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2011年3月9日投稿

オンリー・ワンだった女(ひと) 【訃報 ジェーン・ラッセル】

あるパーティで、ボブ・ホープが彼女を紹介して曰く。
「ご紹介します。二つの、そしてオンリー・ワンの存在、ジェーン・
ラッセルです」
……もちろん、“二つ”とは彼女の胸(おっぱい)を指して言っている。

彼女の二つの胸を、大富豪ハワード・ヒューズが発見したのは1940年。
すでにヨーロッパではヒトラーが破竹の進撃を続け、世界はアメリカが
いつ参戦するか、固唾をのんで見守っていた。もちろん国内最大級の
航空機会社を経営していたヒューズなのだから、そっち方面でも凄まじく
情報収集に神経を使っていたと思うが、そのさなかにちゃんと女性収集も
していたというのがさすがというか何というか。彼は歯医者の受付嬢だった
ラッセルを、現在自分が製作中の映画『ビリー・ザ・キッド(後に
『アウトロー(ならず者)』と改題)』のヒロインに抜擢した。

ヒューズは二つのラッセルに惚れ込むあまり、監督のハワード・ホークス
を降ろして自分が監督になり、ひたすら彼女のおっぱいを強調して撮った。
胸の谷間をギリギリまでのぞき込める撮影法を考案させ、アップにしても
(もちろんおっぱいを、だ)縫線の目立たないシームレスブラジャーを
デザインさせた。

世界は上記のような状況である。時局を考えないそのエロチシズムに検閲
機関はヒステリーを起こして、ハサミを入れまくり、結局公開されたのは
完成から2年後の1943年。評判も客の入りも最低だった。宣伝部は
何とか、その検閲されまくったエロ映画、という評判を逆手にとってウリ
にするしかなかった。

たいていの映画コラムには、これを巨乳オタクのヒューズの狂いっぷりの
あらわれ、と書いている。それは間違いないだろう。しかし、いくら巨乳
フェチでも、そこはハワード・ヒューズ。そこらのオタクとは先見性が違う。
彼は、当然のことながら、アメリカは第二次大戦に突入する、と確信していた。
そして、映画プロデューサーとして、これからは演技力や美貌よりも、
とにかく肉体美、それも脚とかではなく胸が最大のポイントとなる、と見抜いて
いたのだ。戦場に狩り立てられ、死線をさまよわされるのは、まだ女性を
知らない年頃の若者がほとんどだ。彼らが塹壕の中で妄想をたくましう
して想像するのは、視覚的に最も強烈な巨大なおっぱい、幼いころお母さん
のそれを間近で見て、他の女もそうなんだろうと想像のつく中で最大級の
ものである。現に、映画がまだ公開するさせないで揉めている最中に彼女の
ピンナップは『ライフ』誌の表紙になり、戦場の兵士たちの間でひったくり
あいになった。

映画はコケたが、それは製作費がスキャンダルネタで集まった客で回収する
にはあまりに巨額になりすぎたことと、肝心のシーンは全てカットされて
しまっていたこと、そして本来の観客である、おっぱい好きな若い男性たち
のほとんどが、海の向こうに戦争に出てしまっていたことにあった。
ちなみに、監督のヒューズはこの映画の興業成績などはすでに眼中になかった。
戦争が始まり、彼は世界最大の飛行艇、H−4 ハーキュリーズを製作することに
没頭していたからである。おっぱいと飛行艇への執着の関係というのも、考えると
何やら心理学的に深遠なものがありそうな気がする。某アニメ監督とか。

やがて戦争は終る。アメリカ本国には、ゾロゾロと若者たちが帰ってきた。
長い戦争で、妄想ばかりかき立てていた結果、みな、巨乳マニアに成り果てて。
戦後、最も早くセックス・シンボルとして有名になった映画女優は1946年、
『ギルダ』(チャールズ・ヴィダー監督)におけるリタ・ヘイワースだったが
彼女がこの映画で強調したのは、“腕”だった。これでは若者は満足できない。
しかしラッセルがこの時期に出演したのは、上記のボブ・ホープとコンビを
組んだ『腰抜け二挺拳銃』(1948)や、怪奇俳優ヴィンセント・プライス
と共演したフィルム・ノワール『犯罪都市』(1951)などで、コメディ
演技を見せたり、歌を披露したりして芸域を広げていたが、おっぱいファン
には物足りず、やきもきするばかりだった。彼らは仕方なく、B級映画の
『ターザンと豹女』(1945)のアクアネッタや、イタリア映画『花咲ける
騎士道』(1951)のジーナ・ロロブリジーダなどで満足せざるを得な
かった。黒澤の『羅生門』(1950)がアメリカで評価されたのも、
京マチ子のおっぱいが大きかったことが要因のひとつなんじゃないか。

やっと彼女が胸の谷間をたっぷり見せてくれたのは1953年のミュージカル
『紳士は金髪がお好き』で、ここでラッセルはかつてヒューズに監督を降ろされ
たハワード・ホークスにやっと最初から最後まで演出をつけてもらえる。
だがしかし、この映画で大ブレイクしたのは、ラッセルではなく、共演の
マリリン・モンローの方であった。ラッセルはこのとき、後輩のモンローの
引き立て役を自ら引き受けたとも、怒り狂って制作者に抗議したとも言われて
いる。どちらもゴシップとしては面白い。

やがて彼女は、もう一人のハワードの方、かつて自分を発見したハワード・
ヒューズとも再度、仕事をする。今度は監督が温厚かつ職人肌のジョン・
スタージェスだったので安心であった。とはいえ、今回もヒューズはおのれの
趣味を全開にしていた。『海底の黄金』(1955)と題せられたその作品は、
とにかくラッセルの水着姿、ということは必然的に露出されるそのおっぱいを
たっぷりと観客に(そしてヒューズに)観賞させることが目的の映画であった。
いくら趣味を全開にしても、今度はもう世相も変わり、誰も文句をつけなかっ
た。この映画以降、アメリカでは女性のダイビングが流行したという。ヒューズ
は、自分の趣味と世間の嗜好を一致させることに、やっと成功したのであった。

ラッセルは自伝の中で、自分の演技力をかなり低く評価し、肉体の魅力のみ
で売れたことを客観的に認めている。かなり早い時期に映画界を引退したのも、
女優という職業に自信が持てなかったからだと言われる。敬虔なクリスチャンで、
ヒューズはじめ多くの男性が次から次へと誘惑してくるハリウッドの生活に
嫌気がさしたのでもあろう(もちろん彼女は全てをはねのけ、まっとうな結婚をした)。

ラッセルの存在は、その偉大なる胸がスクリーンへの露出をやめると同時に、
急速に忘れ去られていった。ラッセルより半世紀以上先にこの世を去った
モンローの方は、いまだにイコン化されているというのに。

しかし、彼女は彼女は世界大戦前と後という、世界の価値観の変貌の中で、見事
に輝きを発し、その変化の象徴となった。『ならず者』のトラブルも、
今思えば、それはその作品が世界を変貌させるだけのパワーを持った存在
だったということだ。そして、そのパワーは、他の誰でもない、ジェーン・
ラッセルというオンリー・ワンの存在だった女性のものだったのである。

2月28日死去。89歳。
世界一の大富豪の誘いさえ蹴り飛ばした清廉さを持った女性だ。
絶対天国へ行けるだろうから、心配はない。
R・I・P

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