裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

1日

水曜日

トリビアンコントロール

 雑学者が世界を動かすのだ。朝3時(まだ夜中3時と書いた方が正確か)、猫の変な鳴き声で目を覚ます。エサが欲しいのかと思ってカンヅメをあけたが、まだ鳴いてる。どうも変則の発情期らしい。16歳というと人間ならとうに90を過ぎているわけだが、このトシになってまだ発情するとはすごいというか。本来の発情期前に子宮を取ってしまっているので、逆に衰えないらしい。この猫はその生涯で、自分の同類にはほとんど顔をあわせていない。自分が猫であることもたぶん認識していないだろう。誰に向かって恋を歌っているのだろうか。布団の中でその、人間の赤ん坊のようなうめき声をじっと聞く。
「うらやまし 思い切るとき 猫の恋」(越人)

 6時45分起床、入浴、朝食。カキ、リンゴ、ブドウ。少しネットで原稿の資料など探し、またミクシィに日記メモ書き込んでいたので出るのが遅れ、タクシーで渋谷へ。スケジュールなど確認。昨日、日テレ『世界一受けたい授業』からまた出演依頼がきた。視聴率がかなりよく、しかも私の出演時でハネ上がったと向こうが興奮していた。私がよかったからじゃなく、あの回のメンツ中、一番おとなしめの授業だったからではないかと思う。本人評価としては、全体的にあの回の私は低調だった。ただこの番組、さすがプライムタイム、という出演料なので、ローンの虜囚としては、こ こからのお声掛かりが定期的にあるのは歓迎である。

 もういいかげんにどうにも切羽詰まってひどいことに、というアスペクト『社会派くんがゆく!』コラム、ばりばりと書く。11時半に2つ、12時9分にまた2つ、さらに2時3分に2つと好調(かどうだかわからないが)送っていき、3時35分に最後の2本を送って、やっと片づける。毎度々々書いていることだが、書き出してしまえばなんのこともないのである。とはいえ、なんのこともない原稿ほど、書き出す までのテンションに自分を持っていくのが苦労なのである。

 その原稿書いている間に、植木不等式氏に豚の丸焼きを注文する方法を問い合わせたり、昼飯(おにぎりと納豆)をとったり、FRIDAYのTさんと、打ち合わせの日取りを決めたりといろいろ。そろそろ専属マネージャーが必要か。『社会派くんがゆく!』はあとがきをあと入れれば完成だが、そこで時間と体力切れ。

 6時、新宿厚生年金会館にて、『ゴジラFINAL WARS』試写を見る。のざわよしのりくんが手配してくれたもの。開演30分前に来たら、もうすでに劇場の前は長蛇の列。ぞろぞろと歩いて入る。なんとか中央の、関係者席の近くのところを確保できた。だが、その関係者席につく人を見ると、みなマスミ向けのプレスシートを持っている。私が持っていた試写状はマスコミ向けのものだったので、本来はこの関係者席に座れてプレスも貰えたハズなのだが、間違えて一般入場してしまったのだった。とはいえ、いまさら言って貰ってくるのも業腹なので、一般向けのチラシのみで我慢する。後から後から続々と客詰めかけ、今日は一階席のみの解放だが、それでも1186席がほぼ満席状態となる。

 この映画、試写を観たディープなゴジラ映画ファンからいろいろ言われていることは知っていた。開田裕治さんも、褒めてはいるのだがどこか奥歯にモノのはさまった言い方だったし、ネットではふざけるな、という意見も多いらしい。まあ、どんなひどい出来であっても、私はもう『デビルマン』を観てしまった後だし、そうショックはあるまい、と思いつつ、試写の始まるのを待つ。関係者席には中野昭慶監督のお姿があったので挨拶。後で気がついたが、中島春雄さんもいらした。私も業界関係人数 人に挨拶される。

 感心に、変なショーもなくすぐ試写に入り、さて、観賞二時間。ラストシーンで、満員の場内から盛大な拍手がわく。もちろん、私もそれに和していた。平成ゴジラに拍手したのは初めての経験ではなかったか。いやあ、結構結構。このオマツリ感覚、この大盤振る舞い、このバカさ加減。これこそ怪獣映画、これこそ特撮映画だ。私は“ゴジラ映画イベント説”論者なので、それが証明できたという感じで、非常にハッピーな気分になった。

 もちろん、マニアたちが何故、これを観て腹を立てるかも十二分に理解できる。しかし、その怒りはこれを普通のゴジラ映画だと思うことによるのではないか。これは映画じゃない。夏冬の休みのイベントだ。これは平成に甦った“東宝チャンピオン祭り”なのである。そう思えば大満足、まことに結構な子供たちへのプレゼントだ。そういう意味では、冒頭の“田中、円谷、本多、に捧ぐ”という献辞は不適切である。どうして福田監督の名がないのか。ガイガンもカマキラスもキングシーサー(新しいヌイグルミは気色悪くてすごい)もエビラも、みんな福田純が監督したゴジラ映画の 出演怪獣ではないか。思いを捧げる相手が間違っているのである。

 ドラマ部分は確かにひどい。ドラマ性がどうこういう前にツジツマがあわぬというレベルである。しかし、ここは居眠りしていればいいんではないか。どうせ怪獣の鳴き声でオタクはすぐ目を覚ます。私自身はまあ、居眠りはせずに見ていたが、なんだか、デコッ八が美少年になったようなジャニーズとコロッケが宇宙船の中でマトリックスもどきのカンフーをやっていた。なんで超能力持っていながら蹴り合いしてなけ りゃ ならんのか。

 あのコロッケ(じゃないの?)の演技を怪演とか評価する人がいるが、ありゃ単なる悪ふざけの過ぎたオーバーアクトであって、怪演なんてもんじゃない。“怪”演というからにはもっと存在感というか重みというかがなきゃいけない。コントの演技を怪演、怪優などと言っては天本英世や土屋嘉男に失礼だ。宝田明と水野久美、水野真紀とドン・フライ(吹き替えというところが最高)、あの二組だけ残しておきゃそれ でいい。で、泉谷しげるがそこにからむ、ト。

 ところで、観ていてのこの妙な安心感は、これでもう“来年もゴジラ映画は果たしてあるんだろうか”というハラハラを味あわなくていい、というそのせいだろう。毎年々々、いくら怪獣ファンとはいえこんなもん観なくちゃいかんのか、という情けない思いで“来年こそは”というかすかな希望と“しかし、来年があるか”という心配に引き裂かれていた身にとっては、なにか決まるものが決まったという安堵でとにもかくにも、ゆったりした気分で観られるのである。なに、どうせ数年待ちゃ復活する んだから心配ない。

 一旦仕事場に帰りミクシィにこの映画の感想を書き込み、それからバスで帰宅、家で飯を食い、たまっているDVD類など見つつまた酒を飲んで寝る。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa