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2011年12月21日投稿

きらめいていた男 【訃報 森田芳光】

20日死去、61歳。
ショックである。
この監督の華々しい登場のとき、映画界が若返り生まれ変わった、
というイメージでわれわれの心は満たされた。
「ようやく、われわれの世代の映画監督が生れた!」
ということで彼の存在はこちらの胸に刻み込まれた。
その監督が、若死にとはいえ、もう61歳。
こちらも歳をとるわけだ。

『の・ようなもの』(1981)からもちろん注目はしていたが、
何と言っても森田芳光と言えば『家族ゲーム』(1983)。
これを初めてみたときの衝撃は忘れられない。
日本においての、家族というタテのつながりを、癖のある人間と人間の
ヨコのつながりとして再編成して、それをあの横つながりの食卓で見事に
具象化してみせた手並み。
当時“奇妙な女の子”キャラで売っていた戸川純だけがその並びに違和感を
感じ、きちんと正面向きに椅子を置きなおす、というあたりに、“平凡な家庭”
というものへの監督の横溢した批判精神が現れていた。

この作品で父親役を演じたのが伊丹十三で、翌年の彼の映画『お葬式』
の演出のケレンは、ほとんどがこの森田芳光の演出のコピーだった。
伊丹十三は最初、『お葬式』の葬儀屋の役を松田優作で考えていたそうで、
そうなるとますます『家族ゲーム』のリメイク感が強くなっただろう。

しかし、伊丹十三が最後までその演出スタイルを保持し、自分のトレード
マークにまでしてしまったのに比べ、森田芳光は次作『メイン・テーマ』
(1982)で早くも自己模倣のマンネリ化に落ち込み、評価の高かった
『それから』(1985)も、まっとうな演出スタイルと『家族ゲーム』調の
スタイルとが混在する、奇妙な感じの映画であった。いや、相変わらず
面白いとは思っていたし大好きだったのだが、その後の数本の作品に不入り、
不評が続いたことで数年の沈黙を余儀なくされ、そして『失楽園』(1997)
で、ベストセラー小説をスクリーン上に見事に再現してみせる大衆映画作家と
変貌して(これは私見であるが)復活。向田邦子の『阿修羅のごとく』(2003)
や黒澤明の『椿三十郎』(2007)のような先行作品のリメイクを職人的演出で
コンスタントに撮りあげる監督となった。鬼才と言われた若い時期から、
安定したヒットメーカーである老年期へという移行は、かつての市川崑の
歩いた道とシンクロする。

これを才人の独りよがりから大衆派への見事な転身とみるか、堕落と見る
か。堕落とは言いたくないが、初期のキラキラきらめいていた才人ぶり、
その独りよがり的演出の斬新さにあこがれた身として、やや残念だった
ことは事実である。

とはいえ、『失楽園』で、死を迎える二人が食べる人生最後の食事を、
クレソンと鴨肉のみのシンプルな鍋物に設定した、というあたり、まだ、
初期の感性(の、ようなもの)がときおり画面の端々にチラ、と感じられ、
あふれかえっていた時期よりむしろ才気は感じられたものだ。才気は
それを囲むワクがあってようやく落ち着く、という好例だろう。

まだまだ、年齢的には第二第三の変貌をとげられる人だったと思う。
モリタ、と聞くだけで心踊ったあの時代そのもの、私の青春と共に、黙祷を捧げる。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa