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2010年7月8日投稿

居場所を見つけた男【訃報 ラッシャー木村】

5月24日、死去。腎不全による誤飲性肺炎。
ミクシィニュースでの訃報記事へのコメントの多さに驚いた。
愛されていたんだなあ、と思う。
人間の運命というものはわからない。
もし、木村があのまま国際プロレスのエースのままだったとしたら、
プロレスファン、それも“通”を気取るひねたマイナープロレスファンの
賛辞を受けるくらいで終っていたのではあるまいかと思われる。

その国際プロレスが倒産し、新日本プロレスに拾われ、
猪木のかませ犬として、似合わぬ悪役稼業。
どう考えたってアングルだろ、としか思えない国際軍団の
殴り込み、三対一デスマッチなどの“作られたストーリィ”にも、
当時の猪木についていたカルト信者的なファンは反応し、
木村の家には石が投げられたりし、愛犬家だった木村は犬にまで
被害が及ばないかとかなり心痛したらしい(実際、愛犬は
ストレスで死んだらしい)。

一度、東京駅のレストランで食事をしていたら、目の前に
木村が座ったことがあった。はぐれ国際軍団で新日に殴り込んで
いたころである。巨大な塊、と形容したくなるような体格を駅のレストランの
小さい椅子に押し込め、黙々と定食を食べるその姿の強烈な印象は
いまだに脳裏に明瞭に残っている。
私が立ったあと、その席に座った学生の二人連れは、前の席の木村を
確認したとたん、思わず
「ラッシャーだあ〜」
と口に出して叫んだが、木村は彼らに(もちろん私にも)一瞥も
くれなかった。悪役はファンに媚を売ってはいけない、と
自らを律していたのだろう。
「男は三年に片頬」
というのがモットーだ、と後に雑誌で読んだが、いや、しかし
プロのレスラーとしてそれはどうか、と、その行き方の不器用さに
いささか心配になった。猪木戦を振り返った当時のスポーツ新聞の
記事にも、“不器用な木村を猪木は徹底していたぶった”と書かれていた。

ところがどうして。
その後の木村は不器用どころか、行く先々で個性を発揮し、
存在感を(自分の希望のそれだったかどうかは別に)印象づけていく。
ひょっとして、プロレスラーの生き方としては最も器用だったとさえ
言えるのではあるまいか。
そのきっかけはやはり、親日に殴り込んだときの、リング上での
「こんばんは」
の挨拶だろう。あれくらいアタリマエで、かつあの場において異様な
一言はなかった。普通なら“使えないヒール”として抹殺されてしまったろう。
それが、当時の日本における新感覚ギャグの勃興にぶちあたった。
つまり、お笑いの世界が、それまでの“プロによる作られた笑い”から、
“素人のかもしだすたくまざるユーモア”にトレンドが移行していった
時代だったのだ。『欽ちゃんのドンといってみよう』や『オレたち
ひょうきん族!』などで、コメディアンたちは素人いじりに日々、
精を出していた。そのムーブメントに、木村の“こんばんは”は見事に
ハマったのである。彼もまた、あきらかな“時代の子”だったのだ。

マイク・パフォーマンス・タレントとして有名になったその自分の
アクシデントによる人気を木村は驚いたことにきちんとキャッチし、
『イカ天』のレギュラー審査員の座を得たり、全日に移籍してからは
彼のパフォーマンスがその日の一番の受け、などというときもあった。
「こんばんは」などという、日本人なら誰もが口にする一言で
運命が変わってしまった人間も、木村くらいだろうと思うが、しかし
そのチャンスを逃さなかったのは、流れ者としての悲哀を徹底して
味わった彼が、“印象に残ったものが勝ち”という、ついにリング上で
つかめなかった秘訣を(金網デスマッチはその試合形式が印象に
残ったので、木村自身が印象に残ったのではない)、そこでつかんだ
からだと思うのである。

プロレスの実力は強さだけではない。木村はあのアンドレ・ザ・
ジャイアントを、新人の頃だったとはいえギブ・アップさせた力を持つ。
しかし、しょせんはマイナーなレスラーだった。
力道山時代にわずかに遅れてプロレス入りした(日本プロレスに入った
のが力道山の死去の翌年だった)彼は、すでにスターだった馬場や猪木
の靴を揃えさせられるところからスタートした。彼ら二人は生涯、木村を
格下扱いしたし、木村もそれを当然と思い、その上に行こうとは
思わなかったようだ。上下関係の厳しい角界からプロレス入りした
者の哀しい宿命かもしれない(最初からトップに立った力道山は例外)。
プロレス界で当時ブレイクしたのは長州力の“下克上”だったのだ。
そっちに見事乗ったのは、同じ国際出身のアニマル浜口だった。

人間、どこに居場所を見つけるか、誰にもわからない。
私の知り合いが監督した映画に出演した木村(私もガヤで出演しているので
私と木村は映画で共演したことになる)は、素人っぽさを残しながら
よどみのない見事なセリフ回しで、試写を見た私を感心させた。
すでにタレントとして、馬場や猪木と並ぶ人気者になっていた頃だ。
あの素人っぽさはひょっとして、木村の演出だったのかもしれない
と思う。やっと自分がハマる場所を見つけた木村は、その位置を
努力してたもとうと、真剣に向き合っていたのではないか。
馬場の死去の後、NOAHに移籍し、そこで引退したが、社長の
三沢は“木村さんは終身、NOAHの所属”と言っていた。
居場所がプロレス人生の最後に見つかって、本当によかったと思う。

享年68。早い、とは思うが兄貴の馬場が61歳、鶴田49歳、
国際で一緒だった剛竜馬は51歳、最後に所属したNOAHの社長
三沢も46歳で逝っている。
あの時代のレスラーとしてはまずまず、生きられた方ではあるまいか。
天国で熱い“昭和のプロレス”をくり広げてもらいたい。
黙祷。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa