裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

11日

月曜日

古い映画を見ませんか・22 『ゴジラ』(1954)

映画『ゴジラ』(1954)クランクイン当日。初めての主役に
胸躍らせてステージに入り
「主役をやらせて頂きます宝田明と申します、よろしくお願いします」
と挨拶した若き東宝ニューフェイスにベテランの撮影スタッフから
かかったのは
「馬鹿野郎、お前じゃない、主役はゴジラだ!」
という声だった。もちろん、冗談であり、周囲は笑いで包まれたが。

われわれも、現在映画『ゴジラ』の主人公は誰か、と問われれば、
疑うことなく宝田明演ずる尾形秀人である、と答えるだろう。
ところが、ストーリィとの関連性でたどっていくと、尾形という
キャラクターは、驚くほどゴジラとの接点が薄い。
だいたい、彼は自衛隊員でもなければ警官でもない。
第一発見者でもないし、何とゴジラの直接的被害者ですらない。
単に、最初のゴジラ被害者となった栄光丸の救出に向った、
南海サルベージ社の人間というだけの存在である。
そんな彼が、何でこの映画の主人公なのだろうか。

映画で主人公が主人公足り得る条件のひとつはその人物が、
他の登場人物よりも、その映画の中で起こる“事件”との
距離が近く、それ故に積極的にそのストーリィにからんでいく
モチベーション及び必然性が存在する、ということだろう。
SF・ホラー映画に関しては一般にそれが、より顕著である。
『ゴジラ』より一年早く公開されたジョージ・パルの
『宇宙戦争』(1953)でも、主人公(ジーン・バリー)
は火星人の攻撃の最初期の目撃者の一人であり、攻撃からの
避難の最中に火星人と直接対峙するという経験をしているし、
科学者という設定で火星人撃退にリーダーシップをとる必然性
が与えられている。それ故に、観客は彼の行動に地球の運命を
託しながら感情移入できるのだ。また、この『ゴジラ』を再編集
したアメリカ版の『ゴジラ』(『怪獣王ゴジラ』)では、語り手
スティーブ・マーチン(レイモンド・バー)は赴任地のカイロ
に向う途中の新聞記者であり、偶然にも日本滞在中にゴジラの出現
に出くわし、記者としての職務責任として事件に関わっていき、
自らも大けがを追う。尾形にはそのような条件が何もない。

『ゴジラ』において、登場人物で最もゴジラに“縁”の深いのは、
大戸島の少年・新吉(鈴木豊明) である。第一発見者の兄と、母を
ゴジラに殺され、山根博士の家に引き取られる形で東京に移り住んだ。
思えばゴジラ自身が、水爆実験で安住の地を追われ東京に上陸した
怪獣であり、パラレルな体験をしている彼の目からゴジラを見、
語らせるという手法が映画としては最も効果的であったと思われる。
事実、原作者の香山滋による小説版『ゴジラ』では、尾形は単なる
脇役に過ぎず、新吉少年が主人公になっているのだ。
ゴジラに家族を殺された新吉が説得するからこそ、芹沢博士も、
オキシジェン・デストロイヤーの使用に心を動かさざるを得なかった
のである。

しかし、この映画が結局新吉を中心人物に置かなかったのは、
(宝田明を売り出す、という商業的理由があったことは当然として)
それにより、ゴジラの恐怖が個人的なものになってしまうことを
避けたためだろう。本多猪四郎監督は、ゴジラを対個人でなく、
日本という国そのものに覆いかぶさる、原水爆の大いなる災厄として
描こうとした。その演出は主人公とその周辺の人たちを、不思議な
くらいゴジラの直接的被害の下におかない。尾形はゴジラを、山根博士
と共に“見物に”行きこそすれ、最後の潜水まで、一度もゴジラと
正面切って対峙しない。主要登場人物のうち、ゴジラに最も被害を
負わされたのは、大戸島で走って逃げる途中にゴジラに“にらまれ”
て転んだ恵美子(河内桃子)くらいではあるまいか。

この、主要登場人物たちとゴジラの奇妙な関係の薄さが、逆にゴジラ
という存在に人知を超えた恐怖の性格を付与していて、そういう意味
では監督の演出は成功なのだが、逆にドラマとして見た場合、芹沢博士
以外のキャラクターの存在感が極めて薄くなってしまっていること
は否めない(尾形は(初期設定では芹沢の学友、という科学者役であった
のを変更された)。新吉の影はほとんど映画から消えてしまった。
そして尾形は、ゴジラにより東京が壊滅するかどうかのさなかに、恋人の
父親が自分と彼女の結婚を認めてくれるだろうかということを気に
しているような、不自然な心理の中にあるのである。

だが、『ゴジラ』という映画を考えるとき、実はここが一番大きな
ポイントなのではなかろうかと思えてならない。
つまり、ゴジラという映画から、ゴジラという“災害”を抜き去って
考えた場合、“原水爆”というテーマを覆い隠して考えた場合、
この映画は恵美子というヒロインを許嫁である芹沢大助から奪った
主人公・尾形の葛藤の物語なのである。実はこの映画の人間的葛藤の
ほとんどはこちらに費やされているのだ。

恵美子の父は古生物学者である。娘の恵美子も、父の助手を
するくらいだから、大学で古生物学を齧ったくらいの知識は
あるだろう。才媛である。一方の尾形は、南海サルベージ社員
(社長?)という肩書きであるが、言ってみれば船員、である。
南海サルベージはゴジラが最初に襲った栄光丸が所属する南海汽船の
子会社のようだ。南海汽船社長(小川虎之助)が尾形の優れた操舵や
潜水の技術に目をつけ、サルベージ部門をまかせたのであろう。
恵美子と知り合ったきっかけが不明だが、山根博士が海底の古生物
化石調査などをした際に手伝ったのかもしれない。何にせよ、住む
世界があまりに違いすぎるカップルである、ということは映画を見た
観客がまず、最初に気になるところではないだろうか。

映画で二人が登場する最初のシーン。栄光丸の事故でデートの予定
が駄目になるのだが、二人が行こうとしていたのが『ブダペスト
弦楽四重奏団』の演奏会である。サルベージ船の乗組員がデートに
選ぶには、趣味が少し上品すぎやしないか(職業差別ではない。
人々の生活圏区分が今よりずっとはっきりと存在した1954年の
社会常識からの判断である)。想像するに、恵美子が、山根家に
恋人を順応させるために、デート場所なども全て“山根家の趣味”
で選んでいたのではないか。

それからゴジラを海上自衛隊が爆雷で攻撃するシーンを博士親子、
尾形らが山根家の居間のテレビで見ているシーンがある。
日本でテレビ放映が始まったのはこの映画公開の前年、1953年の
こと。その年のテレビ受像機普及率は0.3%に過ぎなかった。
テレビ受像機の値段は一台20万〜30万円。今の価格でいうと大体
200万から300万というところである。そんな時代に
「いつものことのように」
家でテレビを見ているのだから大した暮らしである。

いくら権威とはいえ、古生物学の研究でこのような産を為せるとは
思えない。山根博士の家は代々の資産家だったのだろうと
思われる。後で出てくる芹沢博士邸も、実験室にテレビが置いて
あり、ニュース番組を見ている。家のあるお屋敷街がチラリと映るが、
芹沢家もかなりの上流の家の生まれなのだろう。

劇中では、芹沢は山根博士の養子になることが決まっている男、
と語られる。シナリオのト書きによれば山根と芹沢は師弟関係という
ことになっているし、自分の娘の婿にして養子とするという山根の
思いからすればその関係が一番すっきりするが、先に述べたように
山根は古生物学、芹沢は酸素の研究をしている化学者。あまりに
研究分野が違いすぎる。おそらく、上流同士の親類関係か何かで、
山根は芹沢が幼い頃からその勉学を見てやり、恵美子は彼を兄の
ように慕って育ったのだと思われる。

父の研究の助手を務めることになって、箱入り娘だった恵美子は
初めて外の世界を知った。そして、野性的な海の男・尾形に出会い、
恋に落ちたのであろう。尾形もまた、今まで自分が知っていた女性
とはまったく違う恵美子に強烈に魅かれるものを感じた。しかし、
ふとその恋の昂ぶりから醒めて現実に目を戻したとき、重く、大きく
のしかかってくるのは、“世界が違う”という、厳然とした事実
であり、“恵美子には昔から決められていた許嫁がいる”という
事実であった。尾形は山根に気に入られ、彼もまた山根の人格と学識
に尊敬の念を抱き、山根の付き人のような仕事までしている。
しかし、心の底では、戦前世代の山根は自分のことをせいぜいが
信頼できる使用人としか考えておらず、本当に愛し、娘と娶せたい
のは“自分と同じ身分環境の出”である芹沢の方だ、ということも
充分すぎるほどわかっている。

尾形は、果たして山根が娘の夫として自分を認めてくれるか、
例え認められたとして、自分が“身分違いの”家のお嬢様を果たして
幸せにしてやれるのか、心の中に大きな不安と葛藤が生じていた
のである。……ちなみに、この映画の公開と同じ1954年に、
世界的に有名な“身分違いの恋”映画が公開され、日本でも大ヒット
した。オードリー・ヘプバーンの名を高からしめた『ローマの休日』
である。『ゴジラ』のシナリオに、少なくとも登場人物設定に
この作品が影響を与えていると考えてもおかしくはない。そして、
ヒロインを演じる河内桃子は、実際に子爵家の娘である。

『怪獣王ゴジラ』ではレイモンド・バーが大戸島に向う船上で
芹沢と許嫁の関係である恵美子が尾形と親しくしている場面にかぶせ
「彼らの三角関係が後に多くの人命に重要な意味を持つとは」
と回想する(この台詞はシナリオミスで、バーのここの回想はゴジラが
東京を破壊し、バーも傷ついて避難所に運ばれたときになされて
いる設定なので、まだこの時点でオキシジェン・デストロイヤー
のことを彼が知っているわけがないのだが)。最初に聞いたときは、
ずいぶんゴジラの世界を卑小なものにしていると不満だったが、
今思えば海外版のスタッフは、原水爆の恐怖とかというテーマから
無縁な分、この作品のストーリィの本質をよくついていた、
と言えるかもしれない。

つまり、破壊と渾沌の存在である“ゴジラ”を、この、尾形の
心理のメタファーとして、この映画を読み取るという見方である。
たかだか恋愛と、東京を焼け野原にする大怪獣の被害を等価に
するのか、という意見もあるだろうが、恋をした男にとって、
世界というのは自分と彼女の二人だけのものだ。その仲を裂かれる
ということは、世界の破滅と同様の意味を持つのである。
まして、現在のわれわれは“セカイ系”という用語を知っている。
この作品は、尾形と恵美子のカップルの置かれた状況と、ゴジラに
よる世界秩序の破壊を直結させたセカイ系ファンタジーなのである。

小松左京の『明日泥棒』の冒頭、恋人とケンカした主人公が丘の
上から東京の町並みを見て、ゴジラになって踏みつぶしたらどんなに
スカッとするだろう、と空想するシーンがある。ゴジラの出現は
尾形のディスペレートな心が生み出した妄想だった、というオチも
ショート・ショートならば考えられそうである。

いや、それよりも何よりも、尾形が憎んでいたのは、厳然とした
身分の差、貧富の差がまだ残り、自分たちの自由恋愛を邪魔する、
戦前から残る日本の社会構造であったはずである。戦争がまだ破壊
しきれていなかった、旧態依然の日本の社会構造を、もう一度徹底
して踏みつぶしたい、と若者であれば思って当然だろう。山根の、
“生物学的な価値観から言えばゴジラは生かしておくべきだ”という
意見は、その旧弊な思想のアナロジーであり、尾形が反発するのも
当然であった。この映画の公開当時の流行語は、戦前体制への復活を
意味する“逆コース”であり、その逆コースの最たるものである、
日本軍の(自衛隊としての)復活、そしてその協力により、この映画
『ゴジラ』は作られている。これを皮肉ととるか、それとも、
製作スタッフたちが秘かに込めたメッセージととるか……。

以上の感想はもちろん、たぶんこれまでの生涯で50回以上は
映画『ゴジラ』を見返した私の、たまには違う見方でゴジラを見て
みようか、という気まぐれな頭に浮かんだ随想である。もちろん、
『ゴジラ』のテーマは1954年の第五福竜丸事件に端を発した
原水爆実験禁止の国民運動のうねりを反映した、核の恐怖で
間違いないであろう。しかし、公開されてからすでに半世紀以上を閲し、
いまだ、この作品が粗削りながら持っている“映画としての魅力”
の根源がどこにあるかを思うとき、そこに、政治的お題目よりも
一段階深い、人間ドラマというものが底に横たわっているのを
感じざるを得ないのである。

なお、さきほど河内桃子を子爵家の娘と言った。彼女の祖父、大河内
正敏は理化学研究所の所長として、日本陸軍から原子爆弾の研究を依頼
され、戦後、その件をもってA級戦犯として逮捕され、不起訴となって
釈放されたものの、不遇のうちにこの世を去る。
河内桃子は正敏が“自慢の孫”として目の中に入れても痛くないほど
可愛がっていたお嬢様だった。その孫が、原子爆弾によって生れた
大怪獣の恐怖を描く映画に主演する。
絶妙と言えば絶妙、皮肉と言えば皮肉なキャスティングである。
大河内正敏はこの映画の公開の二年前に死去しているが、もしこの
映画を見たら何と感想を述べたことだろうか。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa