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2011年7月20日投稿

暗いところにいた男 【訃報 和田慎二】

あれは今から三十数年前、1974年の春休みのある日。祖父が、
いきなり私と弟に、“小樽の水族館に行こう”と言い出して、
三人で出かけたことがあった。
祖父と三人だけの小旅行というのは滅多にないことだったので
非常に印象的な一日となったが、しかし肝心の水族館の記憶は
ほとんどない。そのときの小樽行の記憶はほぼ全て、昼食を
とった駅前の大衆食堂に置いてあった、『別マ(別冊マーガレット)』
のことに集約されてしまっている。

注文品が運ばれてくる間の時間、その雑誌をパラパラめくっていた
私は、そこに載っていた、少女漫画とは思えないハードなアクション
もの作品に、魅入られてしまった。シャープな描線、後のアニメで
よく使われるような、スマートな(ちょっとだけ気障な)セリフ回し、
さらにはレイプや殺人のショッキングな描写。いずれも、それまでの
少女漫画には、求めても得られないものだった。
……それが和田慎二の作品『大逃亡』だった。

男のくせに少女漫画なんかを読んでいたのか、と言われそうだが、
この時期、萩尾望都の『ポーの一族』が評判を呼び、SF・ホラー
ファン中心に、男性が少女マンガを読むのが一種の流行のようになって
おり、私も友人たちに『ベルサイユのばら』の面白さを講釈したり
して悦に入っていたものであった。

とはいえ、それはその当時の私たちにとって“異文化”を面白がる
という一種のエキゾチズム、スノビズムの要素が多分にあったと
思えるものだった。あくまでも少女漫画はわれわれにとり、本来、
全く異る常識、感覚で描かれたキッチュな世界であったのだ。

……しかし、その作品は違った。あきらかに自分たちと同じ嗜好、
同じ感覚を持った者が、少女漫画という異分野の中で、堂々と存在感
を示しながら、しかも王道を行っていた。作品のあちこちに仕掛け
られていた楽屋オチが、自分たちと同じオタク(そんな言葉はまだ
なかったが)たちに向けてサインをビシビシ飛ばしていた。
『アラビアン狂騒曲』で空飛ぶカメが出てきて、
「お前、ガメラの親戚か?」
「へえ、オイでんねん」
なんてギャグには絶倒したものである。当時は少女マンガのおしゃれ
な世界に怪獣の名前が出てくるなど、ありえないことだった。
それはあきらかに、少女マンガの本道の読者たちでない、われわれ、
スノビズムで少女マンガを読んでいる者たちに向けての発信だった。
異邦人の街をさまよっているところで同国人が店を開いているのに
偶然出会った、というような感じだった。しかも、異邦人たちに
その店は評判で繁盛しているのだ。

やがて70年代後半。私も含め、それまで地方でオタク的活動を
続けていた者たちが続々と東京に集結しはじめ、当時の東京はオタク
文化の黎明状態となりつつあった。それまで仁侠映画などが中心
だった名画座のオールナイト上映も、客が集るというので、アニメや
特撮特集を多くかけるようになっていった。それまでは少ない情報を
頼りに、各地域の公民館などで五月雨的に上映されていた東映アニメ
の名作がまとめて上映され、池袋文芸坐、上板東映、吉祥寺東映
などに『ぴあ』を参照して回れば、二ヶ月に一度あてくらいで
『ホルスの大冒険』を見ることが出来るようになっていった。
そうしているうちに、『ピグマリオ』の連載が開始された。
……たぶん、私と和田氏はあの時期、名画座の暗い空間をかなりの
確率で同時体験していたと思う。

マンガの世界でもかなり早く、まして少女マンガの世界ではほぼ
初めて、オタク的な趣味を持ち込んだ先駆者であった。
第一次オタク世代の情熱と凝り性がいい具合に作品に作用していた
が、しかしまた、第一次オタク世代の欠点である、作品世界に
愛着があるあまりにスッキリ終らせられず、話が延々と膨らんで
しまう、という特長も持ちすぎるくらい持っていた。
それが元での出版社との決別など、トラブルを起したこともあった
ようだ。アニメ化、実写化された人気シリーズを持って、悠々自適
に作品を描ければどんなによかったか。

7月5日、虚血性心不全で死去、享年61歳。
早すぎる死であったと思うが、手塚、石森、藤子Fとならぶ、
これはマンガ業界という戦場における戦死者名簿の平均年齢なの
かもしれない。業界自体が考えるべき問題と言えるだろう。
いずれにしても、かつて同じ暗い空間にいた同志に、心からの
ご冥福をお祈りするものである。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa