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2010年12月17日投稿

新しい映画を創った男 【訃報 アーサー・ペン】

所詮われわれの世代は映画と言えばアメリカン・ニューシネマ
なのである。スターと言えばジョン・ウェインでも
ケイリー・グラントでもなく、ポール・ニューマンであり
ダスティン・ホフマンでありジャック・ニコルソンなのだ。
アメリカは素晴らしき開拓地ではなく、戦争・宗教・人種など
さまざまな問題のルツボであり、そこに生きる若者は
体制との摩擦を常に感じて生きている。
自分に正直に生きようとすれば反体制にならざるを得ず、しかし
反体制であることで若者たちは“青春”という一時期を強烈に
自分の人生に刻むことが可能な、よき時代であった……。
要は“ニュー”と名乗っていても、おのれの若き日への
ノスタルジアが基調なのですね。

だから、ニューシネマの作品群は、深刻な問題を扱っている癖に
甘っちょろい。ほぼ全ての作品に、いやにセンチメンタルな
主題歌が流れる。で、なければ懐かしのフォークロア・ソングだ。
実は反体制はきどっていても、彼らはアメリカが好きなんですね。
これほどアメリカべったりな映画群はなかったと言っていい。
……ただ、その底に、極めてクールな諦念があることは忘れて
もらいたくない。夢や幻想でなく、われわれは常に現実に
生きているんだ、という諦念が、ニューシネマの基本だった。

その流れを作ったのが59年の『俺たちに明日はない』(この
日本版タイトルも甘っちょろいが故に成功した。原題は単に
『Bonnie and Clyde』である)。反体制、というか犯罪者を主人公に
置きながらも、時代が大恐慌時代であり、犯罪に走るのもやむなし、
というエクスキューズがつく。体制に圧迫された農民たちが主人公
二人に同情を寄せるという描写も何とも甘っちょろい。一時はその
甘っちょろさに反発したこともあった。……しかし、改めて見てみると、
その甘々なところが実にいいんですね。で、よく見れば行き当たり
ばったりの主人公たちの行動が、結局のところ行き詰まって壮絶な
死を迎える、その道筋は最初から引かれている。後の、単に
甘いだけのニューシネマと違い、基本はギリシア悲劇のように、
滅亡へと向う道は究めてクールに設定されているのだ。

その監督のアーサー・ペン、9月28日死去。88歳。
舞台監督出身、兄は世界的写真家のアーヴィング・ペン。
兄も昨09年の10月に亡くなっており、ほぼ一年後の死
であった。

映画デビュー作はポール・ニューマン主演の『左ききの拳銃』。
これはゴア・ヴィダルの舞台劇で、それでその演出をした
ペンに監督が回ってきたのだが、舞台の人にも関わらずペンの
カメラ使いは見事で、ニューマンのビリー・ザ・キッドに
撃たれるガンマンの描写を、撃たれる側からのアングルで撮るなど
凝りに凝っていた。さらに“ウォーター!”で有名な『奇跡の人』
もW・ギブスンの戯曲の映画化。この映画でも、小道具の使い方、
水の描写が極めて映画的で、ペンという人の多才さが際立っていた。

いかにもペンらしい、という意味で彼の最高傑作はダスティン・
ホフマンを主演に据えた『小さな巨人』であろう。
運命に翻弄され、白人とインディアンの間を行き来する主人公。
その“ウソのようなホントウの話”を通じ、明らかな“ウソ”で
あるカスター将軍の英雄譚の虚飾があばかれていく。この映画で
カスターを演じたのはテレビ『ソープ』で顔を知られたコメディ畑の
リチャード・マリガン。大芝居で、功名心にかられたカスターの
悲喜劇を見事に表現していた。アカデミー賞をとったチーフ・ダン・
ジョージに、ラストで涙のシーンとなると思わせて……、というオチを
やらせるのもいい。全編ホラ話のようなこの映画が、ペンの作品
の中でもっとも“甘っちょろさ”のない作品だったのではあるまいか。

もちろん、そういったニューシネマ世代の反体制的気質でペンを
語ることは視野を狭くしてしまうだろう。演出家としてのペンはもっと
柔軟で、アメリカ建国伝説の英雄であるカスター将軍や、アウトロー
神話に彩られたビリー・ザ・キッドの生涯の伝説の虚飾を剥いでみせた
一方で、『奇跡の人』でヘレン・ケラーが“ウォーター!”と
叫んだという、新たな伝説を定着させてしまっている(あのシーンは
原作戯曲の創作である)。ペンは思想の人というよりは
テクニック(技法)の人であったと思う。

とはいえ。
どこがというより全編、見事なテクニックで構成されているこの
作品と、まだ手探りで作られていた『俺たちに〜』を比べて、
どちらに映画としての魅力があるかというと、絶対に『俺たちに〜』
なのである。あれは極めて単純なストーリィであり、それ故に
こちらの心にダイレクトにテーマが伝わってきた。
それに比べると、どうみても『小さな〜』は悪凝りだった。
テーマもわかる、それをなぜこのようなテクニックで
撮ったのか、という理由も理解できる。しかし、“凝っては思案の他”
なのである。映画の最後の最後、121歳のホフマンの
語る話のあまりの奇想天外さについていけなくなったインタビュアー
が、肩をすくめて部屋を出ていく。それと同じ気分を私は映画館で
味わっていたように思う。

そしてさらにペンの凝り様が徹底した怪作西部劇『ミズーリ・
ブレイク』は、マーロン・ブランドとジャック・ニコルソンという
濃すぎる親父二人の顔合わせもさることながら、冒頭の“美しすぎる”
絞首刑の風景、ブランドに一人々々始末されていくお尋ね者たちの、
必殺シリーズもかくやと思わせる殺され方(ハリー・ディーン・
スタントンなど、十字手裏剣で額を木に釘付けにされる!)など、
もうゲップが出ますという感じで、映画自体も油あたりがしたような
作品になってしまっていた。

その後、急速にペンの撮る映画は地味になってくる。
あまりにイジイジした映画ばかりが横行した反動で、ブライアン・
デ・パルマやスティーブン・スピルバーグといった徹底娯楽派が
台頭してきたこともあり、そして77年の『スター・ウォーズ』で、
アメリカン・ニューシネマブームはとどめを刺され、それ以降の
ペンの映画は『ターゲット』のようなアクションや、『冬の嵐』
のようなサスペンスで小技を巧みに使うという地味めなものに
とどまるようになった。晩年は主にテレビムービーを撮っていた
ようである。彼もやはり時代の子として、その時代が過ぎ去った
後、早く過去の人になってしまったような気がする。
「スピルバーグの優しい映画は大好きだ。しかし、私にはとても
撮れないね」
という言葉の裏には、スピルバーグのつむいでみせる“夢”に
つい、虚飾を感じてしまうニューシネマ世代の本音があるだろう。

とはいえ、やはり、所詮私はアメリカン・ニューシネマで
映画にハマった人間なのである。甘っちょろさでコーティングされた
諦念に涙してしまうようにすでに体がなってしまっている。
その流れを作ったアーサー・ペンこそ、私を作った人間なのだ。
あの、名画座の薄暗い空間で、ペンの映画を見ていたあの時期の至福。
死ぬ前にあの感覚をもう一度、味わえるだろうか。

R.I.P.

Copyright 2006 Shunichi Karasawa