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2012年1月8日投稿

名コンビだった男 【訃報 ドン・シャープ】

12月14日死去。89歳。

タスマニア(オーストラリア)生まれで、第二次大戦でイギリス空軍に
属したことからイギリスに定住、オーストラリア時代からやっていた演劇の
経験を活かして映画とラジオの役者になったが、すぐ演出の方にシフトした。
1963年、怪奇映画専門の制作会社ハマーフィルムから演出を依頼され、
『吸血鬼の接吻』のメガホンをとる。それまで怪奇映画を撮ったことなど
なかったが、数日、ハマープロダクションのアーカイブにこもって昔の
作品を見まくり、すぐにハマースタイルの演出法を身につけたという。
ハマーのドラキュラと言えばクリストファー・リーであるが、この作品は
ハマーがリーばかりにドラキュラをやらせてはすぐ飽きがくるだろう、と
かけがえの吸血鬼シリーズを企画した一本だった。怪奇ものは初めての
シャープに撮らせたのも、新しい血(文字通り!)を入れようとしての
ことではなかったろうか。

結局、やはり商品的価値としてはリーのドラキュラにかなうわけもなく、
ハマーの吸血鬼映画としては鬼子扱いの作品になってしまったが、しかし
この作品、ポランスキーの『吸血鬼』(1967)がアイデアをいただいた
と思われる吸血鬼一族の舞踏会シーンがあったり、ラストで、普通なら
吸血鬼の手下として描かれる吸血コウモリを使って吸血鬼たちを退治する
など、アイデア満載の脚本(これはハマー生え抜きのアンソニー・ハインズ
がジョン・エルダー名義で書いた)を、シャープは耽美調の演出で見事に
仕切った。その手腕をかわれてか、すぐアメリカに招かれてロン・チェニィ・ジュニア
主演の『Witchcraft』(1964)を撮ったり、ヒットした蝿男ものの
第三作『蝿男の呪い』(1965)を撮ったりする(ただしこの三作目は
蝿男とタイトルに謳っていながら肝心の蝿男が出てこないサギまがいの作品だったが)。
そして、ハマーもシャープを放っておかず、すぐイギリスに呼び戻して、前作では
組めなかったリーとコンビを組ませ、リーがラスプーチンを怪演した
『白夜の陰獣』(1965)を監督させた。

これでリーとはウマがあったのか、イギリス映画界の異才ハリー・アン・
タワーズがリーを起用した怪人フー・マンチューシリーズで、シャープは
シリーズ初期の、良質な二本の作品を監督している。本家のドラキュラもので
こそ組めなかったものの、最後の『オーロラ殺人事件』(1979)まで、
リーとは6本もの作品で組んでいる。リーを怪奇映画の大スターにした
テレンス・フィッシャーがリーと組んだ作品の数が12本ということを考えると、
途中参加でこれだけの作品を残したのは、お互い気のあった名コンビだった
と言えるだろう。

低予算の怪奇映画やB級スパイアクションの監督は、高い評価とは無縁な
運命のもとにある。しかし、それを厭わず、大衆の嗜好に合わせ、
職人として娯楽ものを作り続けてくれたその手腕には、深く感謝の意を
表したい。
R.I.P.

※なお、ドン・シャープと言えば東宝特撮ファンには、1969年の本多猪四郎
監督作品『緯度0大作戦』のプロデューサーとして知られており、訃報記事
にもそのことに触れたものがあったが、IMDb(インターネット・ムービー・
データベース)によると、監督のドン・シャープと、プロデューサーのドン・
シャープは別人、という扱いになっている。名前のスペルも、監督の方は
Sharp、プロデューサーの方はSharpeである。音が同じゆえの混同だろうか。
監督のドン・シャープがプロデューサーをしたのは1950年、自らが出演した
自主製作映画『Ha'penny Breeze』だけのようだ。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa