裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

7日

金曜日

汎神論でパンパンパン

 一切万有は神であり、神と世界とは同一であり、胃腸も肝臓もいい感じである。朝7時45分起床。寝床で安達瑶『聖奴』(徳間文庫)読む。官能伝奇というのは考えるより書くのが難しい。伝奇(SF)部分を好む読者は常に新奇を好み、官能部分を目当てのファンはお約束を求めるからだ。相反するものを一つの小説の中に盛り込まねばならない(書くときのテンションを保ちながら)。そこらへんをクリアするのに安達さんの合作方式というのは非常に有利な形なのかもしれない。とはいえ、今日は伝奇小説読者モードであり、官能部分はつい、読み飛ばしてしまう。巻末の書籍広告に並ぶ同じ著者名の羅列に少しクラクラする。阿部牧郎が67冊、大下英治35冊、宇能鴻一郎17冊。しかも阿部牧郎は上下巻のものが4つもある。別に彼らは徳間書店専属ではない。たぶん他の出版社でも同じくらい出しているのである。バルザックであろうとデュマであろうと、この著作数(数に限れば)を見れば裸足で逃げ出すことならん。

 朝食、トウモロコシ半本、金時イモ二切れ。黄ニラスープ。汗ぐっしょり。果物はブドウ。日記つけ、午前中かかってフィギュア王原稿11枚、やっつけた。今週はとにかく体にエンジンかからず、週末ギリギリになってやっとアクセルがふかせたという感じ。いらつき、歯がみし、地団駄踏んでも、肉体が動かなければ一行も書けないのである。所詮作家は体力なのだ。上記の作家さんたちは、たぶん肉体調整が非常に巧みなのであろうと思う。

 K子に平塚くんに渡す図版資料を手渡すのを忘れた。仕事場に電話して、受け渡しついでに昼飯を食おうと誘う。ひさしぶりに『九州』へ行き、彼女は長崎皿うどん、私はショウガ焼き定食。焼魚にしたかったが今日は塩ジャケだそうで、あまりパッとしない。九州らしい、甘ったるい味付けのショウガ焼き。別れた帰りにパルコブックセンター。

 家に帰り、クルー原稿ネタ探し。カストリ雑誌十数冊寝床に持ち込んで読みふけるが、ネタは拾えず、つい読みふけって時間のみつぶし、しまいにグーと寝てしまう。読んでいたのは高野よしてる(あの『13号発進せよ』の)が編集長をしていた『怪奇雑誌』。高野よしてるインタビューが『あかまつ』に載っていて、私にはまことに興味深かったが、『あかまつ』はあまりにマニアックすぎ、独りよがりという感じで世間の耳目を集めずに終わってしまった。しかもあれだけのいいネタにツバのみつけた結果を残したのだから罪である(私もタイマンガとか、大きなことは言えないことをいくつもやっているが)。再評価の気運を高めて、一種の文化ムーブメントに持っていくためには、少なくともムードが盛り上がるまではマニアでなく、一般大衆の方に目を向けた紹介方針を取らねばならない。世間に好事家編集者は多いが、文化潮流を創り出すだけのプロデュース能力をもった編集者・著者は少ない。そう言えば『風俗科学』昭和29年6月号には、この『奇抜雑誌』の発行人だった秩父甚次郎の回想録が載っている。『奇抜雑誌』『怪奇雑誌』が売れたので、いつまでもエロでもあるまいと思い、その金でマルクス主義研究の本を出そうとして挫折、中間をとって芸能雑誌を初めて大損をして、結果エロ雑誌までつぶれてしまったとか。他人事ではない 人も多い筈である。

 文藝春秋社からメール。昨日、こちらから出したメールへの返事。そろそろ『美少女の逆襲』も文庫にしたいので、版権を引き上げたいがよろしいか、という問い合わせをしたのである。スケベ心で、行外に“文春文庫でもし出していただけるなら御社を優先させていただきますが”みたいなことをチラつかせたつもりだったのだが見事にフラれ、“どうぞ他社でお出しください”と言われてしまった。苦笑である。前回『カルトホラー漫画秘宝館』を引き上げるときには“本来ウチで出したいのだが”と言ってきたので、今回はもし言ってきたらそれで、と思っていたのだがうまい具合にはいかぬ。昔、モノカキ志望の若者であったときには文藝春秋社はアコガレの出版社であった。文筆家となったならばあそこから本を出したいものだ、と思っていて、事実、何回か仕事もしたのだが、どうも波長が合わぬというか、『コミックビンゴ』といいネスコの仕事といい、ウマのあう編集者に恵まれなかったり連載の企画が固まったとたんに雑誌が消滅したりして、いい思い出があまりない。まあ、いつかまた、を期待して、無理はしないことだと思う。波長の合わぬ相手と無理にデートしようとしてもダメで、相手とこっちのリズムがシンクロするのを気長に待つしかない。

 6時、ギリギリでクルー一本アゲ、新宿ロフトプラスワン『異端・立川流が語る/落語界に明日はあるか? 緊急提言2』。ドンキホーテのところを歩いていたら鶴岡に出会った。並ぼうとしたらマニアックな連中が芸論を闘わせていたので、怖くなって出てきた、という。楽屋で雑談。OTCのNくん来る。彼と鶴岡の話を聞いていると、鶴岡は完全にテレビ業界人になり切っている。この同調能力は凄いものだとも思い、しかし傍目には軽薄に映らないかと心配にもなる(噺家言葉で言うとオヤカッテヤガルという奴)。場に慣れすぎると慣れが狎れになる。文筆業者の場合、テレビや芸能の世界には、多少違和感を保つくらいがちょうどいいと思うのだが。

 ブラッCがチラシ配りなどに入っているので、入場開始のときにやってきた藤倉珊さんに、ファンクラブ入会を勧める。SFマニアでもあるという彼のファンクラブの名称は『27世紀の爆笑王』。今の若いのの誰がわかる。藤倉さんとブラッC、並ぶとまるで兄弟みたいに見える。口調まで似ている。口の重い藤倉さんと、仮にもしゃべるのが商売の噺家とが同じ口調では困るのではないかと思うが。

 志加吾(元、であり今日はMさん)はサングラスに黒いスーツで例によりビジュアル派。ダンディなのだが、それに節煙用のハッカパイプくわえているのが、何か香港のポン引きのように見える。いや、そっちの方が好ましいが。キウイ(元、であり今日はTさん)、談生も入る。この二人はいくぶん緊張の面もち。談之助、快楽亭はいつも通りマイペース。快楽亭、談之助に“アンタ、浅草キッドの娘が通ってる幼稚園にカメラ持って毎日行ってるってウワサやで”などと話してる。開演前にパンドレッタの志加吾・キウイがゲストの回を流したが、キウイの落語で怒りだしたファンがいたとかで、途中で切る。

 満員にも関わらずザワつかず、一斉に壇上に目が向けられている状態。上がって、今日はいつもと違いダンドリをつけない、どうなるかはここでの展開次第、と宣言してトーク開始。Mさん、Tさんを真ん中にして、今回の破門事件を取り上げる。Mさんの様子はみんな意外に思ったと思う。元気というより、前に増して自信持ったような表情をしている。たぶん、この破門の後に家元が考えて敷いている筋書きが、彼には見えているんじゃないかしらん。むしろ談生の方が表情重く、このことを真摯に真正面から受け止めている。困ったのはTさんで、Mさんも他のメンバーも、要はオマエが今回のガンなのではないか、と見て、それをどう受け止めているのか、それに対し何か策を講じたりせめて今までのことを反省して何か改めようとしているのか、とそのことを期待しているのに、まったく変わらずなのである。一応、殊勝に反省の言葉を吐き、これからも頑張ります、どれくらい時間かかるかわからないけど、答を出そうと思うので見ていてください、と言うのだが、それが極めて多弁に、流暢なだけに、どうしても誠意が感じ取れない。あやまり慣れた人のマニュアルを聞いているような感じがする。Tという個性ならではのオリジナルの言葉がないのである。談生が半ばマジに私に
「すいません、殴っていいですか」
 と許可を求めてきた。

 このTさんの態度や人格、性格が、間違っているとは私は思わない。談之助さんも指摘していたが、これは逆に、いかにも落語家らしい、進歩発展努力の気風のない、いいキャラクターなのである。それがあるから、談志もいままで、彼をクビに出来なかったのだと思う。こういう人がいてよかったのが寄席という世界だったのだ。愛すべき人格である、という思いに変わりはない。だが、問題は彼の所属が(正確にはこのあいだまでの所属が)立川流という、寄席とか落語界のシステムの通らない場である、ということなのだ。確立したシステムに守ってもらうことを期待できない、本来システムの流れに乗れば自分が努力しないでもある程度のところまでは持っていってくれるということを全部自力でやらねばならない、談生のいみじくも表現した、サイボーグとしての人造落語家でなくてはいけないのが、現在の立川流の若手なのだ。その自覚を問われているのである。

 談生の反応は非常に面白かった。T氏を典型的芸人的性格とすれば、談生はこれで噺家か、と呆れるくらいマジメで一本気で情に厚くて間違ったことが嫌いで、他人の愚かさを看過できない優しさを持っているのだろう。芸人にはあまり向かない性格である。それだけに、彼は自分のような噺家の居場所としての立川流を愛しているのではないか。本気でM・Tの二人に不満らしく、不機嫌になり、思いを客にぶつけようとしている。途中、みんなの飲み物が切れたのを注文しようとTさんが立つ。私と談生はそれを引き戻す。アンタ、今日のアンタは前座じゃない、ここに来ているお客さんに、非常に恥ずかしい場ながら、アンタという人間の決意を見せる場だよ、とマジなことを言う。Mさんが、同僚前座たちからTさんへの手紙、というのを(BGM付きで)読み上げた。いずれもまあ、シャレがキツいキツい。それに対するTさんの反応に、客席からもちょっとブーイングが起こる。見たら開田裕治さんだった。

 前半はそこらで終了、と学会グッズなど物販。後半戦はも少し踏み込んで、前回の論点になっていた寄席というシステムの未来と、これからのこと。談之助と談生の、はっきりとした対立というか、根本思想のズレが露わになって、ややスリリングな展開となる。つまりは、談之助の世代にとり、すでに落語は文楽・志ん生・圓生・志ん朝の消滅により、談志の衰退により、終わったものなのである。あとはノスタルジー(ただしクレしん並の過激なるノスタルジーだが)と、その幻影を何とか仮想敵に見立てて疑似抗争を展開していく道をとっていこうという方向性。一方談生の方は、ゼロからの出発だけに、全く若い世代が落語を知らないことが、逆にこれから新しい表現芸術として落語を確立させていけるプラスの点になるんじゃないか、という立場。談之助が“古典がしっかりしていてくれなくちゃ新作はどうにもならない”と発言すると、談生は心外という風に“古典なんか何にも関係ないですよ!”と主張する。私は年齢的にも教養的にも談之助の意見に近い。と、言うか、100パーセント同じである。しかし、それだけに、この談生の空回り気味の暴論が(暴論、と自分で言っているがジャニーズから若手を落語家として引っこ抜け、という発想が他のところで出てこないというのがおかしい)無茶苦茶に魅力的にこちらにぶつかってくる。この二人の立場の差をもっと明確に摘出し、それぞれ他の出演者がどちらを是とするか、客たちはどちらにシンパシーを抱くか、を問うていければ、ひょっとして落語に対し今までなされた討論のうち、最も実のあるものになったんじゃないか、と思う。

 ところがなんとロフト、金曜日ということで深夜イベントを入れている。早く切り上げろ、という紙が回ってくる。確かに金曜は毎度深夜イベントがあるのだが、前以て何もシラされておらず、このまま2時まで、いや、せめて12時近くまで続けて行こうと思ったところだっただけに、機峰を折られたという具合となる。おいおい、そりゃないだろうといささかイキリたつ。今日こそはガチンコである程度の決着つけようともくろんでいたのが、結局、また次回回しか。客も収まらないだろう。瞬間、頭に“このまま客の承認とって続けちゃおうか”という考えが浮かぶ。10年前の私なら絶対そうしていたろう。しかし、ロフトとのしがらみやら何やら、世間のことに流されて、仕方なく11時5分にまたもや宴半ばで、
「これからが面白くなるんだが」
 でお開き。年は取りたくないものだ。3時間半、これまでロフトの壇上で過ごした3時間半で最も短く、また消化不良気味の3時間半であった。談生は明日の仕事があるというので帰る。帰る間際に志加吾の耳元で何かささやき、腹に拳を当ててカツを入れて帰った。“何、話したの?”と訊いたら、“ヒミツです”と。炙り屋での打ち上げのことは明日、書く。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa