ニュース

新刊情報、イベント情報、その他お知らせ。

イベント

2011年12月22日投稿

徹底した男 【訃報 上田馬之助】

梶原一騎/辻なおきコンビによる『タイガーマスク』、第一部の
クライマックス。捕らわれた健太を助けに単身“虎の穴”本部に
乗り込み、ピンチとなったタイガーマスクの前に、彼を助けに現れた
6人のタイガーマスク。それは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木
をはじめとする、6人の日本プロレスのレスラーたちだった。
この6人の中に上田馬之助もいる。ちょうど海外遠征中だった彼が
馬場にタイガーの情報を伝えるという、大事な役目を負っていた。

このエピソードが掲載されたのが1971(昭和46年)。
まさにその同時期、日本プロレスは、団結してタイガーを助けにいく
どころか、クーデターによる分裂の危機を呈していた。

もともとは力道山なきあと、団体を私物化していた芳の里や遠藤幸吉、
吉村道明(吉村も上記6人の中に入っていたのだが……)ら経営陣
に猪木が不満を抱き、彼らの追放を計画し、それに馬場と上田が同調
してクーデター計画が立案された。しかし、話が進むにつれ、三者の
思惑が次第に乖離していき、ついに上田が猪木の計画を会社にご注進する
という裏切り行為に出て、猪木は日本プロレスを追放される。
この上田の裏切りは今に至るもプロレス界の闇の部分とされているが、
もともと上田は遠藤の付き人出身であり、遠藤を芳の里らと共に
追放しようとした猪木の過激な改革案に上田が抵抗を感じたためでは
なかったかと言われている。

だが、上田が裏切者の名を覚悟してまで忠誠を尽くした遠藤は、
日本プロレス崩壊後、つらりとして猪木の旗揚げした新日本プロレス
に加わり、プロモーター、解説者として地位を確保した。
馬場が著書『16文が行く』(ダイナミックセラーズ出版)の中で語って
いるところでは、この時に感じた人間不信が、上田馬之助をしてあれだけの
ヒールへの転身をさせたのではないか、ということだ。

馬場は同じ著書の中で、上田が「まだら狼」としてヒールで売り出した
とき、故郷に帰ったら子供に石をぶつけられた、というエピソードを
紹介して、
「よくもそこまで悪に徹底出来たと思う」
と馬場一流の賞賛をしているが、裏切りにしろ、ヒールへの徹底にしろ、
これは上田馬之助という人間の不器用さを表していると思う。
猪木の過激改革に不満があったにしろ、そもそもクーデター計画に
かなり初期から加担していたということは、若き上田の中に正義感
があふれていたということだ。しかし、それと(馬場の言を信じる
なら)かつて付き人だった遠藤への義理を両立させるというのはいくら
なんでも無理があり、その両者の心理の間で板挟みになった結果、
彼一人が裏切者の汚名を着るという、最もブの悪い選択をしてしまった。

馬場はうまく立ち回ってクーデター騒動の傷を受けることなく、
日本プロレスから独立して全日本プロレスを旗揚げしているし、猪木
もタヌキで、ちゃっかり自分が追放計画を立てた遠藤幸吉を抱き込んで
利用している。上田になかったのは、この政治力である。
ある意味、馬場、猪木、上田の三人の中では、上田が最も純粋に
日本のプロレスの行く末を心配していたのではないかと思えるフシも
あるのだが、オトナの社会はもっともっと複雑なのだ。

馬場が感心したヒールへの徹底も、後のアメリカン・プロレスの
方式を取り入れたレスリングなら、ギミックとして“悪を演ずる”
ことも出来ただろうが、真面目な上田は、悪を演ずるならリング上
だけでなく、徹底して悪玉を演じ続けなければ、悪になり切ること
が出来なかったのだろう。1982年の映画『爆裂都市 BURST CITY』
(石井聰亙監督)に上田は暴力団のボス役で出演しているが、その
セリフの棒読み具合は凄いもので、これは“役を演ずる”ことなど
とても出来ないわ、と思わせるに充分であった。

とはいえ、タイガー・ジェット・シンとの凶悪コンビにおける
上田の役割はなかなかのものだった。悪というよりは狂気であるシン
の入場時、プロレスのタブーを無視して客にまで襲いかかろうと
するシンを必死で押さえてリングまで誘導する上田の姿は、ある意味
で真面目人間が一所懸命悪を演じながら出してしまっているボロ、
なのであるが、それが、あのプロレスブームの雰囲気の中では、
狂人をあやつっている男、という“頭脳派”のイメージを与え、
かつて馬場や猪木を裏切った男という悪印象を、“油断のならない
策士”という、リング上でのギミック作りにうまく転じさせていた。
これは完全にギミックの狂虎であったジェット・シンからの信頼も
絶大であったという。真摯さゆえの成功であったろう。

交通事故で晩年は下半身不随という不運に見舞われたが、自分のこと
よりも、共に車に乗っていて命を落とした若いスタッフのことに
涙し、“変わってやりたかった”と言っていたそうである。
ここらも、車椅子になってからまでヒールを演じていたフレッド・
ブラッシーなどに比べ甘いが、その甘さが、日本人にはちょうど
よく感じられる。

21日、誤嚥性窒息により死去、71歳。
あの、リングサイドでの痺れるようなワクワク感を与えてくれたお礼と
共に、冥福をお祈りする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa