裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

28日

水曜日

目からひろこが落ちる

 あっ、この『カラオケ一番』の司会やってる朝川ひろこって、アニソン歌手の、あの……。朝7時半起き。朝食、ミートコロッケトースト、紅玉リンゴ。日記つけ、K子用のマンガ原作、書き上げる。新刊打ち合わせの電話などなど。

“午前中に送ります”と電話で言った福音館書店原稿、二時になってやっと二本、書いて送る。外に出て、ソバ屋で昼食。かつ重を食ったら、胸が悪くなった。“日教組 撃滅!”とか大書された右翼の街宣車が、魔法少女もののテープをかけて通り過ぎて いく。春休みの子供たちが大喜びしていた。伊福部マーチとかガンダムは以前に聞いたことあるが、少女ものは初めて見た。

 私は“モノカキは人と違ったこと考えてナンボ”“世間が白と言えば黒と言おう”と常々考えている人間だが、その私でも、今回の安倍英被告無罪判決にはちょっとオドロいた。医学裁判が一般にはわかりにくい、ということは『白い巨塔』の時代から言われていることで、“ほっほー、ありゃ本当のことだったんだねえ”と、判決要旨を読んで思う。この有罪が認められてしまうと、ソウカってんで訴えられそうな医学関係者がいっぱいいて、ヤバいんだろうねえ。

 明治屋のPR小冊子『嗜好』、私はこれに載ってる明治時代のバックナンバー(ホントに明治に出来たから明治屋ってんだよ)の記事が好きで読んでるのだが、こないだ読んだ558号に、文筆家の大竹昭子という人がエッセイ(これは新作)を書いていた。タイトルが『屋根裏の死神博士』。何やらあぶないタイトルだが、要するに筆者夫婦はネズミのことを“死神博士”と呼んでいるらしい。ナゼカというと筆者の同居人(私は夫のことをこう呼ぶヤツが大嫌いだ)が、裏道でネズミに襲いかかってこられたことがあるそうで、その事件のことを彼女に語って聞かせた夫は、そのネズミの恐ろしさを“まるで死神博士みたいだった”と表現したらしい。
「死神博士とは天本英世が演じる仮面ライダーのキャラクターである。頬のこけた風貌や、いきなり飛びかかってくる大胆不敵さが、死神博士を連想させたのだった」
 と彼女は書いている。うーん、飛びかかってくるというのは、死神博士とちょっと違うと思うが(笑)。

 6時、青山へ出て、青山劇場前で開田夫妻と、横手美智子さんと待ち合わせ。岡本太郎作の像の前で待ち合わせ、と今朝、開田さんに言ったのだが、“岡本一平作の”と言ってしまったらしい。“いかにもカラサワさんらしい間違い方だなあ”と言われる。劇団新感線『野獣郎見参』。ヤジュウロウというとどうしても落語マニアは『盃の殿様』の“やじゅさんは情けを知らぬにくいひとざます”を連想しちゃう。

 あの広い青山劇場が隅の方までイッパイ。隅の方の席は舞台設計上、見にくいというのでチケットを売ってなかったらしいが、そこも条件を了解の上で売り出したらしい。人気ますます、という感じ。ただし、女性客の割合がどんどん増えている。トイレがここも日本の大多数の劇場の通例で少なすぎるので行列をなしているのだが、男性用はガラガラ。これは危険な徴候ではあるまいか。あと劇場が豪華になるにつれ、貧乏人(若い学生)が来られなくなるのがキツい。チケットS席8400エン、パンフ2500エン。ロビーのグッズ売り場の前で、若いカップルが「パンフ欲しいー」 「うううー、CD一枚ぶんかぁ」と、躊躇煩悶していた。

 その高いパンフの冒頭で、脚本の中島かずき氏が書いた文章によれば、『野獣郎見参』はかなり氏の思い入れの強い作品らしい(初演は1996年)。なるほど、見終わっての感想であるが、中島流作劇術の真髄ここにアリ、という、複雑な設定・錯綜する人間関係・二転三転のストーリィ展開等の要素がぎっしり詰まった、見ているこちらをアットウするワイドスクリーンバロック。アレヨアレヨという間に二時間が過ぎていくジェットコースター的快感は、一種の中毒になるだろう。見終わったあと、分厚いステーキに満腹したような充足感を味わった。

 とはいえ、演出のいのうえかずのり氏がパンフの挨拶の中で強調しすぎるほどしていた“商業演劇”の、悪い部分をもかなり、この舞台は背負ってしまっているのではないかと感じた。つまり登場人物たちが、その複雑なストーリィを消化することに手一杯で、キャラクターをそれ以上のものにバケさせていないのである。見る方に、演じ手を超えての存在として伝わってこない(例えばコマ劇場の芝居において、細川たかしの演じる役が大岡越前であれ鞍馬天狗であれ、細川たかし以外の何ものでもないように)のだなあ。中でも主役の野獣郎が、演じた堤真一が、さすがJAC出身というすさまじいまでのアクションの冴えを見せたにも関わらず、さっぱり話を引っ張っていかないのには、見ていて地団駄を踏みたくなるほどの歯がゆさを感じる。

 なにしろタイトルロールなのだ。ポスターにも、劇場の幕にもバカでかく彼の顔が印刷されているのだ。他のキャラクター全てをカスませても、野獣郎という主人公を目立たせなくてはいけない舞台であるべきなのだ。それが、新感線特有の濃いキャラ大勢の中の一人、になってしまっている。“男は殺す、女は犯す、他人にきびしく、自分に甘く”とうそぶく、本来ヒーローが持っているべき美徳全てを裏返したというユニークな(なをきの『BRAIKEN』読んでないか?)キャラクターがさっぱり生きていない。晴明がどうの、物怪がこうのという設定とストーリィの中に埋もれてしまい、その結果、舞台に緊張感がどうしても欠ける。きちんと完璧に作られた、本来コイツさえ現れなければ予定調和的に美しく(単純に)成り立つはずだったはずの話の流れが、異物としての主人公の登場でメチャクチャになり、それを防いでストーリィを本筋に戻そうとする他のキャラとの対立が、映画であれ舞台であれ、客にその展開から目を離せなくさせる基本であるはずだ(黒沢の『椿三十郎』が代表例)。今回の舞台は、主人公までが、そのストーリィに翻弄されて終わっている。バラエティ的傑作であっても、演劇的傑作とは残念ながら言い兼ねる。そんな気がした。

 あとで逆木圭一郎さんに聞いたら、なにしろ一ヶ月しか仕込み期間がなく、最終的な演出がなされたのが初演の前日、という劣悪な状況だったそうだが、その中でよくもまあ、これだけの出来になったなあ、と、そこには感服する。特筆はヒロインの美泥を演じた高橋由美子。あの小さい体で、しかもアクションは初体験ということで、声は通るはチャンバラは堂に入ってるは。彼女を見られただけでも価値のある舞台であったとはいえよう。前田美波里も松井誠も最高。とはいえ(今回はトハイエが多いなあ)、ゲストがたくさんいるということは、肝心の新感線メンバーがワキに廻されるということで、そこで消化不良を感じる古くからのファンも大勢いるだろう。ストレートな商業演劇を見ると、そこらへんのキャスティングはさすがにうまい。そういうところも吸収勉強してほしいモノダ、と思ってしまった。

 ハネ後、逆木さんと粟根まことさんと一緒に飲みましょう、ということだったが、粟根さんがノドを少しやっており、アルコールは控えたいということ。これは残念。『キッチュの花園』のみ進呈する。粟根さんは足もくじいて氷で冷やしており、痛々しかった。何でも初日からそうたってないときにやったそうで、その状態であれだけのアクションをするのか、と仰天した。で、逆木さんと飲みに行く。K子も合流し、開田夫妻、横手さん、それから開田さんの知人でゴジラ映画の水中シーンなどのCGを担当している女性(こういう美人がゴジラのCGを、と思うと、時代の流れを感じてちょっとうるうるしちゃうね)、と、総勢七人。青山は私のテリトリーということで、以前K子と行った小体な居酒屋『花ごころ』を予約する。ホントはこないだ出来たユニークなレトロ酒場『日之出食堂』に連れてきたかったのだが、芝居のハネた後ではすぐ、ラストオーダーとくる。日本は本当に、芝居を見たあと落ち着いて飲めるところが少ない。『花ごころ』は三時までやってる。逆木さんからいろんな話をうかがい、役者って大変だなあ、とつくづく感じる。12時まで、なにかやたら楽しかった記憶はあるが、酒がかなり入っていて、あまり覚えてない。八海山と、アジのなめろうがうまかった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa