ニュース

新刊情報、イベント情報、その他お知らせ。

イベント

2011年3月1日投稿

背中を押された男 【訃報 和田寿郎】

医博・和田寿郎氏死去。88歳。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0215/TKY201102150243.html
1968年、札幌医大で宮崎信夫くんに日本初の心臓移植手術を行った。
宮崎くんは経過は良好とされてマスコミは車椅子の彼の姿をこぞって
紹介し、同時に和田教授の満面の笑顔もテレビ・新聞等に映ったが、
術後83日目に気管にタンがつまったことが原因で死亡。
その後、この移植手術に関してさまざまな疑問が噴出し、殺人容疑で
告発されたりもしたが証拠不十分で不起訴。
その後、東京女子医大教授になり、自分の名を冠した和田寿郎記念
心臓肺研究所の所長となって“それなりに”栄誉に包まれた晩年を送った。

裁判では証人として呼ばれた医学関係者がいずれもあいまいな証言に終始
して、被告を有罪に持ち込めなかった。リアル『白い巨塔』などと言われ
たりもした。

当時、私は中学生。自分の住んでいる札幌で日本中の注目の的となる
心臓移植手術が行われたことに、かなりワクワクしたことを記憶している。
そして、宮崎くんの死を告げたときの和田教授の泣き腫した目と、
「宮崎信夫くんは、呼吸不全により本日×時×分……死亡いたしました」
という言葉が発せられた瞬間の、報道陣のどよめきも、昨日のことのように
思い出す。日本初の心臓移植は、日本初のテレビによる医学ショー、でもあった。

和田教授の手術がいかに問題のあったものか、についてはここでは
筆を費やさない。ただ、1968年という時代の雰囲気と、この手術の
関係を個人的感想から述べておきたい。心臓移植の患者が、アイドルの
ように新聞や雑誌の誌面を飾る(亡くなった後、芸能雑誌である『週刊平凡』
に“宮崎君83日の記録”という記事が載った)ほど話題を集めた時代だった。
この年の紅白歌合戦の審査員には、和田氏でこそないが、心臓外科医の
榊原仟氏が選ばれている。いかに心臓移植というトピックが日本人を
興奮させたかという証左だろう。

宮崎くんは、自分の手術後の推移を見守っている全国の人々に、
「信夫はこれからもがんばります」
というメッセージを送った。何か、この“信夫”はという言い方は
その年の1月に自殺したマラソン選手、円谷幸吉の
「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
という遺書とダブって見えた。男子が“僕”や“私”でなく自分のことを
名前で呼ぶのには、妙に自分の体が自分のものでなくなっている
感覚が漂う。テレビで見る宮崎くんには、生きているのではなく
“生かされている”感が紛々と漂っていた。

その年、日本は“いざなぎ景気”と呼ばれる長期好景気に沸いていた。
GNPがアメリカに次いで2位になった。
日本初の超高層ビル、霞が関ビルディングがオープンした。
一方で70年安保騒動で、安田講堂が占拠され、デモが荒れ狂った。
性開放も加速され、永井豪『ハレンチ学園』が話題になった。
好況と政治的混乱が一挙に襲い、国民はどこか狂躁的な感覚に陥っていた。
要は“何でもアリ”。この感覚が日本中を覆っていたと言っていい。
その象徴だったのが、この年の末に起った三億円事件だった。
ともかくも、やってしまった者が勝ち、の時代だった。
“心臓移植”というインパクトに富んだ語感は、この時代の日本を覆って
いた万能感に、見事にマッチした。

和田教授の、医師としてのモラルに問題があったことは確かだろう。
だが、彼の背中を強く押したのは、明らかに”時代“の勢いだったと思う。
あと5年早くても、5年遅くても、この事件は起こらなかったのではないか。
少なくともメスを握る手に、躊躇が生れていたはずだ。
1968年という年は、日本中が、興奮状態にあった年なのである。

心臓移植手術報道騒動は、そのシンボルであった。
そして、その後の和田教授追求は、興奮状態から覚めた日本人の、
「あの時自分は何をやっていたのか?」
という、泥酔の翌朝の感覚に似た自己嫌悪の発露だったように思えるのだ。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa