裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

21日

火曜日

奉天の寅さん

「俺もついに満州まで流れてきちまったか」(車寅次郎・談)

※『創』対談チェック 吉祥寺シアター『桜の園』鑑賞

夢で原子力発電所で演芸会をプロデュース。
会場の下見に行ったら、敷地の一部に盆栽だとか、カナリヤの籠だとか
いろいろ置いてある一角がある。何かと訊いたら
「反対派の人たちが置いていくんです。絶対放射能の影響が
あるはずだから、その証拠にするって」
という。それを聞いて噺家たちが大笑いするというもの。

9時起床。
寝汗が上半身も下半身もぐっしょり。
体調不全、そのせいで終日悶々。
なまじやたらな健康体質であるが故に、体調が不全な日は何もかも
ダメ、という風に思い込んでしまう。

入浴し、『創』対談ゲラチェック。同人誌対談チェック。
この二つで体力使い果たし、ベッドに寝転がってしまう。
阿川弘之『わが青春の記憶』など読む。そうか、『軍艦長門の生涯』
は産経新聞で司馬遼太郎の『坂の上の雲』の後を継いだ連載小説だった
のかと知る。『坂の上の雲』連載終了は昭和47年。日本の新聞小説
にとって凄い時代だったわけだ。

昼は塩シャケと茄子の味噌炒め弁当。
大阪行きのスケジュールとか、飲み会のスケジュールとか
次々決まるが、気分乗らず。ため息ばかり。
高橋睦郎『遊ぶ日本』(集英社)読むが、日本における古代の
神と人との心情豊かな交流、ということを前提に話が進んで
いるので、いまいちピンと来ず。日本神話の時代のイメージというものを
われわれは戦前の歴史絵本などからユートピアみたいに
思い込んでいるが、現実の記紀時代の日本人の生活というのは
絶対そんなに神遊び、人遊ぶというような悠長なものでは
なかったと思うのである。

ぐだぐだと日中を無駄に過ごし、6時半ころ家を出る。
中野まで行き、中央線で吉祥寺。
吉祥寺シアターで、京都の岩澤侑生子ちゃんの出演する舞台
『桜の園』を見る。吉田秋生の『櫻の園』ではなく、
チェホフの『桜の園』である。

『桜の園』は大好きな芝居で、最初に見たのはNHKの『芸術劇場』
において、文学座の公演。いま、調べてみると1983年の放送と
ある。25年前か。ラネーフスカヤ夫人が杉村春子、ガーエフが
小澤栄太郎、ロパーヒンが江守徹、アーニャが篠倉伸子だったと
記憶する。トロフィーモフはちょっと記憶が定かでない。
NHKアーカイブスにビデオが残っているそうで、その出演者で
見てみると竹下佳男か、高原駿雄か。見られたらもう一度見て
みたいものだ。記憶では杉村春子のラネーフスカヤ夫人はちょっと
貫録がありすぎて、乱費癖があり、惚れた男につい金を貢いでしまう
恋多き女性には見えにくく、その分、かつて農奴として仕えた
桜の園を自分のものにした興奮でしゃべりまくるロパーヒンの
江守と、氷砂糖のドロップをしょっちゅう舐めている、
名門の末裔で、頭はいいし趣味人だが生活能力はまったくないガーエフの
小澤が印象にしっかり残っている。

今回は登場人物もセットもぎりぎりまで刈り込んで、
小劇場演劇として『桜の園』の現代での上演形式を模索した、
という感じの舞台。開場は開演30分前だが、すでに舞台には
全登場人物(ラネーフスカヤ、ガーエフ、ワーリャ、アーニャ、
トロフィーモフ、ロパーヒン。召使いたち、ことに原作で最後の
シーンを締めくくる老僕フィールス〜さっきの文学座では三津田健
が演じて印象的〜などは出てこない)が、パントマイムの人形の
ようにじっと固まったまま存在している。

やがて開演になり、芝居が始まるが、中央にいるラネーフスカヤ
夫人とガーエフ、ワーリャ、アーニャは芝居の最中まったく
動かず、セリフを語るのみ。それも、棒読みだったり、変な
アクセントをつけたり。

舞台三方は木製のベンチのようなもので囲われ、床には一円玉の
ようなコインが敷きつめられている。トロフィーモフはベンチの上を
いったりきたりするだけで、この床に足を降ろすのはロパーヒンのみ。
つまり、この床は金が支配する“現実”というものの象徴であり、夫人を
はじめとする一家はただ、過去のよき時代の追憶という幻想の中に生きて
いるだけ現実とは無関係に生きる存在であることを象徴している。

では、まったく『桜の園』を改変してしまった作品かというと、
原作の重要なセリフはきちんと残しているし、ロパーヒン役の
小林洋平が、桜の園の競売が終って興奮して歩き回るシーンは、
江守徹の演技がその背後に連想されたほどだった。
近代戯曲の原点となった100年前の作品と、現代演劇の見事な
クロスオーバーという感じがした。氷砂糖を舐めるシーンもないのに
ガーエフが“世間じゃ私が全財産を氷砂糖でしゃぶりつくしたと
言っている”という有名なセリフを言うのはちょっと引っかかったが。

侑生子ちゃんのアーニャはまさに適役、何も知らないお嬢さんから
最後は独立して働き、お母様を養ってあげるわ、と未来へ希望を
つなぐ役割を果たす娘を、徹底したツクリモノの台詞廻しの中で
演じ切っていた。動き回り、大きく感情を表す芝居ならどれほど
楽だったろう、と思うところだが。

この舞台装置の凄いところは、上手にも下手にもハケ口がない、
ということ。先に書いた通り、入場のときにはすでに全員が舞台上に
おり、芝居が終ると、全員が舞台に腰かけ、お客がハケるのを
待っている。
外でちょっと待って、彼女に挨拶。
明後日、京都に帰る前にどこかで食事でも、と打ち合わせる。

中央線で荻窪まで出て、そこからタクシー。中野まで乗れば
いいのだが、客待ちしているタクシーでワンメーターで乗るのが
どうも気の毒でできないのだ。金もないのに、ここらへん、
私にもラネーフスカヤ夫人的なところがある。

とにかく、今日は舞台を観てよかった。
励まされたというか癒されたというか気分をチェンジ出来たと
いうか、それまでの鬱々悶々が嘘のように晴れ、
サントクで買い物し、古いチャンバラ映画など見つつ、
餡かけ豆腐、小茄子浅漬け、カツオ漬け飯など。
ホッピー四ハイ飲んで、御機嫌で1時就寝。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa