裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

20日

水曜日

古い映画をみませんか・19 『第三次世界大戦・四十一時間の恐怖』

日高繁明監督『第三次世界大戦 四十一時間の恐怖』(1960年、第二東映)

東宝の『世界大戦争』(1961)の企画をいただいて、先に公開しちゃえと
第二東映が応急で作ったパチもの映画、という扱いをずっと受けてきた映画
である(監督の日高繁明は、あの『ゴジラの逆襲』の脚本を書いた人物)。
公開こそ見事先駆けたものの、評価に関してはしょせんはパチもの、
月とスッポンという風にずっと受け取られてきた。

なにしろ、相手は世界の円谷特撮によるミサイル戦争や都市破壊のシーンが
見どころであり、クライマックスの国会議事堂崩壊など凄まじい迫力だ。
世界を市場にして外貨を稼ぎまくっていた東宝特撮の面目躍如である。
それに比べてこっちはパチものの悲しさ、特撮シーンも比べ物にならぬ分量で、
製作費がないため、世界が核戦争に突き進んでいく様子は、ほとんどがラジオから
アナウンサーの無機的な声で伝えられるだけなのだ。

これが、映画としてのこの作品の、『世界大戦争』に比べてのどうしようもない
質の差である、とわれわれは思ってきた。

……ところが。公開から半世紀を経て、福島の原発事故を経験したわれわれには、
これが極めてリアリティある描写であることが改めて思い知らされる。
戦争と事故という違いこそあれ、あの事故で被災した人々が何より恐怖を感じたのは、
「情報の少なさ」
であったという。テレビも電話も使えなくなった人々の不安感は予想以上に
大きなものだったようだ。

ある避難民の人へのインタビューで、一番欲しい物資は、と訊かれた男性が、
生活必需品よりもまずテレビを、と答えていた。人間の精神の安定には
何より情報が必要なのだな、という思いを強くした。

原発の事故については言うもさらなりであろう。事故現場に近づくのが
困難なことから、極端な情報不足に国民が陥り、その不安感から、
ネットなどで横行するデマ情報に簡単に乗ってしまっている状況は
現在もなお続いている。

21世紀の時代においてこれである。50年前のこの映画に描かれた
核戦争に対する人々の不安はどれほどのものだったか。黒澤明は
この映画の5年前に、原水爆ノイローゼとなった男を描いた『生きもの
の記録』を撮っている。冷戦は次第に深刻化し、この年(60年)、
東西10カ国がジュネーブに集まり開催された軍縮会議が米ソの思惑の
食い違いで打ち切りになるなどという事態もあり、いつ第三次世界大戦が
起きてもおかしくない、という状況下で、人々は暮していたのである。

いったいアメリカとソ連の本当の思惑は何なのか。鉄のカーテンにさえぎられた
東側の状況はほとんどこちらに入ってはこなかった。つんぼさじきに置かれた
ままに、われわれ小国の国民は、その命と財産を弄ばれているようなものだった。。
この状況が、この映画では(結果的に)非常にリアルに再現されている。
ラジオの情報だけでしか、国民は核戦争の状況を知ることが出来ない。
自分たちの生命の危険を知ることが出来ない。なぜ自分たちが戦争に
まき込まれないといけないのか、その状況の理解すら(情報制限のため)
許されないという不条理。

観客であるわれわれもまた、そこで作品中の登場人物たちに感情移入する
ことになる。神の視座でいつも映画を見ている観客が、登場人物たちと
ほぼ同じ情報量しか持ち得ないのである。

ヒッチコックのスリラーが凡百の監督たちのスリラー作品よりズ抜けて怖いのは、
観客たちに主人公と同じレベルでしか情報を与えず、精神的優位に立つ
ことを許さなかった演出法に理由があると言われているが、はからずも、
製作費の不足が、ヒッチコックと同じ手法をとらせ、この作品にリアリティを
付与したのである。

リアリティと言えば、水爆が落ちるというので、人々が東京を離れ、
田舎へ疎開しようとする(現実は田舎から東京への疎開というコースであったが)。
その延々と続く行列を、低予算ながらエキストラをかなり使って撮影しているのは、
やはり映画界にまだ力があったいた時代だなあ、とちょっと感心する。
……それはともかく、主人公の梅宮辰夫(痩せていて、現在の本人とは似ても
似つかぬ)が、恋人の三田佳子に一緒に逃げようというが、三田は足の悪い
患者の少女を残していけない、と拒否する。また、後年、テレビドラマで渋い
老人役で印象に残る演技を見せた増田順司がまだ若い流しのギター弾きの男の役で、
これも東京を離れられぬ病身の妻(星美智子)と最後まで東京に残る夫婦を
演じていて、また印象的である。

今回の原発事故でも、不安を煽るように、福島から逃げろ、東京を離れろ、
生命が危ないとツイッターなどで書き込む者が多くいた。
しかし、現実問題として、逃げたくとも逃げることの出来ない人たちが、
福島にも東京にも大勢いるのである。老人、病人、生活困窮者。
そういう人々を置いて自分だけ安全圏に逃れようとしたとき、生命は
助かったとしても、彼らは人間として死んだも同然の存在になるだろう。
そこをきちんと描いているのにも、再見で改めて気がついた。
一方で、自分のささやかな幸福を守りたいばかりに、戦争の勃発を信じようと
しない小市民の父親(加藤嘉が好演)の姿も描くことを忘れていない。
これも、大スターを主役に据えられないところから、群集劇の形をとらざるを
得ず、必然的にさまざまな立場の人間に目が行き届いたためだろう。

金力にあかせて山の中に逃げた(他の避難民は徒歩や自転車なのに彼らは
自家用車での逃避行であり、その途中で加藤嘉を轢き殺してしまう)
金持ち一家の長男・亀石征一郎は、途中までは冷静に、ある時はニヒルに
自分たちの運命を客観視しているが、最後の最後になって自暴自棄になって
わめきだし、道路に走り出る。妹の二階堂有希子(初代峰不二子!)が
何かいいかけたとたん、水爆が落ちて全員が炎につつまれる。このショッキングな
タイミングも凄い。

ラスト、廃虚と化した東京(マットペインティング)をさまよう梅宮辰夫が
恋人・三田佳子の遺体を発見する。彼女は患者の女の子をかばうようにして
死んでいる(どこにも傷のない綺麗な死に顔であるのは映画のお約束の
ウソであって、責めるべきところではない)。
梅宮は三田の遺体を抱き上げて、二人きりの場所に連れていこうとする。
あれ、女の子は置いていくのか、と思ったら、ポケットからハンカチを取り出し、
その子の顔にかけてやる。この演出にはちょっとゾクッとくる。

『世界大戦争』の監督である松林宗恵は僧侶の家の出であり、世界の終わりを
描くにあたって、宗教的救いをスクリーン上に描こうと試みた。
直接お話をうかがったことがあるが、ラストに笠智衆を船員役で出したのは、
同じく僧侶の家の出である彼に、人類の魂の救いを託したキャスティング
だったという。

こちらの第二東映作品はそのような宗教的な部分はかけらもないが、
子供の顔にかけるハンカチ一枚で、ひょっとして『世界大戦争』を超えたのではないか。
そう思えてならない。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa