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2011年9月21日投稿

孤高を保った男 【訃報 白山雅一】

「カラサワくん!」
と、よく電話がかかってきた。
私の名前はからさわ、と無アクセントで発音するのだが、
先生はカとサにアクセントを置いて「カらサわくん!」と発音した。
最後に「!」がつくのは、電話口から響く声が、毎回、80代の声とは
思えないくらい溌剌としていたからである。

元気な上に長かった。
2時間以上かかることはザラだった。
はっきり言って、その間仕事も何も出来なかったのだが、
「いま、この先生の話を聞いておかなければ、後で絶対後悔する」
と思いながら聞いていた。
とはいえ、“誰にも話すなよ、キミだけに話すんだから”は先生の口癖で、
聞かせていただいた芸能界秘話は、たぶん業界で電話をもらった人たち
ほとんどが聞かされていたと思う。

共通の知り合いの芸人が周囲から借金をしまくっていたときには、心配して
「カらサわくん! キミはあいつにいくら貸してる?」
と電話をかけてきた。
「いえ、貸してないです」
と答えると、
「エラい! あの男はいい奴だが、金にはだらしない。あいつに貸したら
返ってこんからな。あいつに金を貸さなかったのは、わしとカらサわくん
くらいなもんだ!」
と褒めて(?)くれた。

その芸人は白山先生を本当に慕っていて、父のない自分には先生が実の
親父のように思えてなりません、親父になってください、と頼んでいた
そうだ。で、ある日、先生にうまい中華料理をご馳走するから、と言って
誘い、そこで借金を申込んだという。先生は
「貸すのにやぶさかではない。しかしお前はわしを親父と思うと言ったな。
親父に金を借りるなら、どうして素直に頭を下げて父さん、金を貸してくれ
と言わない。おごっていい気分にさせたスキをねらって金をせびるような
態度は息子のとるものでない!」
と言って断わったそうだ。先生はスジを通す人だったのである。

白山雅一。戦後に売れた芸人の第一号と言われている。
声帯模写と言っても、いま流行りのディフォルメをきかせた模写とは
全く違う、オリジナルに限りなく近い模写である。
今のように、いつでもどこでも、オリジナルの声を耳にできる時代
ではない。レコードすら高級品であった時代には、灰田勝彦、東海林太郎、
藤山一郎とヒット歌手を次から次に聞かせてくれる、そっくりそのままの
物真似にニーズがあったのだ。そして、それが現代では、
「昭和を眼前にリアルに再現してくれる」
技術として貴重な芸となった。

洒脱な芸風で一世を風靡した柳家三亀松の弟子。音曲漫談の弟子がなぜ
声帯模写を、と思う人もいるだろうが、三亀松も高座で大河内傳次郎や
坂東妻三郎ら映画スターの声帯模写をやっていたのだ。その点では確かに
弟子だったのだが、エロ松とまで言われた艶っぽさは全く受けついで
いなかった。三亀松が草書の芸なら、白山雅一は一画をだにおろそかに
しない楷書の芸、だった。

初めてお会いしたのは、オノプロの下働きで、立川流の落語会の楽屋に詰めて
いたころ。国立劇場の舞台裏の廊下に立っていた、一面識もない私に、腰を
かがめた格好で近づいてきて、何やら古い歌の歌詞を
「これでよかったかな?」
と質問してきた老芸人さんがいた。幸い歌詞を知っていたので、それでいい
はずです、と答えると
「そうか、助かったよ、ありがとう」
と、どこの誰ともわからぬ若造であるはずの私に、きちんと礼を言って
去っていった。それが白山先生だった。

やがて、快楽亭ブラックの会でよくゲストに出演し、私や睦月影郎さんとの
交流が生れ、特に睦月さんとは軍歌の会で親しくなり、睦月さんの元への
長電話の回数は、私などの比ではなかったことと思う。私に関しては
「なんだ、キミはオノくん(小野栄一)の甥か」
ということで認識してくれたようだ。

およそ、芸人のうち、声帯模写の人ほど芸おしみをしない人たちはいない。
常に、自分の技術が衰えていないか、確認が必要な芸なのだろう。
中でも白山先生は極端だった。睦月さんが軍歌の会に白山先生を呼んだとき、
その打ち上げの席で白山先生が、十八番の新国劇『王将』の、辰巳柳太郎
の坂田三吉と島田正吾の関根名人の最後のやりとりの下りをまるまるやり
はじめたのに、喜ぶというより困ってしまったという。そりゃそうだろう、
舞台で演じれば数万というギャラになる芸をタダで聞かせてくれるのだ。
私も、電話口で
「あの“レイホー”は、普通に喉で出しちゃいけない、こう、“レイホー”と……」
と秘訣を講義してくれたことがあり、声帯模写の芸人でないことを大変
悔やんだものである。そう言えば、演芸ホールのロビーで私を見つけ、
近寄ってきていきなり耳元で“レイホー”とやられたことがある。

生涯、独身を通した人だった。
なので、いろいろとよからぬ噂も立てられ、非常にそれを気にしておられた。
一度、中野の路上を一緒に歩いていたとき、何の脈絡もなく、
「ちょっと見てなさい」
と言って、鉄製の街灯を、いきなり正拳突きで思い切り打ったことがある。
周囲に響きわたるような、ギイーン、という金属音が鳴った。
呆れ驚くわれわれに、先生は自慢気な笑顔を見せたが、その後、かなり
手が痛そうだった。なぜいきなりあんなことをしたのか、さっぱり
わからない。軟弱の徒ではないんだ、と見せたかったのかもしれない。
そこらへん、実に芸人らしからぬ先生だった。

高座での芸は非常に正統派でケレンのない、折り目正しいものだったが、
その折り目の正しさを日常でも通したあたり、異色の芸人だったのかも知れ
ない。芸能生活60周年記念リサイタルのとき、終ったあと、知り合いの
おばさんたちが楽屋口で先生を取り巻いていたが、そのおばさんたち、
私に向って
「この人は親孝行な人でねえ、ほんとうに親孝行な人でねえ」
と言葉をつまらせていた。親不孝揃いの芸人たちの中で、これまた異色で
あろう。隠し芸のひとつに昭和天皇の物真似があったが、どんなにリクエスト
されても、決して舞台ではやらなかった。
「皇室の物真似でお金をいただくのは不敬にあたる」
「打ち上げの席などでやるのはこれは敬愛の情の表れ」
と、ちゃんとそこでも筋を通しておられたのである。

ここ数年、身体を悪くされて透析もやっておられた。
介護センターに姿を見せず、気にした介護員が自宅を訪れてみると、
部屋で亡くなっていたという。この残暑で熱中症になって倒れたらしい。
20日頃死去、の“頃”が悲しい。享年87だが、2月29日生まれなので
4年に一度しか歳をとらない、とおっしゃっていて、来年が22歳の
はずだった。そんな若くして亡くなってどうするというのですか、先生。

私を含め、多くの白山ファンは、芸の質に比して、その扱いが極めて
低いことを口惜しく思っていた。しかし、これも先生独自のダンディズム
であり、例えば、エントリーすれば絶対大賞がとれる筈の芸術祭にも
参加していなかったという。孤高を保つ、という言葉が最も適した晩年で
あったと思う。その死の状況は悲しいが、白山先生のダンディズムは
それをよしとされるのではあるまいか。

ご冥福をお祈りする。
また1人、昭和の語り部が逝った。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa