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2011年2月5日投稿

可愛がられた女(ひと) 【訃報 高峰秀子】

高峰秀子、12月28日死去。86歳。
もちろん、老け役になってもよかったが、戦前から終戦直後
にかけて、娘役を演じた彼女は実に可愛かった。
小津安二郎も、マキノ正博も、成瀬巳喜男も、山本嘉次郎も、
日本を代表する監督たちみんなそろって、彼女のことを可愛らしく
撮った。ひたすら、可愛らしく撮った。
実際、彼女は可愛らしかった。
だが、その可愛らしさは、汚れをしらない天真爛漫な少女の
可愛らしさではなかった。
むしろ、幼い時から辛酸をなめ、大人の世界のいやらしさや
薄汚さのドブ泥にまみれながら、そこに一輪の純白の花を
咲かせる、蓮の花の清らかさが生む魅力だった。
上記大監督たち、また、彼女の周囲にいた日本のトップクラス
の文化人たち(名前は後述する)たちは、その可憐さと、
彼女の周りの境遇を見て、
「この子は私が守らねばならない」
という、使命感に燃えてしまったのではないかと思う。

彼女の初恋が破られたのも、その家庭環境のせいであった。
まあ、それくらいならばどの世界にもある話だろう。
話が大きくなったのは、その初恋の相手が、フツウの人では
なかったことに原因がある。

その相手の名を、黒澤明といった。

出会いは彼女が山本嘉次郎の『馬』の主役を演じていたときの
ことである。
昭和14,15,16年の三年越しの撮影という前代未聞の大作
だったこの作品の、チーフ助監督を務めていたのが黒澤明だった。
当代の人気少女役者だった彼女は、家族を養うために休みなく
働かされ、16歳の秀子の肉体はくたくたに疲れており、撮影中に
“極度の疲労”と“乾性肋膜炎”と“盲腸炎”と“急性日射病”
を併発して意識不明になって倒れたこともあった。
馬にまたがって駆けるシーンで振り落とされたりもした。
そういうとき、彼女の面倒を見るのは全て、黒澤助監督の仕事
だった。16歳の秀子は、25歳の黒澤青年に抱えられて
運ばれたり、おんぶされて旅館に送られたりした。

片や子役時代から日本中のアイドルだった娘ざかりの若手女優。
片やその頃からすでに将来を嘱望されていた新進気鋭の助監督。
父親のいない家庭で育った秀子は山本監督をはじめ、
年配の男性に凄まじく可愛がられたが、年齢の近い男性と身近に
なったのは、ほとんどこの黒澤明が初めての経験だった。
まして3年もひとつの映画に関わって価値観を共にしていて、
恋心が芽生えない方がおかしい。

次第に二人の仲は、撮影所公認になっていった。
だが、唯一それに反対だったのが、ステージ・ママであった
秀子の継母だった。親戚一党が彼女の稼ぎに依存していた
高峰家では、彼女の結婚はそのまま、食いぶちをとられることを
意味していた。母親は秀子を徹底した管理下に置き、手紙類なども
全て検閲した。秀子は、黒澤からのラブレターも、読んだらすぐに
細かく破いて捨てなくてはならなかった。

『馬』が完成してしばらくして、別の映画の撮影で撮影所に
行った秀子は、黒澤に再会した。嬉しそうに駆け寄る秀子に、
黒澤青年は言った。
「今度成城にアパートを借りたんだ。遊びにおいでよ」
「うん、きっと行く」
母親の監視下にある秀子にとり、それは冒険だったが、しかし
また、それだけで母の絶対的支配に反抗することになる、年頃の
女性にとって魔のように魅力的な行動だった。
二、三日後、秀子は母の目を盗んで家を出、成城の夜道を黒澤のアパート
まで必死に走った。黒澤の部屋をノックすると、ドアを開けた
黒澤は、黙って彼女を部屋に招き入れた。何と言っていいかわからない
ままに、二人は向いあって座った……そのとき、ドアが大きな
音を立てて開いた。そこには彼女の後を死に物狂いで追いかけてきた
のであろう、鬼のような形相の母の姿があった。娘を傷物に
される一歩手前で“救い出した”安堵感からか、次の瞬間、気を
失ったのは母の方だった。

まずいことに、このたった時間にして数時間の“逃避行”が
新聞に嗅ぎつけられ、しかも先走りされ、翌日の新聞に
「高峰秀子、黒澤明と婚約」
という記事が載った。母も東宝も驚き、専務の森岩雄と山本嘉次郎
が黒澤を呼びつけて、秀子と別れるように説得した。もちろん、
その席には秀子の母も同席した。彼女の口から、娘を泥棒猫の
ように奪おうとした黒澤に、どんな罵倒があびせられたか……。
一週間ものあいだ監禁同様にされていた秀子が再び撮影所に戻り、
黒澤に声をかけたとき、黒澤明は一言も口をきかず、くるりと
振り向いて彼女に背中を向け、去って行った。16歳の少女の
恋は、このようにして終わりを告げた。

……高峰秀子の自伝『わたしの渡世日記』その他から再構成したが、
秀子の母の横暴ぶりはともかくとして、黒澤明という人間の冷たさ
にちょっと疑問が残る。この冷たさは、後に彼の元を去った
本木荘二郎プロデューサーや、『トラ・トラ・トラ!』で反発した
レイ・ケロッグプロデューサーなどに対する態度にも見てとれる
もので、天才・黒澤明の心の中にはよほど深い人間不信があった
ことを意味するような気がする。いや、ひょっとして、その人間不信が
最初に芽生えたのは、このときの事件が元なのかもしれない。

しかし、彼女は黒澤ほどの人間不信には陥らなかった。
お坊ちゃんだった黒澤と違い、世の理不尽に対する抵抗力は
充分についていたのだろう。結局、彼女は戦後になって、
同じ監督の松山善三(『典子は、今』等)と結婚する。
サバサバした彼女のことだから夫に黒澤明の面影を重ね合わせる
ことなどはしなかったろうが、しかし私が松山善三であれば、
黒澤明と自分が比べられると思うだけでちょっと身震いする。

女優としての彼女は今更ここで改めてキャリアを書き記すまでもない。
映画の中の高峰秀子はどんな演技にも天性のユーモア感覚を
にじみださせていたが、上記『わたしの渡世日記』はじめとする
エッセイ群での文章がまた、凄まじく面白い。
他人に対する批評眼の鋭さがイヤミにならないのは、自分自身をも
突き放す、客観視が出来たからだろう。その上で吐くから、毒舌が
カラっとしていいのである。
「だめの子せんべい」
「イイカラカン」
「いつどこでゴザルかもしれないトシである」
などという独特の表現が実に楽しい。

そして、彼女の文章の中にはそのまま、日本の昭和文化史になる
というくらい、その日常には凄い有名人が続々と登場する。
「私は決して有名狂でない」
というその言葉にウソはなかろう。
別に吹聴しようとしないでも、彼女の回りには凄い人ばかりが
ワンサといたのである。映画監督たちは当然のこととして
省略するにしても、谷崎潤一郎、東海林太郎、藤田まさと、志賀
直哉、池島信平、梅原龍三郎、徳川夢声、古川緑波、宮城道雄、
大河内伝次郎、志賀直哉、川口松太郎……
自伝に出てくる綺羅星の如き名前を見ているだけでクラクラする。
そして、高峰の筆は、彼らに満腔の尊敬と愛情を抱いていつつも、
常にクールである。本質をついている。小津安二郎が彼女に
紅茶を入れてくれるまでの一連の“儀式”を描いたくだりなど、
どんな小津論よりも、小津があのような作風に至った理由が
理解できる分析に成り得ている。

ちなみに、中でも彼女に重度に恋い焦がれた大家の一人に、
『広辞苑』の編者である新村出がいる。新村博士の家はもう、
玄関から仕事場から、高峰秀子のポスターやブロマイドでいっぱい
だったそうだ。彼女(もう結婚している)に対する想いを詠んだ
新村博士の歌。
「わが老いらくの愛こそは
 詩聖ゲーテに勝るべらなれ」
日本一の爺さんキラーと言えるべらなり、というところか。

そんなに愛された自分にも、クールな目を注ぐことを、
彼女は忘れない。
「子供のころの私は、そんなに可愛かったのだろうか? 今、
私がだれからも憎らしい憎らしいと敬遠されるのは、可愛かった
子供時代のハネかえりかもしれない」
と書くあたりが彼女の真骨頂だろう。

日本の戦後は、高峰秀子あるによって精神的に豊かだった。
黙祷。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa