がって笑いながら聴いてくれていた。

 帰宅、すぐTさんにお詫びのメール。あと、某MLで話題になっている人物に対する書き込み。ネットマンガの試し原作など原稿をチョコチョコ。すぐ6時になる。半に新宿に出て、K子と待ち合わせて、小田急線で町田まで(35分)。改札で虎の子の萩原夫妻と待ち合わせ、以前に行った焼肉屋『明花(ミョンファ)』へ。前回はレバ刺しと冷麺が切れていて食べられなかったので、そのリベンジである。町田駅前からタクシーで団地街へ、その真ん中にある、外見からはとても焼肉屋とはわからない店。

 ジャイアンとその友人の人も来て、総勢6人でいや、食った食った。最近、食が魚中心になっていたせいであろうか、肉のアナンダマイド(快楽物質)を舌や歯や胃袋が求めている、といった感じ。生ビールに真露キュウリ割を脇に置いて、タン塩、レバ刺し、カルビ、ホルモン、ミノ、豚トロ、焼いては食い食らっては焼き。虎の子夫妻は何かに取り憑かれたような状態になっていた。脇皿としてとった豚足、牛すじ煮込み、センマイ刺し、どれも怪絶たる旨味。ことにセンマイ刺しは、K子が“ナマはイヤ”というので、“大丈夫、一旦湯通ししてあるから”と言ったら、明花のママが“ウチのはナマよ!”と。ナマでこんなにクセがなく、柔らかいのか。どういう牛なのであろう。最後に念願の冷麺。昔ながらの太麺でうれしいが、ジャイアンさんが裏メニューでとったネギの辛味噌和えがうまくてうまくて、ああ、これでゴハンをかき こみたかったな、という思いが最後まであった。

 最中に談之助さんから携帯に電話、悲しいお知らせで、明後日の長野の花火、長野と言えばという楽しみのひとつであった鯉料理屋が、ちょうど身内に不幸があったとやらで休みで、食べられなくなったという話。無念残念、こっちもシーズン中にもう 一度、何かの雑誌の取材にでもかこつけて、リベンジにいかないといけない。

 11時過ぎまで食い続け、電車で帰宅。キミさんとK子はこれからまた、こないだの二丁目の店に踊りに行くというので、私は表参道で降りてタクシー拾って帰る。快楽物質の受容度が彼女らは私の数倍、あるんであろう。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa